仏教聖典第237版 はげみ さまざまな道
第二節 さまざまな道
一、さとりを求めるものが学ばなければならない三つのことがある。それは戒律と心の統一(定じょう)と智慧の三学である。
戒とは何であるか。人として、また道を修める者として守らなければならない戒を保ち、心身を統制し、五つの感覚器官の入口を守って、小さな罪にも恐れを見、善い行いをして励み努めることである。
心の統一とは何であるか。欲を離れ不善を離れて、次第に心の安定に入ることである。
智慧とは何であるか。四つの真理を知ることである。それは、これが苦しみである、これが苦しみの原因である、これが苦しみの消滅である、これが苦しみの消滅に至る道であると、明らかにさとることである。
この三学を学ぶものが、仏の弟子といわれる。
驢馬が、牛の形も声も角もないのに、牛の群れの後ろからついてきて、わたしも牛であると言っても、だれも信用しないように、この戒と心の統一と智慧の三学を学ばないでいて 、わたしは道を求める者である、仏の弟子であると言っても、それは愚かなことである。
農夫が秋に収穫を得るために、まず春のうちに田を耕し、種をまき、水をかけ、草を取って育てるように、さとりを求める者は、必ずこの三学を学ばなければならない。農夫が、まいた種が今日のうちに芽を出し、明日中に穂が出て、明後日には刈り入れができるようにと願ってもそれはできないことであるように、さとりを求める者も、今日のうちに煩悩を離れ、明日中に執着をなくし、明後日にはさとりを得るというような不思議は得られるものではない。
種はまかれてから、農夫の辛苦と、季節の変化を受けて芽が生じ、ようやく最後に実を結ぶ。さとりを得るのもそのように、戒と心の統一と智慧の三学を修めているうちに次第に煩悩が滅び、執着が離れ、ようやくさとりの時が来るのである。
二、この世の栄華にあこがれ、愛欲に心を乱していながら、さとりの道に入ろうとするのは難い。世を楽しむことと道を楽しむこととはおのずから別である。
すでに説いたように、何ごとも心がもとである。心が世の中のことを楽しめば、迷いと苦しみが生まれ、心が道を好めば、さとりと楽しみが生まれる。
だから、さとりを求める者は、心を清らかにして教えを守り、戒を保たなければならない。戒を保てば心の統一を得、心の統一を得れば智慧が明らかになり、その智慧こそ人をさとりに導く。
まことに、この三学はさとりへの道である。三学を学ばないために、人びとは迷いを重ねてきた。道に入って、他人と争わず、静かに内に想いをこらして心を清め、速やかにさとりを得なければならない。
三、この三学は、開けば八正道(はっしょうどう)となり、四念住(しねんじゅう)、四正勤(ししょうごん)、五力(ごりき)、六波羅蜜(ろっぱらみつ)とも説かれる。
八正道は、正しいものの見方、正しいものの考え方、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念(おも)い、正しい心の統一である。
正しいものの見方とは、四つの真理【四諦(したい)】を明らかにして、原因・結果の道理を信じ、誤った見方をしないこと。
正しい考え方とは、欲にふけらず、貪らず、瞋らず、害(そこ)なう心のないこと。
正しいことばとは、偽りと、むだ口と、悪口と、二枚舌を離れること。
正しい行いとは、殺生と、盗みと、よこしまな愛欲を行わないこと
正しい生活とは、人として恥ずべき生き方を避けること
正しい努力とは、正しいことに向かって怠ることなく努力すること
正しい念(おも)いとは、正しく思慮深い心を保つこと
正しい心の統一とは、誤った目的を持たず、智慧を明らかにするために、心を正しく静めて心の統一をすることである。
四、四念住(しねんじゅう)とは次の四つである。
わが身は汚れたもので執着すべきものではないと見る。
どのような感じを受けても、それはすべて苦しみのもとであると見る。
わが心は常にとどまることがなく、絶えずうつり変わるものと見る。
すべてのものはみな原因と条件によって成り立っているから、一つとして永久にとどまるものはないと見る。
五、四正勤(ししょうごん)とは次の四つである。
これから起ころうとする悪は、起こらない先に防ぐ。
既に起こった悪は、断ち切る。
