拈華微笑 南無父母不二佛

何でも仏教徒として思いついたことを書きます

仏教聖典第237版 はげみ 信仰の道と仏のことば

第三節 信仰の道


一、仏と教えと教団に帰依する者を、仏教の信者という。
また、仏教の信者は、次に説く戒律と信仰と布施と智慧とを持っている。


 生きものの命を取らず、盗みをなさず、よこしまな愛欲を犯さず、偽りを言わず、酒を飲まない。この五つを守るのが信者の戒である。


 仏の智慧を信ずるのが信者の信であり、貪り、もの惜しみする心を離れて常に他人への施しを好むのが信者の布施である。さらに、因と縁の道理を知り、ものみながうつり変わる道理を知るのが、信者の智慧である。


 東に傾いている木はいつ倒れても必ず東に倒れるように、平生、仏の教えに耳を傾けている信心の厚いものは、いつ、どのように命を終わっても、仏の国に生まれることに定まっている。


二、いま、仏教の信者とは、仏と教えと教団とを信ずる者をいう。


 仏とはさとりを開いて、人びとを恵み救う人をいう。教えとは、その仏の説かれた教えいう。教団とは、その教えによって正しく修行する和合の団体をいう。


 仏と教えと教団の、この三つは、三つでありながら、離れた三つではない。仏は教えに現われ、教えは教団に実現されるから、三つはそのまま一つである。


 だから、教えと教団を信じることは、そのまま仏を信ずることであり、仏を信ずれば、おのずから教えと教団とを信ずることになる。


 したがって、すべての人は、ただ仏を信ずること一つによって救われ、またさとりが得られる。仏はすべての人を、自分のひとり子のように愛するから、人もまた子が母を思うように、仏を信ずれば、現実に仏を見、仏の救いが得られる。


 仏を念ずる者は、常に仏の光明におさめられ、また自然に仏の香気に染まる。


三、世に仏を信ずることほど大きな利益をもたらすものはない。もしただ一度だけでも仏の名を聞いて、信じ喜ぶならば、この上ない大きな利益を得たものといわなければならない。


 だから、この世界に満ちみちている炎の中に入って行ってでも、仏の教えを聞いて信じ喜ばなければならない。


 まことに、仏に会うことは難く、その教えを説く人に会うことも難く、その教えを信ずることはさらに難い。


 いま、会い難いこの教えを説く人に会い、聞き難いこの教えを聞くことができたのであるから、この大きな利益を失わないように、仏を信じ喜ばなければならない。


四、信こそはまことに人の善き伴侶であり、この世の旅路の糧であり、この上ない富である。


 心は仏の教えを受けて、あらゆる功徳を受けとる清らかな手である。信は火である。人びとの心の汚れを焼き清め、同じ道に入らせ、その上、仏の道に進もうとする人びとを燃えたたせるからである。


 信は人びとの心を豊かにし、貪りの思いをなくし、おごる心を取り去って、へりくだり敬うことを教える。こうして、智慧は輝き、行いは明らかに、困難に破れず、外界にとらわれず、誘惑に負けない、強い力が与えられる。


 信は、道が長く退屈なときに励ましとなり、さとりに導く。


 信は、仏の前にいるという思いを人に与え、仏に抱かれている思いを与え、身も心も柔らかにし、人びとによく親しみなじむ徳を与える。


五、この信のあるものは、耳に聞こえるどんな声でも、仏の教えとして味わい、喜ぶ智慧が得られ、どんなできごとでも、すべてみな因と縁によって現われたものであることを知って、すなおにこれを受け入れる智慧が得られる。


 かりそめのたわごとにすぎないこの世のできごとの中にも永久に変わらないまことのあることを知って、栄枯盛衰の変わりにも、驚かず悲しまない智慧が得られる。


 信には、懺悔(さんげ)と、随喜(ずいき)と、祈願の三つの姿が現われてくる。


 深くおのれを省みて、自分の罪を汚れと自覚し、懺悔する。他人の善いことを見るとわがことのように喜んでその人のために功徳を願う心が起きる。またいつも仏とともにおり、仏とともに行い、仏とともに生活することを願うのである。


 この信ずる心は、誠の心であり、深い心であり、仏の力によって仏の国に導かれることを喜ぶ心である。


 だから、すべての所でたたえられる仏の名を聞いて、信じ喜ぶ一念のあるところにこそ、仏は真心をこめて力を与え、その人を仏の国に導き、ふたたび迷いを重ねることのない身の上にするのである。


六、この、仏を信ずる心は、人びとの心の底に横たわっている仏性(ぶっしょう)の表われである。なぜかといえば、仏を知るものは仏であり、仏を信ずるものは仏でなければならないからである。


