「佛陀を繞りて」山崎精華:昭和2年11月25日大雄閣発行《狂指鬘》
狂指鬘 (太陰暦)
『佛陀を繞りて』五 八一~九六頁 山崎精華譯著 大雄閣出版(昭和二年十一月)
佛陀成道二十年を過ぎた頃、舎衞城(しゃえじょう)に殺人鬼があらはれた。彼は四衢道(よつつじ)に立つて、悪鬼に蠱(とら)はれたる如くその心を耗亂(かきみだ)し、瞋目噴咤、悲怒激憤して利刄を翳し、人を得ればこれを殺害(ころ)しその指を斬取つて鬘(くびかざり)をつヾつた。城中の人々は毒蛇虎狼の如く懼れ、彼を指鬘(しまん){アングリマールヤ(鴦掘摩おうくつま)}と怖れ喚んだ。彼れ指鬘は人か鬼か、經典は處々に彼の譚を記し傳へてゐる。
・・・・
アヒンサカ(無惱又は無害と翻ず)はコーサラ國波斯匿(はしのく{パセーナデイ})王の一輔相の兒と生れた。兒は長じて力士當千の軀幹(からだ)を備へ、四肢敏捷にして飛鳥奔馬に騰走することが出來た。しかも顏貌端正、志性和雅にして聰明慧達、輔相は甚だ之を愛念した。そのとき舎衞城に三經(三吠陀ヴェーダ)に通暁して多聞博識な婆羅門梵志があつた。輔相はアヒンサカをその門に入らしめたが、彼はよく師の教えを遵守(まも)つて間もなく弟子五百人の上首となつた。
老梵士に若い室婦がゐた。彼女は、いつしかアヒンサカに欲念(おもひ)を懸けた。あるとき――それは彼女の密計であつた――梵士は常例を破つてアヒンサカを住(とど)め、他の弟子衆を具して檀越の招に應じたことがある。彼の妻は意中密かに恰(よろこ)び、身を装飾(かざ)つてアヒンサカを招いた。彼女はそこで多くの姿態をつくり、共に談(かたり)合うて彼の意を動かさうとつとめた。アヒンサカは堅念堂固で一向とりあひさうもなかつた。彼女は彼の相好に接すると欲念いよ/\轉盛して、もはや何ものも抑制することが出來なくなつた。彼女は彼に云つた。
『若者よ。汝の顔貌(かんばせ)は甚だ端正(うつくし)い、汝の肢體(てあし)は甚だ強壯である。年齒(としは)も妾(わたし)とさう違つてゐない。妾の心は汝に魅(とら)はれた。それ故に今日妾は汝と歡娯(たの)しみたいのだ』
アヒンサカは驚いた。そして慞惶(あはて)怖懼(おそれ)て答へた。
『奥室よ。尊師は父であり、奥室は母であります。私は奥室とたわむれることは出來ませぬ』
彼女の心はやはり燃えゐた。
『飢えてゐるものに食を與へ、渇するものに水漿をやることが何の非法であらう。寒い時に溫い衣を施し、熱い時に淸冷の水を恵むことが何の非法であらう。裸露に衣著せ、危厄を救ふことが何の非法であらう。若者よ、妾は今欲火に熾燃(も)えてゐる。汝はその渇する者のために精水をかけてくれないか。もし汝がさうしなかつたために妾の命根(いのち)がなくなったならば、一體汝は何を學んだことになるか。經典は人を殺してもよい等と敎へてゐるのか』
『奥室よ。患疾(うれへ)をたすけ窮厄を濟(すく)うは決して非法ではありませぬ。しかし、奥室は母であります。師の深く愛重せられてゐるものであります。婬(よこしま)に隨ひ、欲識に執着することは梵志の深く誡しめてゐるものであります。私はどうして奥室と婬に傚(なら)ふことが出來ませう』
と、アヒンサカは答へて、識浪の飢餓に惱む彼女の家を出た。
彼女は、その望み事とは違ひ、今更自分の言動を慚愧した。
がその悔恨はやがててれかくしの憤怒とかはり、彼女は彼女の裳衣を滅裂(ひきさ)いて、彼女の面を地にうち伏せた。
そのとき梵志は歸つてきた。
彼は彼女の坌身(みだ)れてゐるのを見て、訝(あや)しみ訊ねた。
『愛しいものよ、汝は何をしたのだ』
彼女は黙つてゐた。
『愛しいものよ、何ごとがおきたのか』
彼女は漸く口を開いた。
『我が背よ。まあきいて下さい。
汝の日頃賞歎(ほめ)ちぎつてゐたアヒンサカが、人もあらうに妾の身をひきよせて、怪しいことをしやうとしました。
妾は懸命にそれを斥けました。
そのとき妾の裳衣はこの通りひき裂かれ、辱かしめのために妾は起きることが出來ませんでした』
梵志は啞然とした。
そして柔仁貞潔と信じきつてゐたアヒンサカの非行を悵然と歎じ、且つ瞋恚(いか)つた。
彼はその姦暴に對して直ちに楚罰を加へやうと思つたけれど、若い元氣のアヒンサカを力で制服することは出來ないと知つた。
彼はそこで退いて默念(だま)つてかんがへた。
しかし、自分の閨閤を染穢(けが)され、上下の秩序を失つたことについては如何にも自分の心適(や)るせなく、懊惱沈吟の極(はて)、彼は「教を倒(さかさま)にして敎へる」ことを考へついた。
かくすれば、彼は倒敎に従ふの當然の罪過(つみ)によつて、自分から彼に酷刑を加へずとも、必然惡趣に堕し長くその鎖扼に惱むに相違ないから、この大逆非行の讎(あだ)は自(おのづか)ら充分に報償(むくひ)られるのであろうと、彼は考へた。
