拈華微笑 南無父母不二佛

何でも仏教徒として思いついたことを書きます

仏教聖典第237版 はげみ 第二章 実践の道

第二章 実践の道


第一節 道を求めて


一、この宇宙の組み立てはどういうものであるか、この宇宙は永遠のものであるか、やがてなくなるものであるか、この宇宙は限りなく広いものであるか、それとも限りあるものであるか、社会の組み立てはどういうものであるか、この社会のどういう形が理想的なものであるか。これらの問題がはっきりきまらないうちは、道を修めることはできないというならば、だれも道を修め得ないうちに死が来るであろう。


 例えば、人が恐ろしい毒矢に射られたとする。親戚や友人が集まり、急いで医者を呼び毒矢を抜いて、毒の手当をしようとする。


 ところがその時、その人が、
「しばらく矢を抜くのを待て。だれがこの矢を射たのか、それを知りたい。男か、女か、どんな素性のものか、また弓は何であったか、大弓か小弓か、木の弓か竹の弓か、弦(つる)は何であったか、藤弦(ふじづる)か、筋(すじ)か、矢は籐(とう)か葦(あし)か、羽根は何か、それらがすっかりわかるまで矢を抜くのは待て。」と言ったら、どうであろうか。


 いうまでもなく、それらのことがわかってしまわないうちに、毒は全身に回って死んでしまうに違いない。この場合にまずしなければならないことは、まず矢を抜き、毒が全身に回らないように手当をすることである。


 この宇宙の組み立てがどうであろうと、この社会のどういう形のものが理想的であろうとなかろうと、身に迫ってくる火は避けなくてはならない。


 宇宙が永遠であろうとなかろうと、限りがあろうとなかろうと、生と老と病と死、愁(うれ)い、悲しみ、苦しみ、悩みの火は、現に人の身の上におし迫っている。人はまず、この迫っているものを払いのけるために、道を修めなければならない。


 仏の教えは、説かなければならないことを説き、説く必要のないことを説かない。すなわち、人に、知らなければならないことを知り、断たなければならないものを断ち、修めなければならないものを修め、さとらなければならないものをさとれと教えるのである。


 だから、人はまず問題を選ばなければならない。自分にとって何が第一の問題であるか、何が自分にもっともおし迫っているものであるかを知って、自分の心をととのえることから始めなければならない。


二、また、樹木の芯(しん)を求めて林に入った者が、枝や葉を得て芯を得たように思うならば、まことに愚かなことである。ややもすると、人は、木の芯を求めるのが目的でありながら、木の外皮や内皮、または木の肉を得て芯を得たように思う。


 人の身の上に迫る生と老と病と死と、愁い、悲しみ、苦しみ、悩みを離れたいと望んで道を求める。これが芯である。


 それが、わずかな尊敬と名誉とを得て満足して心がおごり、自分をほめて他をそしるのは、枝葉を得ただけにすぎないのに芯を得たと思うようなものである。


 また、自分のわずかな努力に慢心して、望んだものを得たように思い、満足して心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の外皮を得て芯を得たと思うようなものである。


 また、自分の心がいくらか静まり安定を得たとして、それに満足して心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の内皮を得て芯を得たと思うようなものである。


 また、いくらかものを明らかに見る力を得て、これに眼がくらんで心が高ぶり、自分をほめて他をそしるのは、木の肉を得て芯を得たと思うようなものである。これらのものはすべて、気がゆるんで怠(おこた)り、ふたたび苦しみを招くに至るであろう。


 道を求める者にとっては、尊敬と名誉と供養を受けることがその目的ではない。わずかな努力や、多少の心の安定、またわずかな見る力が目的ではない。


 まず最初に、人はこの世の生と死の根本的な性質を心に留めなければならない。


三、世界はそれ自体の実体を持っていない。心のはからいをなくす道を得なければならない。外の形に迷いがあるのではなく、内の心が迷いを生ずるのである。


 心の欲をもととして、この欲の火に焼かれて苦しみ悩み、無明(むみょう)をもととして、迷いの闇に包まれて、愁い悲しむ。迷いの家を造るものはこの心の他にないことを知って、道を求める人は、この心と戦って進んでゆかなければならない。


四、「わが心よ、おまえはどうして、無益な境地に進んで少しの落着きもなく、そわそわとして静かでないのか。


 どうしてわたしを迷わせて、いたずらに、ものを集めさせるのか。


 大地を耕そうとして、鍬がまだ大地に触れないうちにこわれてしまっては耕すことができないように、生死の迷いの海にさまよっていたので、数知れない生命を捨てたのに、心の大地の耕されることはなかった。