これから起ころうとする善は、起こるようにしむける。
すでに起こった善は、いよいよ大きくなるように育てる。
この四つを努めることである。
六、五力とは、次の五つである。
信ずること。
努めること。
思慮深い心を保つこと。
心を統一すること。
明らかな智慧を持つこと。
この五つがさとりを得るための力である。
七、六波羅蜜(ろっぱらみつ)とは、布施・持戒・忍辱(にんにく)・精進・禅定・智慧の六つのことで、この六つを修めると、迷いの此の岸から、さとりの彼の岸へと渡ることができるので、六度ともいう。布施は、惜しみ心を退け、持戒は行いを正しくし、忍辱は怒りやすい心を治め、精進は怠りの心をなくし、禅定は散りやすい心を静め、智慧は愚かな瞑(くら)い心を明らかにする。
布施と持戒とは、城を作る礎(いしずえ)のように、修行の基(もと)となり、忍辱と精進とは城壁のように外難を防ぎ、禅定と智慧とは、身をもって生死を逃れる武器であり、それは甲冑に身をかためて敵に臨むようなものである。
乞う者を見て与えるのは施しであるが、最上の施しとはいえない。心を開いて、自ら進んで他人に施すのが最上の施しである。また、ときどき施すのも最上の施しではない。常に施すのが最上の施しである。
施した後で悔いたり、施して誇りがましく思うのは、最上の施しではない。施して喜び、施した自分と、施しを受けた人と、施した物と、この三つをともに忘れるのが最上の施しである。
正しい施しは、その報いを願わず、清らかな慈悲の心をもって、他人も自分も、ともにさとりに入るように願うものでなければならない。
世に無財の七施とよばれるものがある。財なき者にもなし得る七種の布施行のことである。
一には身施(しんせ)、肉体による奉仕であり、その最高なるものが次項に述べる捨身行(しゃしんぎょう)である。
二には心施(しんせ)、他人や他の存在に対する思いやりの心である。
三には眼施(げんせ)、やさしきまなざしであり、そこのいるすべての人の心がなごやかになる。
四には和顔施(わげんせ)、柔和な笑顔を絶やさないことである。
五には言施(ごんせ)、思いやりのこもったあたたかい言葉をかけることである。
六には牀座施(しょうざせ)、自分の席をゆずることである。
七には房舎施(ぼうしゃせ)、我が家を一夜の宿に貸すことである。
以上の七施ならば、だれにでも出来ることであり、日常生活の中で行えることばかりなのである。
八、昔、薩埵(さった)太子という王子がいた。ある日、二人の兄の王子と森に遊んで、七匹の子を産んだ虎が飢えに迫られて、あわやわが子を食べようとするのを見た。
二人の王子は恐れて逃げたが、薩埵太子だけは身を捨てて飢えた虎を救おうと、絶壁によじのぼって、身を投げて虎に与え、その母の虎の飢えを満たし、虎の子の命を救った。薩埵太子の心は、ただ一筋に道を求めることにあった。
「この身は砕けやすく変わりやすい。いままで施すことを知らず、ただわが身を愛することにばかりかかわってきた自分は、いまこそこの身を施して、さとりを得るために捧げよう。」
この決心によって、王子は飢えた虎にその身を施したのである。
九、またここに、道を求める者の修めなければならない慈(じ)と悲(ひ)と喜(き)と捨(しゃ)の四つの大きな心(四無量心しむりょうしん)がある。
慈を修めると貪りの心を断ち、悲を修めると瞋りの心を断ち、喜は苦しみを断ち、捨は、恩と恨みのいずれに対しても差別を見ないようになる。
多くの人びとのために、幸福と楽しみとを与えることは、大きな慈である。
多くの人びとのために、苦しみと悲しみをなくすことが大きな悲である。
多くの人びとに歓喜の心をもって向かうのが大きな喜である。
すべてのものに対して平等で、分け隔てをしないのが大きな捨である。
このように、慈と悲と喜と捨の四つの大きな心を育てて、貪りと瞋りと苦しみと愛憎の心を除くのであるが、悪心の去り難い心とは飼い犬のようであり、善心の失われやすいことは林を走る鹿のようである。また、悪心は岩に刻んだ文字のように消えにくく、善心は水に画いた文字のように消えやすい。だから道を修めることはまことに困難なものといわなければならない。
十、世尊の弟子シュローナは富豪の家に生まれ、生まれつき体が弱かった。世尊にめぐり会ってその弟子となり、足の裏から血を出すほど痛々しい努力を続け、道を修めたけれども、なおさとりを得ることができなかった。