しかし亦その業罪は人を殺すより大なるはなしと知つたから、彼は利劍をとり出してアヒンサカを喚び、とんでもないことを彼に敎へることになつた。
かくとは知らず誠直恭順なアヒンサカは師の前に跪いた。梵志は口を開いた。
『汝は聰慧であつて學ぶところも甚だ周密である。それ故に我は汝に總てを敎へ、汝もそれを學びつくした。
しかし最後にもう一つ汝に未だならはぬ一藝がある。それを果たせば汝は一切の梵行を成就することになるのだ』
『尊師よ。どうぞ敎へて下さい』とアヒンサカは膝を進めた。
師は云つた。
『速かに道を成るために、汝は必ず最後のこの一秘法を修行しなければならないのだ』
『尊師よ。譬へ水火に入るとも私は師の敎を行ずるでありませう』
『アヒンサカよ、それならば汝はこの利劍を執つて、晨朝(あした)四衢道に出でゝ、一百の人を殺害せよ。
そしてその指を斬取(きりとつ)て鬘(くびかざり)とせよ。
日中までに汝がその一百の指を滿たすならば、汝の一切の修道は全くをはるのである』
アヒンサカは驚愕置くところを知らなかつた。
『師よ。
私は師より淨修梵行を敎はり、修爲衆善を敎はり柔和仁恵を敎はり、得五神通超上梵天の法こそ敎はつてゐました。
然るに師はいま私に暴伐殺戮を敎へられます。
これは失理非法ではありませぬか』
しかし梵志はもはや何も云はなかつた。
師の敎旨に違ふは弟子の法ではなく、しかも師に順ずれば大逆に堕する。
この突作の矛盾にアヒンサカの心は徒らに愁憂するのみであつた。
彼は事の了別を惑ひ、師より授かつた劍を奉じたまゝ引き下つた。
そして彼の心が躊躇懊惱してゐる間に、彼自身は樹立叢がる四衢路のほとりに知らずさまよひ來てゐた。
そこには多くの邑人(むらびと)が往還(ゆきき)してゐた。
彼の混亂した心はここで全く轉倒してしまつた。
彼の打ち萎れた形相はみるみる悲怒激憤の狀と變り、垂れ下つてゐた兩手はやがて劔を按じ、ここに幾多の殺戮が行はれたのであつた。
指鬘とはアヒンサカの果てである。
人々が極めて道に眞面目である場合、その人が未だ八達の自在を體得してゐず、彼の一條路に驀進(ばくしん)してゐるとき、人々は往々狂亂迷惑の心に誘はれることがあらう。
眞劒であるとき両極のみが見える。
そはいづれも極であるが故に孰(いづ)れも常規でなくて非凡である。
その一極は我等にとつて最も恐ろしいものである。
アヒンサカは實にこの恐ろしい一極に導かれたのであつた。
恐怖は忽ち舎衞城の人々を襲った。
佛陀もこの噂を知られた。
佛陀はそこで彼の殺人鬼を救ふべく座を起つた。
佛陀が四衢道にさしかゝるや群集は呼びとめた。
『世尊よ。その道は危くあります。惡鬼が道を擁して暴虐を恣にしてゐます』
『汝等よ。設使(たとひ)三界盡(ことごと)く我に寇(あだ)するも我に懼れはない。
況んや只の一賊が如來に何事をなすことが出來るか』
といつて、佛陀はその道を進んだ。
アヒンサカの母は時至るも子の歸らないのを怪んだ。
そして飯食を齎(もた)らして舎衞城を出かけた。
愛兒に與(あた)へんがためである。
アヒンサカは狂亂の中に指を算へたが未だ百指に滿たない。
しかもこの衢道は最早一人の通りすがる者がなかつた。
日半ばにして人を俟(ま)ってゐると向ふから母が來た。
彼は今一指にて滿願と考へたから、到頭母に仞仗(かたな)をふり上げた。
丁度そのとき佛陀は四衢道のかなたに現はれた。
それを見たアヒンサカは母を棄てゝ直ちに佛陀に趣(はし)つた。
しかし彼はどうしても佛陀の前に進むことが出來なかつた。
いかに力を竭(つく)し奔走しても佛陀の徐歩に追ひつくことが出來なかつた。
彼は諸根全く疲れて佛陀を喚びとめた。
『沙門よ、且(しば)らく住(とど)まれよ』
佛陀は云つた。
『我ははじめより住まつてゐる。
たヾ汝が住まらないのである』
指鬘にとつてこれは意外な言葉であつた。
そしてこれは彼の心に一轉の曙光を與へたのであつた。
『沙門よ。
汝住まつて我住まらずとは一體どうしたことか』
佛陀は靜かに答へた。
『我れは諸根寂定して自在を得、それ住まるや久しいのである。
汝は惡師に從つて邪倒を受け、心顚倒してゐる故に住まるところがないのである』
指鬘はこの言葉をきいて全く我に還つた。
・・・・彼は劍を擲(な)げて、佛陀の前にひれ伏した。
『世尊よ。私の迷執を破つて下さい。
害を興し指を集めて道を見んと欲(おも)つた私の大罪を贖(あがな)ふの道を敎へて下さい。
私は今日より世尊の僧伽(さんが敎團)に出家致しとうあります。
どうぞ愛愍受接して下さい』
佛陀は彼の願の如く沙門となし、祇樹給孤獨園にひき倶して還られた。
丁度そのとき波斯匿王は四部の兵を率ひて惡鬼退治に出た。
王はまづ祇園精舍に佛陀を訪ねた。