 心よ、おまえはわたしを王者に生まれさせたこともある。また貧しい者に生まれさせて、あちこちに食を乞(こ)い歩かせたこともある。


 ときにはわたしを神々の国に生まれさせ、栄華の夢に酔わせたこともあるが、また地獄の火で焼かせたこともある。


 愚かな心よ、おまえはわたしをさまざまな道に導いた。わたしはこれまで、常におまえに従ってそむくことはなかった。


 しかし、今やわたしは仏の教えを聞く身となった。もはやわたしを悩ませたり、妨(さまた)げたりしないでくれ。どうかわたしが、さまざまな苦しみから離れて、速やかにさとりを得られるように努めてくれ。


 心よ、おまえが、すべてのものはみな実体がなくうつり変わると知って、執着することなく、何ものもわがものと思うことがなく、貪り、瞋り、愚かさを離れさせすれば、安らかになるのである。


 智慧の剣をもって愛欲の蔓(つる)を断ち、利害と損得と、たたえとそしりとにわずらわされることがなくなれば、安らかな日を得ることができるのである。


 心よ、おまえは、わたしを導いて道を求めることを思い立たせた。ところがいま、どうしてまたふたたび、この世の利欲と栄華にひかれて、動き回ろうとするのであるか。


 形がなくて、どこまでも遠く駆けてゆく心よ。どうか、この超え難い迷いの海を渡らせてくれ、これまでわたしは、おまえの思うとおりに動いてきた。


 しかし、これからは、おまえはわたしの思うとおりに動かなければならない。我らはともに仏の教えに従おう。


 心よ、山も川も海も、すべてはみなうつり変わり、災いに満ちている。この世のどこに楽しみを求めることができようか。教えに従って、速やかにさとりの岸にわたろうではないか。」


五、このように心と戦って、真に道を求める人は、常に強い覚悟をもって進むから、あざけりそしる人に出会ってもそれによって心を動かすことはない。こぶしをもって打ち、石を投げつけ、剣をもって斬りかかる人があっても、そのために瞋りの心を起こすことはない。


 両刃の鋸によって頭と胴とが切り放たれるとしても、心乱れてはならない。それによって心が暗くなるならば、仏の教えを守らない者である。


 あざけりも来(きた)れ、そしりも来れ、こぶしも来れ、杖や剣の乱打も来れ、わが心はそのために乱れることはない。それによって、かえって仏の教えが心に満たされるであろうと、かたく覚悟しているのである。


 さとりのためには、成しとげ難いことでも成しとげ、忍び難いことでもよく忍び、施し難いものでもよく施す。


 日に一粒の米を食べ、燃えさかる火の中に入るならば、必ずさとりを得るだろうという者があれば、そのとおりにすることを少しも辞さない。


 しかし、施しても施したという思いを起こさず、ことをなしてもなしたという思いを起こさない。ただそれが賢いことであり正しいことだからするのである。


それは母親が一枚の着物を愛するわが子に与えても、与えたという心を起こさず、病む子を看護しても、看護したという思いを起こさないのと同じである。


六、遠い昔、ある王があった。王は智慧明らかで慈悲深く、民を愛し、国は豊かに安らかに治まっていた。また、王は道を求める心があつく、常に財宝を用意して、どんな人でも、尊い教えを示してくれる者には、この財宝を施すであろうと、布告していた。


 この、王の道を求めるまごころには、神の世界も震え動いたが、神は王の心を確かめるために、鬼の姿となって、王の宮殿の門の前に立った。


 「わたしは尊い教えを知っている。王にとりついでもらいたい。」
王はこれを聞いて大いに喜び、うやうやしく奥殿に迎えて、教えを聞きたいと願った。すると鬼は、刃のように恐ろしい牙をむきだして、


「いまわたし非常に飢えている。このままではとても教えを説くことはできない。」と言う。


 それでは食物をさし上げようというと、
「わたしの食物は、熱い人間に血と肉でなければならない。」と言う。
そのとき、王子は、すすんでわが命を捨てて、鬼の飢えを満たそうと言い、王妃もまた進んでその身を餌食(えじき)にしようとした。ここに鬼は二人の身を食べたが、なお飢えを満たすことができず、さらに王の身を食べたいという。


 そのとき王は静かに言った。
「わたしは命を惜しまない。ただ、この身がなくなれば教えを聞くことができないから、おまえが説き終わったそのときにこの身を与えよう。」


 鬼はそのとき、


 「愛欲より憂いは生じ、愛欲より恐れは生ずる。愛欲を離れし人に憂いなし、またいずこかに恐れあらん。」


と説いて、たちまち神の姿にかえった。
それと同時に、死んだはずの王子も、夫人も、もとの姿にたちかえった。


七、昔、ヒマラヤ山に真実を求める行者がいた。ただ迷いを離れる教えを求めて、そのほかは何も求めるものがなく、地上に満ちた財宝はもとより、神の世界の栄華さえ望むところではなかった。