世尊はシュローナを哀れんで言われた。
「シュローナよ、おまえは家にいたとき、琴を学んだことがあるであろう。糸は張ること急であっても、また緩くても、よい音はでない。緩急よろしきを得て、はじめてよい音を出すものである。
さとりを得る道もこれと同じく、怠れば道を得られず、またあまり張りつめて努力しても、決して道は得られない。だから、人はその努力についても、よくその程度を考えなければならない。」
この教えを受けて、シュローナはよく会得し、やがてさとりを得ることができた。
十一、昔、五武器太子とよばれる王子がいた。五種の武器を巧みにあやつることができたので、この名を得たのである。
修行を終えて郷里に帰る途中、荒野の中で、脂毛(しもう)という名の怪物に出会った。
脂毛は、そろそろと歩いて王子に迫ってきた。王子はまず矢を放ったが、矢は脂毛に当たっても毛にねばりつくばかりで傷つけることができない。剣も鉾も棒も槍も、すべて毛に吸い取られるだけで役に立たない。
武器をすべてなくした王子は、こぶしを上げて打ち、足を上げて蹴ったが、こぶしも足もみな毛に吸いつけられて、王子の身は脂毛の身にくっついて宙に浮いたままである。頭で脂毛の胸を打っても、頭もまた胸の毛について離れない。
脂毛は、「もうおまえはわしの手の中にある。これからおまえを餌食にする。」と言うと、王子は笑って、
「おまえはわたしの武器がすべて尽きたように思うかも知れないが、まだわたしには金剛の武器が残っている。おまえがもしわたしをのめば、わたしの武器はおまえの腹の中からおまえを突き破るであろう。」と答えた。
そこで脂毛は王子の勇気にくじけて尋ねた。
「どうしてそんなことができるのか。」
「真理の力によって。」と王子は答えた。
そこで脂毛は王子を離し、かえって王子の教えを受けて、悪事から遠ざかるようになった。
十二、おのれに恥じず、他にも恥じないのは、世の中を破り、おのれに恥じ、他にも恥じるのは世の中を守る。慚愧(ざんぎ)の心があればこそ、父母・師・目上の人を敬う心も起こり、兄弟姉妹の秩序も保たれる。まことに、自ら省みて、わが身を恥じ、人の有様を見ておのれに恥じるのは、尊いことといわなければならない。
慚愧の心が起これば、もはや罪は罪でなくなるが、慚愧の心がないならば、罪は永久に罪として、その人をとがめる。
正しい教えを聞いて、いくたびもその味わいを思い、これを修め習うことによって、教えが身につく。思うこと修めることがなければ、耳に聞いても身につけることはできない。
信と慚(ざん)と愧(ぎ)と努力と智慧とは、この世の大きな力である。
このうち、智慧の力が主であって、他の四つは、これに結びつく従の力である。
道を修めるのに、雑事にとらわれ、雑談にふけり、眠りを貪るのは、退歩する原因である。
十三、同じく道を修めても、先にさとる者もあれば、後にさとる者もある。だから、他人が道を得たのを見て、自分がまだ道を得ていないことを悲しむには及ばない。
弓を学ぶのに、最初に当たることが少なくても、学び続けていればついには当たるようになる。また、流れは流れ流れてついには海に入るように、道を修めてやめることがなければ、必ずさとりは得られる。
前に説いたように、眼を開けば、どこにでも教えはある。同様に、さとりへの機縁も、どこにでも現われている。
香をたいて香気の流れたときに、その香気の、あるのでもなく、ないのでもなく、行くのでもなく、来るのでもないさまを知って、さとりに入った人もある。
道を歩いて足に棘(とげ)を立て、疼きの中から、疼きを覚えるのは、もともと定まった心があるのではなく、縁に触れていろいろの心となるのであって、一つの心も、乱せば醜い煩悩となり、おさめれば美しいさとりとなることを知って、さとりに入った人もある。
欲の盛んな人が、自分の欲の心を考え、欲の薪がいつしか智慧の火となるものであることを知って、ついにはさとりに入って例もある。
「心を平らにせよ。心が平らになれば、世界の大地もみなことごとく平らになる。」という教えを聞いて、この世の差別は心の見方によるものであると考えて、さとりに入った人もある。まことにさとりの縁には限りがない。