佛陀は王が武装してゐるのをみて王に向ふた。
『大王は武装して何をせられますのですか』
『世尊よ。私は鴦掘摩を捉へやうとおもつて四部の兵を率(したが)へてゐます』
佛陀は王に再び云つた。
『大王よ。
もし法の三衣を着し至心に出家學道してゐる鴦掘摩を見られたならば、王はどうせられますか』
『世尊よ。
彼が至心に學道してゐるならば、私は供養敬禮こそすれ、決して彼を害しやうとはおもひませぬ。
然しながら、世尊よ、彼の兇惡の殺人鬼がどうして沙門の行を修めることができませう』
そのとき指鬘は、佛陀を去る程遠からぬところに正意端座してゐた。
佛陀は右手を擧げて彼を指示(ゆびさし)ながら王に云つた。
『大王よ。
鴦掘摩はここにゐます』
王は指鬘を見て急に身の毛を逆立にして懼れた。
『大王よ。懼れることはありませぬ。
大王は彼に言葉をかけてやつて下さい』
王は指鬘のところに往つた。そして彼に云つた。
『尊者鴦掘摩よ。汝の姓は何であるか』
『大王よ。私の姓は奇角(伽瞿)母を曼多耶尼と云ひます』
『奇角子尊者よ、汝は専心に學道しなさい』
王は再び世尊のところに還つて歎じて云つた。
『世尊よ。世尊は常に、世間の降伏し難きものを刀仗なくしてよく降伏せられます』
かくて王は世尊のみ足を禮して王城に還つた。
彼はその翌日鉢を持して舎衛城を乞食した。
そのとき城中に一人の姙婦が、月滿ちて産をしようと苦しんでゐた。
彼女は彼を見て云つた。
『沙門よ。どうぞ救けて下さい』
彼は彼女の苦しさうな聲をきいて何も對(こた)へることが出來ず、そのまゝ精舎に還つた。
彼はそこで食事を畢(おは)つて世尊の前に出た。そして世尊に云つた。
『世尊よ。私は乞食の際に産で苦しんでゐる女をみました』
『指鬘よ。汝はこれから直ちに彼女のところへ往け。
そして、私は生まれて以來殺生の想をなしたことはない。
汝がもしこの言葉を信ずるならば汝は必ず安穏無事に産をすることが出來ると至心に云へ』
指鬘は驚いて世尊に問ふた。
『世尊よ。私は多くの衆生を殺害しましたのに、もしさうしないと云へば兩舌を犯すことになりはしませぬか』
世尊はそれに答へた。
『指鬘よ。昨日までの汝は死んでしまつた。
今日の汝はもう昨日の汝ではない。
それ故に汝の言葉は決して兩舌にはならない』
彼は城に入つて彼女にその通り云つた。
彼女はそこで安穏に産をした。
あるとき彼が城に出たときに、群童が現れて、交々彼を罵り、彼に瓦石を投げ、杖を打ち、刀をむけたことがあつた。
彼はそのために僧伽梨(サンガリー服)を破り、頭や手足から血を流した。
世尊は遥かにこれを眺めてかく云つた。
『指鬘よ。
汝は決して惡意を起してはならない。
惡意は汝を百千劫の間地獄におとすのである。
現世の報はそれに較べていふに足らないものである』
指鬘は世尊に云つた。
『世尊よ。
その通りであります。
その通りであります』
そして彼は和悦の心に次のやうな偈をとなへた。
私はもと賊であつた。
指鬘の名は普(あまね)く知られた
その大淵も今枯喝(か)れて
正覺に歸命する身となつた。
昔私は暴惡の心であつた。
多くの人々を私は惱ました。
私の犯した罪は恐ろしいのに
いま私の名は無害といふ。
鉤(かぎ)のよく象を調べるやうに
劍もなく杖もなく
世尊は惡鬼を降伏せられ、
私の三業を調伏せられた。
新學の比丘よ
佛の敎を勤修(つとめ)よ
月の宛も滿つるごと
光は世間を照すであらう。
前に放逸の行あるも
のちよく自ら制すれば
月の雲霧の消え去るごと
光は世間を照すであらう。
死を希(ねが)はず
生を希はず
よく時節を觀ずれば
心は常に定つてゐやう。
了
ノート
出處 佛説鴦掘摩經(大正蔵経第二巻、阿含部下)、賢愚經巻第十一(同第四巻本緣部下)
出曜經巻第十七(同本緣部下)、佛説鴦掘摩經(同阿含部下)、增阿巻第三十一(同、同上)
雑阿巻第三十八(同、同上)、鴦掘摩經(同、同上)、其他律部にも處々にある。
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8月23日追記
MURAGONではコメント欄の文字数が最大2000文字までの制限があり、
もともと「通りがけ」「東行系」「前々期高齢者」「卵の名無し」「ぼつでおk」「自爆謹慎中」「風流風天」「いち児科医(にかい)」その他の通り名HNで(以前の阿修羅では rWn9PLlcps 、ほうがくしょうげん拝)滅法長すぎる投稿ばかりしてきた私にとって
コメント文字数制限は使い勝手が良くないかなと思ったので、
七不衰法に従い万機公論に決すべく弟(居ます笑い)ブログとして
無有(ムー)文明伝統千客万来「来る者は拒まず去る者は追わず」のこちらを立ち上げることにしました。
ここの兄(長男は私です笑い)ブログから記事を引っ張ってきたり、適当に思いついた記事を挙げて掲載しますから、