 しかし、たとえ仏性があっても、仏性は、煩悩の泥の奥深く沈んで、成仏の芽を吹き出し、花開くことはできない。貪り・瞋りの煩悩の逆巻く中に、どうして仏に向かう清い心が起こるであろうか。


 エーランダという毒樹の林には、エーランダの芽だけが吹き出して、チャンダナ(栴檀)の香木は生えることはない。


 エーランダの林にチャンダナが生えたならば、これはまことに不思議である。いま人びとの胸のうちに、仏に向かい、仏を信ずる心の生じたのも、これと同じく不思議なことといわなければならない。


 だから、人びとの仏を信ずる信の心を無根の信という。無根というのは、人びとの心の中には信の生え出る根はないが、仏の慈悲の心の中には、信の根があることをいうのである。


七、信はこのように尊く、まことに道のもとであり功徳の母であるが、それにもかかわらず、この信が道を求める人に円満に得られないのは、次の五つの疑いが妨げているからである。


一つには、仏の智慧を疑うこと。
二つには、教えの道理に惑うこと。
三つには、仏の教えを説く人に疑いを持つこと
四つには、求道の道にしばしば迷いを生ずること。
五つには、同じく道を求める人びとに対して、慢心から相手を疑って、いらだつ思いがあるためである。


 まことに世に疑いほど恐ろしいものはない。疑いは隔てる心であり、仲を裂く毒であり、互いの生命を損なう刃であり、互いの心を苦しめる棘である。


 だから信を得た者は、その信が、遠い昔に、仏の慈悲によって、すでにその因縁が植えつけられていたものであることを知らなければならない。


 人の胸の中にひそむ疑いの闇を破って、信の光をさし入れ給う仏の手のあることを知らなければならない。


 信を得て、遠い昔に仏が与えられた深い因縁を喜び、厚い仏の慈悲を喜ぶ者は、この世の生活そのままに、仏の国に生まれることができるのである。


 まことに、人の生まれることは難く、教えを聞くことも難く、信を得ることはさらに難い。だから、努め励んで、教えを聞かなければならない。



第四節 仏のことば


一、わたしをののしった、わたしを笑った、わたしを打ったと思う者には、恨みは鎮まることがない。


 怨みは怨みによって鎮まらない。怨みを忘れて、はじめて怨みは鎮まる。


 屋根のふき方の悪い家に、雨が漏るように、よく修めていない心に、貪りのおもいがさしこむ。


 怠るのは死の道、努め励むのは生の道である。愚かな人は怠り、智慧ある人は努め励む。


 弓矢を作る人が、矢を削ってまっすぐにするように、賢い人は、その心を正しくする。


 心は抑え難く、軽くたち騒いでととのえ難い。この心をととのえてこそ、安らかさが得られる。


 怨みを抱く人のなすことよりも、かたきをなす悪よりも、この心は、人に悪事をなす。


この心を、貪りから守り、瞋りから守り、あるゆる悪事から守る人に、まことの安らかさが得られる。


二、ことばだけ美しくて、実行の伴わないのは、色あって香りない花のようなものである。


 花の香りは、風に逆らっては流れない。しかし、善い人の香りは、風に逆らって世に流れる。


 眠れない人に夜は長く、疲れた者に道は遠い。正しい教えを知らない人に、その迷いは長い。


 道を行くには、おのれにひとしい人、またはさとった人と行くがよい。愚かな人とならば、ひとり行く方がまさっている。


 猛獣は恐れなくても、悪友は恐れなくてはならない。猛獣はただ身を破るにすぎないが、悪友は心を破るからである。


 これはわが子、これはわが財宝と考えて、愚かな者は苦しむ。おのれさえ、おのれのものでないのに、どうして子と財宝とがおのれのものであろうか。


 愚かにして愚かさを知るのは、愚かにして賢いと思うよりもまさっている。


 愚かな人は賢い人と交わってもちょうど匙が味を知らないように、賢い人の示す教えを知ることができない。


 新しい乳が容易に固まらないように、悪い行いもすぐにはその報いを示さないが、灰に覆われた火のように、隠れて燃えつつ、その人に従う。


 愚かな人は常に名誉と利益とに苦しむ。上席を得たい、権利を得たい、利益を得たいと、常にこの欲のために苦しむ。


 過ちを示し、悪を責め、足らないところを責める人には、宝のありかを示す人のように、仰ぎ仕えなければならない。


三、教えを喜ぶ人は、心が澄んで、快く眠ることができる。教えによって心が洗われるからである。


 大工が木をまっすぐにし、弓師が矢を矯(た)め直し、溝つくりが水を導くように、賢い人は心をととのえ導く。


 堅い岩が風に揺るがないように、賢い人はそしられてももめられても心を動かさない。


 おのれに勝つのは、戦場で千万の敵に勝つよりもすぐれた勝利である。