 神はこの行者の行いに感動し、その心を試そうと鬼の姿となってヒマラヤ山に現われ、


「ものはみなうつり変わり、現われては滅びる。」と歌った。


 行者はこの歌声を聞き、渇いたものが水を得たように、また囚われたものが放たれたように喜んで、これこそまことの理(ことわり)である、まことの教えであると思い、彼はあたりを見まわして、だれがこの尊い詩を歌ったのであろうかとながめ、そこに恐ろしい鬼を見いだした。怪しみながらも鬼に近づいて、「先ほどの歌はおまえの歌ったものか。もしそうなら、続きを聞かせてもらいたい。」と願った。


 鬼は答えた。
「そうだ、それはわたしの歌だ。しかし、わたしはいま飢えているから、何か食べなくては歌うことができない。」


 行者はさらに願った。
「どうかそう言わずに、続きを聞かせてもらいたい。あの歌には、まことに尊い意味があり、わたしの求めているものがある。しかし、あれだけでは言葉は終わっていない。どうか歌の残りを教えていただきたい。」


 鬼はさらに言う。
「いまわたしは空腹に耐えられない。もし人の温かい肉を食べ、血をすすることができるならば、あの歌の続きを説くであろう。」


 これを聞いた行者は、続きの歌を聞かせてもらえるならば、聞き終わってから、自分の身を与えるであろうと約束した。


 鬼はそこで、残りを歌い、歌は完全なものとなった。それはこうである。


「ものはみなうつり変わり、現われては滅びる。生滅にとらわれることなくなりて、静けさと安らぎは生まれる。」


 行者はこの歌を木や石に彫りつけ、やがて木の上にのぼり、身をおどらせて鬼の前に投げ与えた。その瞬間、鬼は神の姿にかえり、行者の身は神の手に安らかに受けとめられた。


八、昔、サダープラルディタ(常啼じょうたい)という求道者があった。ひたすらにまことのさとりを求め、名誉利欲に誘われず、懸命であった。ある日、空中に声があり、


 「サダープラルディタよ、ただ東にすすめ。わきめもふらず、暑さ寒さを忘れ、世の毀誉にかかわらず、善悪のはからいにとらわれず、ひたすら東にすすめ。必ずまことの師を得て、さとりを得るであろう。」と教えた。


 彼は大いに喜び、声の教えたとおり、ただまっしぐらに東に進んで道を求めた。野に伏し、山に眠り、また異国の旅の迫害と屈辱を忍び、時には身を売って人に仕え、骨を削る思いをしてその日の糧を得つつ、ようやくまことの師のもとにたどりついて教えを請うた。


 世に、好事魔多しという。善いことをしようとすれば必ず障(さわ)りがでるものである。サダープラルディタの求道の旅にも、この障りはいくたびとなく現われた。


 師に捧げる香華(こうげ)のもとでを得たいと思い、身を売って人に仕え、賃金を得ようとしても、やとい手がいない。悪魔の妨げの手は彼の赴くところ、どこのでも伸びていた。


 さとりへの道はまことに血を枯らし骨を削る苦難の旅であった。


 師について教えを受け、尊いことばを記そうと思っても、紙も墨も得ることができない。彼は刀をとって自分の腕を突き、血を流して師のことばを記した。このようにして、彼は尊いさとりのことばを得たのであった。


九、昔、スダナ(善財ぜんざい)という童子があった。この童子もまた、ただひたすらに道を求め、さとりを願う者であった。


海で魚をとる猟師を訪れては、海の不思議から得た教えを聞いた。
人の病を診る医者からは、人に対する心は慈悲でなければならないことを学んだ。
また、財産を多く持つ長者に会っては、あらゆるものはみなそれなりの価値をそなえているということを聞いた。


 また坐禅する出家を訪れては、その寂(しず)かな心が姿に現われて、人びとの心を清め、不思議な力を与えるのを見た。
また気高い心の婦人に会ってはその奉仕の精神にうたれ、身を粉にして骨を砕いて道を求める行者にめぐり会っては、真実に道を求めるためには、刃(やいば)の山にも登り、火の中でもかき分けてゆかなければならないことを知った。


 このように童子は、心さえあれば、目の見るところ、耳の聞くところ、みなことごとく教えであることを知った。


 かよわい女にもさとりの心があり、街に遊ぶ子供の群れにもまことの世界があることを見、すなおな、やさしい人に会っては、ものに従う心の明らかな智慧をさとった。


 香をたく道にも仏の教えがあり、華(はな)を飾る道にもさとりのことばがあった。
ある日、林の中で休んでいたときに、彼は朽ちた木から一本の若木が生えているのを見て生命の無常を教わった。


 昼の太陽の輝き、夜の星のまたたき、これらのものも善財(ぜんざい)童子のさとりを求める心を教えの雨でうるおした。


 童子はいたるところで道を問い、いたるところでことばを聞き、いたるところでさとりの姿を見つけた。


 まことに、さとりを求めるには、心の城を守り、心の城を飾らなければならない。
そして敬虔に、この心の城の門を開いて、その奥に仏をまつり、信心の華を供え、歓喜の香を捧げなければならないことを童子は学んだのである。

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