短い投稿がやや嫌いなんで(漢語や警句や短歌や俳句や詩は好きです笑い)、
みなさま思う存分長いお経みたいなだらだら陀羅陀羅作文して、
文字数無制限のコメント欄で談論風発して、
お互いに無常の憂き世の花鳥風月を皆で面白おかしく風流に楽しみましょう(笑い)
豊岳正彦@修道学園27期生
拈華微笑 南無父母無二佛
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平成30年9月3日追記2つ
(1)狂指鬘は仏教聖典にも記載されています。
いつも長文投稿を掲載してくださる「アメリカ→官邸→マスゴミの共認支配」さんへ投稿したのを転記します。
四、(鴦掘摩経)
かつて殺人鬼として、多くの人びとの命をあやめ、世尊に救われて仏弟子となったアングリマールヤ(指鬘)は、
その出家以前の罪のために、托鉢の途上で、人びとの迫害を受けた。
ある日、町に入って托鉢し、恨みのある人びとに傷つけられて、全身血にまみれながら、
やっと僧坊に帰って、世尊の足を拝して喜びのことばをのべた。
「世尊、わたくしはもと、無害という名でありながら、愚かさのために、多くの人の命を損ない、
洗えども清まらない血の指を集めたために、指鬘の名を得ましたが、
いまでは三宝に帰依してさとりの智慧を得ました。
馬や牛を御するには、むちや綱を用いますが、
世尊は、むちも綱もかぎも用いずに、わたくしの心をととのえて下さいました。
今日わたくしは、わたくしの受けるべき報いを受けました。
生も願わず死も待たずに、静かに時の至るのを待ちます。」
_______________________________
(2)通りがけや東行系がいつもお世話になっているラ・ターシュに魅せられてさんに投稿しました。
もともとは気弱な地上げ屋サンのお友達オノマさんが木漏れ日に埋もれてブログにあげておられた投稿です。
大事なものだと思いましたので保存するために転記します。
[shudo27.2795] 「長周新聞HPへ投稿しました」長文ごめん
長周新聞 『骨が語る兵士の最期』 著・楢崎修一郎
https://www.chosyu-journal.jp/review/8762
2018.08.15 Wednesday
資料・FBでみつけた軍曹の戦争話は詳細であり、聞き手の受け取り方は正直である★
onomar.jugem.jp/?eid=5162#comments
日本が敗戦した八月十五日
ソ連軍の参戦を知っていた満州在の帝国陸軍は
自らの家族をいちはやく日本に帰し、みずからも密かにとんづら。
情報を伏せられて置き去りにされた民間人は
満州、朝鮮、中国で自力逃避行を強いられ、
数多の犠牲者がでました
民間人であるオノマ一家五人も満州、朝鮮を転々とし、
日本にもどったのは戦後一年ほど後のことです
逃避行が始まる前、
我が家にソ連兵たちが入ってきた光景を覚えています。
大きな兵隊たちの脚を蹴る幼児・オノマを
兵隊たちは面白がったそうです
日本人は外出すると難にあうので家から出るのが難しく
ひっそり暮らしたそうです。
さいわい父たちは近隣の中国人たちと仲良くしてたので
彼らが買い物をしてくれ、
その品物を塀越しに母へ渡していた光景を覚えています
夜間、徒歩での逃避行中に
防空壕に転がり落ちて見上げると裸電球、
引き揚げ船に乗り込むときや船内での混乱、
大人たちのあさましさ
・・などがオノマ@四歳の脳に刻み込まれ、
そうした光景やその時に感じた気持ちは
今でもよみがえってきます
ボートから母船に乗り込むのは
幅ひろい網をよじ登っていったのですが、
母船から水滴がポタポタ落ちてきて顔にあたり、
見上げると暗い夜空があったこと、
幼児・オノマを押しのけたおばさんがいたのでそのお尻をつねったこと、
振り向いたおばさんのマヌケ面もよみがえってきます
★
オノマの戦争体験はこのくらいにして、
ほんじつはFBでみつけた、生々しい記事を転載します
戦争に関する文献をいろいろ読んできましたが、
無名の人が書いたこの記事は出色、貴重な記録だと思います
安倍晋三さんとか石破茂さんとかいう連中はこういった
生々しい光景を疑似体験できる能力が欠落していると思います。
観念的な戦争観でもって勇ましいことをしゃべくりまくっている、
いざ戦争が始まったら自らの保身を最優先させる、
知的生命体としてはできそこないのサル・ニンゲンであると
モノリスは判定し、抹消することでしょう。
書かれた方に、転載して良いかをメールで照会したのですが、
届かなかったのかお返事がありません。
ダメの返事が来たら直ちに消します
★
<歴史の授業> 僕の先生は軍曹だつた。
広島県の山懐にある小さな町での思い出である。