 正しい教えを知らないで、百年生きるよりも、正しい教えを聞いて、一日生きる方がはるかにすぐれている。


 どんな人でも、もしまことに自分を愛するならば、よく自分を悪から守れ。若いとき、壮(さか)んなとき、又老いた後も一度は目覚めよ。


 世は常に燃えている。貪りと瞋りと愚かさの火に燃えている。この火宅から、一刻も早く逃げ出さなければならない。


 この世はまことにあわのような、くもの糸のような、汚れをもった瓶のようなものである。だから、人はそれぞれの尊い心を守らなければならない。


四、どんな悪をもなさず、あらゆる善いことをし、おのおの心を清くする、それが仏の教えである。


堪え忍ぶことは、なし難い修業の一つである。しかしよく忍ぶ者にだけ最後の勝利の花が飾られる。


怨みのさ中にあって怨みなく、愁いのさ中にあって愁いがなく、貪りの中にあって貪りがなく、一物もわがものと思うことなく、清らかに生きねばならない。


病のないのは第一の利、足を知るのは第一の富、信頼あるのは第一の親しみ、さとりは第一の楽しみである。


悪から遠ざかる味わい、寂(しず)けさの味わい、教えの喜びの味わい、この味わいを味わう者には恐れがない。


 心に好悪を起こして執着してはならない。好むこと、きらうことから悲しみが起こり、恐れが起こり、束縛が起こる。


五、鉄の錆が鉄からでて鉄をむしばむように、悪は人から出て人をむしばむ。


 経があっても誦まなければ経の垢、家があっても破れてつくろわないのは家の垢、身があっても怠るのは身の垢である。


 行いの正しくないのは人の垢、もの惜しみは施しの垢、悪はこの世と後の世の垢である。


 しかし、これらの垢よりも激しい垢は無明(むみょう)の垢である。この垢を落とさなければ、人は清らかになることはできない。


 恥じる心なく、烏(からす)のようにあつかましく、他人を傷つけて省みるところのない人の生活は、なしやすい。


 謙遜の心があり、敬いを知り、執着を離れ、清らかに行い、智慧明らかな人の生活は、なし難い。


 他人の過ちは見やすく、おのれの過ちは見難い。他人の罪は風のように四方に吹き散らすが、おのれの罪は、さいころを隠すように隠したがる。


 空には鳥や煙や嵐の跡なく、よこしまな教えにはさとりなく、すべてのものには永遠ということがない。そして、さとりの人には動揺がない。


六、内も外も、堅固に城を守るように、この身を守らなければならない。そのためには、ひとときもゆるがせにしてはならない。


 おのれこそはおのれの主(あるじ)、おのれこそはおのれの頼りである。だから、何よりもまずおのれを抑えなければならない。


 おのれを抑えることと、多くをしゃべらずじっと考えることは、あらゆる束縛を断ち切るはじめである。


 日は昼に輝き、月は夜照らす。武士は武装をして輝き、道を求める人は、静かに考えて輝く。


 眼と耳と鼻と舌と身の、五官の戸口を守らず、下界に引かれる人は、道を修める人ではない。五官の戸口をかたく守って、心静かな人が、道を修める人である。


七、執着があれば、それに酔わされて、ものの姿をよく見ることができない。執着を離れると、ものの姿をよく知ることができる。だから、執着を離れた心に、ものはかえって生きてくる。


 悲しみがあれば喜びがあり、喜びがあれば悲しみがある。悲しみも喜びも超え、善も悪も超え、はじめてとらわれがなくなる。


 まだこない未来にあこがれて。とりこし苦労をしたり、過ぎ去った日の影を追って悔いていれば、刈り取られた葦のように痩せしぼむ。


 過ぎ去った日のことは悔いず、まだこない未来にはあこがれず、とりこし苦労をせず、現在を大切にふみしめてゆけば、身も心も健やかになる。


 過去は追ってはならない、未来は待ってはならない。ただ現在の一瞬だけを、強く生きねばならない。


 今日すべきことを明日に延ばさず、確かにしていくことこそ、よい一日を生きる道である。


 信は人のよき友、智慧は人のよき導き手である。さとりの光を求めて、苦しみの闇を免れるようにしなければならない。


 信は最上の富、誠は最上の味、功徳を積むのは、この世の最上の営みである。教えの示すとおりに身と心とを修めて、安らかさを得よ。


 信はこの世の旅の糧、功徳は人の貴い住みか、智慧はこの世の光、正しい思いは夜の守りである。汚れない人の生活は滅びず、欲に打ち勝ってこそ、自由の人といわれる。


 家のためにわが身を忘れ、村のためにわが家を忘れ、国のために村をも忘れ、さとりのためにはすべてを忘れよ。


 ものみなうつり変わり、現われてはまた滅びる。消滅にわずらわされなくなって、静けさ安らかさは生まれる。

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