私が中学生の時の話だったから、何十年も前のことになる。
その頃、私の在籍した中学校には屋内体育館がなかったので、
雨天の体操の時間には通常の教室での自由時間に振替えられた。
振り替えの授業は楽しかった。
なにを勉強してもいい自由時間だったからだ。
体操の担任教師の名前は「グンソー」といった。
それは彼が兵隊にいたとき、
「軍曹」の階級にあったからだ。
彼の本名を呼ぶ者は誰もいなかった。
彼は体操の振り替え時間には決まって、
戦争の体験談を生徒たちに話して聞かせた。
だからいつの間にか、
彼は「グンソー」という呼び名になってしまったのだが、
彼は戦争での経験をまるで手柄話のように語った。
グンソーの話から、
戦争の真実を生徒たちに伝えたい思いもあるようには見えたが、
それよりも、
好奇心が強く血気盛んな中学校2年生ぐらいの男子生徒たちに、
自分が戦争の中でいかに勇ましかったかを
おもしろく話したかったように思えた。
今になってみると彼は戦争の話をしながらも、
いろいろのことを生徒たちに伝えたかったのかも知れない。
しかし彼が亡くなってしまった今となってはよくわからない。
彼が話したのは、
平和を作る話よりも
戦争をする話の方がはるかに多かった。
戦争そのものについてであった。
グンソーは肌黒く、
みるからに目玉も大きくいかつい顔をしていたので、
生徒たちは、
彼がいったいどのように勇ましい戦争をやってきたか、
興味はつきなかった。
僕たち中学生は夢中になって耳を傾けた。・・・・・
ー今日は雨降りだ。
生徒たちは、グンソーが教室に入ってくると、
まるで教室が割れんばかりの大きな声で、
「グンソー、グンソー・・・・話をしてー、話をしてー」
と、話をねだった。
すると彼は、嬉しそうに見えながらも
なにか躊躇しているようにも見えた。
彼の態度から、
「これは自分自身から好き好んで戦争の話をしたのではない、
生徒たちに求められたから、
わしは戦争の話をしたのだ」
と言いたかったのかもしれない。
グンソーはいつも
戦争での体験談を身振り手振りで語った。
「わしが初年兵の時じゃった。
わしが初めて人を殺したときのことじゃ。
中国人の捕虜を処刑せよと命ぜられてのう。
困ったようのう。
そこでわしは捕虜を広いコーリャン畑に連れていって、
日本刀で首を切ろうとしたんじゃ。
じゃが日本刀は首に当たらず、
肩に当たったので、
捕虜は大声をあげて喚きながら逃げていった。
人を殺すというのはすごいことじゃ。
わしが捕虜を逃がしたということになると大変じゃけえのう。
わしは必死で
コーリャン畑の中を捕虜を追いかけていってのう・・・・
捕虜は肩から血を流しながら、
広いコーリャン畑の中を逃げ回ってのう・・
そして最後にはわしが
捕まえてコーリャン畑の中で射殺したんじゃが、
わしが初年兵の時じゃった。」
ー敵兵の処刑について、
グンソーは事細かに語った。
おそらく彼は相当数の処刑を担当させられたのだろう。
彼はそのときの様子を、
黒板に簡単な線で絵を描きながら語った。
「軍人が処刑を行うときにはのう、
囚人にまず目前に穴を掘らせ、
その前に囚人を座らせるのじゃ。
穴は全部自分で掘らせるんじゃ。
処刑は日本刀で首を切り落とすのじゃが、
首の皮一枚を残して切り落とすのが
上手いやりかたじゃと言われておった。
もう殺されるとわかってくると
囚人も観念したように見えて、
彼らがいったん「メーファーズ(没法師)とつぶやいたら、
完全に死を覚悟したように見えたんじゃ。
刀を思い切り振り下ろすと、
切断された首からは
血がビューとものすごい勢いで噴出したんじゃよ。
そしてその体を穴の中に蹴落とすんじゃ」
とそのときのその生々しい話を
グンソーは
刀で切り落とす格好をしながら事細かに語った。
なんともショックな話だった。
時には
捕虜を10人ぐらい並ばせて、
片方から鉄砲を撃って銃殺したことも話をした。
5~6人まで弾が届いたというが、
なんでもないように軍曹は語った。
ー「市外戦のときじゃった、
ときどき街角の路上で、
敵兵とバッタリと鉢合わせすることがあった。
そのときはお互いびっくりするもんじゃ。
恐ろしいもんでぇ。
すぐにどちらもピストルをを撃ち合ったときのことじゃ。
戦いは誰でも恐いが、
お互いに向き合った時には、
逃げ出さずに最初に少しでも早く勇気をもった方が
戦いには勝つんじゃのう。
わしは、
そのときに逃げずにすぐに後ろから撃ったんじゃ。
ピストルを撃つときは、
こうやってピストルを
頭の上からゆっくり下ろすようにして照準を合わすんじゃ」
グンソーは
ピストルの撃ち方をゼスチャーでして見せながら語った。
ー「あるときわしは敵の視察を命じられてのう。
斥候というんじゃが、
その途中にわしが森の中で野糞をやっていたらのう、
ふと背後の茂みがごそごそするので、
なんじゃ、ろうかと思って股下から覗いてみると、
なんとのう、
2人の「中国兵」がわしの尻に
鉄砲を突きつけているのを目にしたんじゃ。」
グンソーは苦笑いをしながらも
恐怖に満ちた目つきをした。
「あああ・・殺される!」とわしが思った瞬間、
わしの頭髪はすべて逆立ったんじゃよ。
ほんまじゃ。ほんまじゃ。
髪の毛が逆立つとはほんまの話じゃ。
髪の毛が立つんでぇ。恐ろしいよのう!」
とグンソーは何ども何度も繰り返して言った。
「わしゃ殺される!」と思ったんで、
大便をしたままの姿勢で
「ウオーーーーー」というような大声をはりあげて
いきなり立ち上がったんじゃ。
すると、その声に驚いた敵兵は、
あわてて逃げて行ったよ。
ああ、
間一髪のところでわしは助かったんじゃ。
怖かった。
髪の毛が逆立つとはほんまの話じゃ。」
ー「南京の市街に入って行った時のことじゃ。
ある民家で、
きれいな中国女性を屋内で見つけたんじゃ。
・・・・・女は日本への留学経験もあり、
言葉も話せる知的で美しい女性じゃった。」
グンソーはその女性が知的できれいだったことを
しきりに強調した。
おそらく会話もしたのであろう。
そして言った。
「じゃがその女性が他の日本兵に見つかるとのう、
強姦されて酷いことをされてしまうというので
可哀想じゃったが殺してしまったんじゃ、
可哀想じゃった。」
とグンソーが悔いているように語った。
中学生とは言え、
まだ幼かった僕たちには、
強姦というのは何を意味しているのか、
よくわからなかった。
しかし、
大人の世界には、
子どもにはわからないような世界が
たくさんあるようにも感じられた。
僕にはある疑問が湧いてきた。
なぜグンソーがその
女性を殺してしまったのか、
その理由がどうしてもわからない。
よく考えてみるにグンソー自身が彼女を
強姦したのではなかったのか、
それを隠すために
殺したのではなかったのか。
他の兵隊から守るために女を殺してしまった
とグンソーは言ったが、
あれは嘘に違いない。
グンソーが女性を強姦して殺したんだ。
それを僕たちに伝えることができないために・・
でもそのことは話にしたいために語ったに違いない。
その証拠にグンソーは、
「戦争ではなんでもできる。
戦争ほどおもしろいものはない」
と言ったではないか?
でもそんな恐ろしい酷い体験を
平気で子どもたちに話せるだろうか?
やはり彼は女を強姦していないのではないか・・・
・・・いろいろ考えたが今となっては事実はわからない。
戦争中、グンソー自身が
中国女性を強姦したという話は、
何もしなかったが、彼の話しぶりからは、
戦争中にはグンソーを含めて
日本の軍人たちはどのような
酷いことでも平気でやっていた
ということがよく伝わってきた。
事実はどうであれ、
真実を話せない体験が
山ほどあるに違いない。
雨の日には、
グンソーは決まって、
戦争の話をした。
そして時々思い出したかのように、
「戦争は酷(むごい)いもんじゃ」といったが、
そのあとには必ず
「戦争ほどおもしろいものはない。
戦争ではなんでもできるけえのう!」
と断言した。・・・
・・・そうか、これが
日本軍が行っていた戦争の実態だったのだ。
しかしこれは
中学校での授業の中での話だから、
義理的に
「酷い(むごい)」とつけ加えたのだろうが、
実際には
職業軍人にとっては酷くもなんでもなく、
戦争は彼らにとっては
無限におもしろかったのではないか
とも感じた。
その当時、
日本軍の食料は、すべて
現地調達であったという。
つまり
中国の人々の食べ物を略奪せよ
と命ぜられていたのだ。
わずかの食料で生きている人々なのに、
そうした人々の食料をとりに行ったとき、
どんなに残虐な行為が待ち受けていたことか。
抵抗した人々はほとんどが殺されたに違いない。
しかし話の中に、
中国大陸や朝鮮半島などで、
日本軍が残虐な戦争を続けて
おびただしい人々を殺したことへの反省などは、
微塵もなかった。
今から考えてみると、
普通の公立学校だったら、
このような話も聞けなかったかも知れない。
その学校には私立中学校で、
定年退職した教師や満州帰りの教師など
さまざまな職歴や人生体験を持った教師がいたからだろうと思う。
あるとき、その日は雨の日ではなかったが、
突然グンソーが血相を変えて教室に飛び込んできた。
そして教壇に上がって大声で言った。
「だれだ!だれかが今、
人殺し!と叫んだ。
出て来い!」
と叫んだ。
渡り廊下を歩いていたグンソーをだれかが
「グンソー人殺し・・・・」と呼んだらしい。
彼はそれを聞いて逆上したのだ。
「だれが言った?おい!出て来い!
おまえらは卑怯じゃ」
グンソーは教壇で大声を張り上げた。
クラスの全員をまるで犯人のように
睨み付けながら執拗に犯人探しを続けた。
誰がその言葉を言い放ったのか
僕たちは知っていたが、
グンソーには何も答えなかった。
そういうことがあってからグンソーは、
戦争については再び語ることはしなくなった。
生徒たちもグンソーの話をもう
聞きたくはなかった。
人殺しの話はもう十分だったのである。
私もグンソーの話を聞くのは好きだったが、
彼の性格や生き方は嫌いであった。
グンソーを人殺しだと感じていたからだ。
しかし考えてみるに、
その当時の日本軍人は、
父も含めてすべてが「人殺し」を演じていたのだ。
軍人とは、
いかなることであれ命令を受ければ、情け容赦なく
人を殺していた存在だからだ。
女でも子どもでも。
日本軍人たちは、
どれだけたくさんの人々を殺してきたことか!
それは朝鮮半島や中国大陸だけではなく、
太平洋地域や東南アジア全地域でも同じことだ。
すべてが日本の領土を拡張するためで
人々の資産を奪おうというものだった。
グンソーは自らの体験を語ってくれたが、
ほかの人たちは黙して語ろうとはしない。
誰も口を開こうとはしない。
伝えていこうともしない。
日本と中国の戦争では、
中国大陸だけで1000万人から
3000万人の人々が殺されたといわれている。
日本側の公式な計算でも
1000万人以上は殺されているというのだから、
いったい大陸で何があったか
推して知るべしなのである。
南京で虐殺された人々は30万人ではなくて、
実はもっと少なかったかもしれない。
しかし仮に10万人であったとしても
それは異民族支配の中では
恐ろしい数字として
歴史に残っているのは事実なのだ。
この数字の検証は、
中国と日本の
双方でやっていくべきものであるが、
しかし現在では
30万人の虐殺は全く存在しなかった
という論争にとどまらず、そうした
虐殺自身が存在しなかった
という動きが日本にはあるが、
こうしたことを主張する彼らは
戦争の実相を決して
見ようとしてはいない。
彼らは
日本が起こした戦争を
悪いとは思っていない存在だからだ。
だからどんなに人々が(日本軍人に)
殺されても、その
数字を認めることは決してしない。
彼らは
どんな事実を突きつけられても
平気で否定する人々なのである。
恐ろしいことだ。
人間は完全には出来ていない。
歴史の中で絶えず
間違いを犯している存在だ。しかし
侵略した事実をきちんと認めて、
政府として謝罪することで
日本人として歴史の中でより
真摯な生き方ができるし、
信頼し合うこれからの共同体を
作り上げていくにつながる。
1991年、私はユネスコの仕事で
北京に行ったとき、たまたま
戦争博物館を見学したことがある。
その博物館は、展示品と言ってもほとんどが
写真と新聞記事だけで構成されているものであったが、そこに
展示してあった当時の日本の
新聞記事に
大きな衝撃を受けた。
これは当時の毎日新聞の前身である
東京日日新聞の実際の記事であったが、
大見出しには実名で
「南京攻略時に「百人斬り競争」を行った」日本軍の
将校の二人の発言が報道されていた。
この競争の模様は、
1937年11月30日付けの
東京日日新聞(現在の毎日新聞)によって報道された。
その報道によると、日本軍が
南京へと進撃中の無錫から南京に到る間に、日本軍の
向井敏明少尉(歩兵第9連隊-第3大隊-歩兵砲小隊長)と
野田毅少尉(歩兵第9連隊-第3大隊副官)の
どちらが早く100人を斬るか,の競争を行っていると報じた。
東京日日新聞記事では、
無錫-常州間で
向井少尉は56人、野田少尉は25人の中国兵を斬った
と報じている。
また、1937年12月13日付けの記事では、
12月10日に記者と会った時のインタビューとして、
すでに向井少尉は106人、野田少尉は105人の中国兵を殺害しており
100人斬り競争の勝敗が決定できず、改めて
150人を目標とする殺害競争を始めると報じている。
これは戦時中のことだから、
新聞もかなり誇張して書いたかも知れず、
(近年は虚報だと言う意見もあるらしく)
事実であるかどうかはわからない。
しかし当時の日本の新聞が
こうした記事を掲載していたことを考えると、
これに近い虐殺は当時、
面白半分に、手柄半分に
日本軍人によって行われていたことは
容易に想像できる。
敗戦から70年が過ぎた今、
戦争はまるで
天災や自然災害と同じだった
ような感じで
報道がなされている。
敗戦国として
アメリカに踏まれた者の痛さとしての悲惨な
「東京大空襲」や
「広島の原爆投下」や
「沖縄戦」のことは、
TVでよく上映されている。しかしその
内容はと言えば、ほとんどが反戦映画とは言っても
「東京大空襲」や
「広島の原爆体験記」など
被害を受けた一般市民の視点だけであり、
グンソーのように
中国大陸や朝鮮半島で実際に
「人を踏んだ者」や
「人々を殺しまくった軍人」の
体験談をする番組はほとんどない。
マスコミもあえて
この問題に触れようとしない。
殺(や)られたということだけであって、
殺(や)ったということは決してしない。
要は
うしろめたい体験はすべて
隠そうとしているのだ。そして
否定しようとするのだ。
従軍慰安婦について、
河野官房長官の談話の中での
唯一の謝罪があるが、こうした
談話すら否定しようとする動きが現在
政府の中にある。
これは本当に
恥知らずで
無責任な性格をよく
表している。
「文書がない」という理由で
水に流そうとしているのだ。
考えてもみよう。
中国や韓国の人々が、
日本の戦争責任を口にするときには、
彼らは戦争中、
言葉で表現できないような、
悲痛な体験をしてきているのだ。
そして語り継いできているのだ。
もしもあなたの
家族が百人斬りの中の
犠牲者になっていたら、
もしもあなたの
家族が強制連行で
従軍慰安婦として働かされていたら、
もしもあなたの
美田が強制
徴収にあっていたら・・・・
その恨みや辛さを永遠に
語り継いでいくのは当然のこと。
恨みや辛みは永遠なのだ。
もし日本人が
中国や韓国の人々から
非情な仕打ちを受けていたら、それを
後世忘れないのは当然だろう。
アメリカとの戦争では、
沖縄を除いて、
顔の見えない戦争(東京大空襲、原爆投下にしても人々の接した
戦争は地上戦ではなかった)であったが、
大陸では
顔の見えるなまなましい
戦争であった。
しかし実態として、
現代の日本人のどれだけの人々が
戦争で行った「心の痛み」を深く感じながら、
自らの国が、
自らの肉親たちが行った
残虐な行為を
「慙愧の念」をもって
振り返っているであろうか?
そして
語り継いでいこうとしているであろうか?
「人の心の中に平和の砦(とりで)を!」という言葉があるが、
平和を口にする前にまず
戦争についての”実態や事実を”きちんと
次世代に語っておく必要がある。
そうでないと
戦争は我らの世界から消えることはない。そして
前世代のやった残虐な行為を
背負って、
次世代が育っていくのだから。
「なぜ日本軍は大陸に侵略していたのか?
なぜ朝鮮半島を植民地にしていたのか?
なぜ日本は満州国をつくっていたのか?
なぜ多くの人々を殺しまくっていたのか?
なぜ軍隊はいつも女性を強姦するのか?
なぜ人間は
物欲が余りにも深く
他の存在を支配しようとするのか?」
しかしこうした
体験や考えは今や
風前の灯になって
消え去ろうとしている。
みんな
黙して語らないからだ。
過去の体験をひたすらに
水に流そうとしているのだ。
沈黙のまま
墓場まで持って行こうとしている。
ああ、
歴史は必ず繰り返す。
日本人は、
被害者であった以上に
加害者であったことを
引き継いで伝えていかなければならない。
人に踏まれたことより
人を踏んだことを・・
そう、戦争中、
最も悲痛であったのは、
被害者であったからだ。
政治家がやったことを決して
忘れてはいけない。
そしてそれに追随して
破局に陥ったことを・・・
今日本では、
間違った歴史観が育っている。
人を踏みつけても
なんとも思わないような歴史や、
あったことでも存在していなかったように
真実を覆い隠そうとする
歴史観が広がっていっている。
そうした中からは、
決して
正しい意味での
”日本人の誇り”とか
”日本人の愛国心”が
育っていく訳がない。
愛国心とは、
国境を越えて
世界中の人々を
愛することができる
ことをいうのだ。
決して
狭い人間観ではない。
狭い国家観がどれだけ人間を
閉鎖的で
残忍な存在にしてきたか、
近代の歴史を見れば
一目瞭然であろう。
愛国心は悪漢の最後の隠れがだという
有名な言葉もあるぐらいだ。そして
三流学者が
自虐史観という名称をつけては、
自らの行ってきた罪業を
闇に葬ろうとしているのが
現在の日本の歴史教育の流れとなろうとしている。
そして再び、
軍産学が手に手を取り合って、
コンピュータを搭載した兵器産業を日本の
主翼な産業に成長させようとしている。そして
安倍内閣は、
戦争法を強行し、
平和憲法9条を改悪しようとしている。
グンソー先生!あなたは
生徒たちにいろいろ言われながらも、そのような
なまなましい体験を語ってくれて、ありがとう!
あなたたちが
中国や韓国でやってきたこと・・
人々を踏みつけてきたこと。それは決して
忘れませんから。そして同時に
子どもたちは、
いつの時代にも、
大人の本当の気持ちや真実を
知りたいと思っていることを。
グンソー、グンソーと言われながら、
反面教師かなにかわからないけれど、
中学生に自らの赤裸々な
戦争体験を一生懸命に
語ってくれていた先生!あなたが
話してくれたからこそ、
今、こうやって
ブログを通して
多くの人々に
伝わっていっているんです。
ありがとうございます!!
田島伸二
2018/08/18 12:39 | 通りがけが投稿しました。