偲び草 卷之三
十月十三日
朝も早よから、今生最後の観納めに、久昌寺落慶法要(本堂屋根の雨漏り止め)に参る。
喪中で喚ばれていないが勝手に行く。
寺でお葬いをするとき喪中の家族が行かなければ無縁仏になっちまうから、喪中でもヤク中じゃなかった役中でも、自己中もとい事故中でも、誰でも寺をいつでもお参りして良い。
寺はなんでも捨てる場所であるから、幸も不幸も小判も汚物もみなすべて寺に捨てて、お気軽な本来無一物に生まれ変わってくればよいのである。
と、こどものころ父に教えてもらった。
爾来くそ真面目に死ぬまで父の教えを実践中である(笑い)
ここから十一月二日に記す。
実は十月十六日朝からすべてのインターネットを一台でこなしていたパソコンが突然起動不能になってメールもブログも全く遮断されてしまっていた。メールだけは何とか三日後に復帰したがブログはパスワードを全部忘れて全く書けないし、諸事多忙につきパソコンにかかずりあう暇が無いのでてきとうに直していたら復帰するまでに二週間以上の期間がかかった。
やっと復帰しました(笑い)
書きかけで溜まっていた文を覚え書きがあるものから書いていくけど、覚え書きもせずに忘れたものも多い。今更書くのも面倒くさいが、途中で放り出すのもどうかと思うのでとりあえず打ち込み再開しましょう(笑い)日々新たなり一日作(な)さざれば一日喰わずと百丈和尚先達のありがたい教えもありますからね(笑い)
十月十三日の久昌寺豊昌寺参りから続きを再開。
十三日は朝四時に家を出て、夜討ち朝駆けで朝七時に旧名日之出別院現在日照山豊昌寺で日の出を拝んだ後、豊昌寺慈明和尚が経を上げてくれて女房さまの美智子さんが点ててくれた抹茶が美味しくて覚えずお代わりをした(笑い)
朝四時にさだ美さんを起こして朝七時に約200km東の玉野市築港日の出別院で日の出を拝む予定だったが、豊昌寺の日の出は岩国より15分ほど早かったので、十三日の日の出の御来光は久昌寺の前を通過中(秀天橋県道通り)の車中で拝んだのであった(笑い)
日之出にて 日の出拝まんと 思ひしも
東(ひむか)の日の出は 早くありけり
あの夜より 刻(とき)の止まりて あるものを
けふも美(うるは)し 日の出火照(ほあか)り
「令和二年一月八日
あの夜より 時の止まりて あるものを
けふも美(うる)はし 世明(よあ)くる日の出」
七時半過ぎに久昌寺へ到着。
だいぶ長くなったので、つづきは偲び草巻之四で書きませう(笑い)モニター前に居座ってパソコン入力ブログ書きを一意専心専念妨害する猫のみいちゃんも起きたし(笑)
(十一月六日追記)
上記の久昌禅寺早参りののち、豊昌寺にお供えの忘れ物を届けてから来た道を通って、瑜伽さん前を往復通過して昼前に高速帰岩しました(笑い)
朝食は午前10時前頃に山陽道下り線の福山東SA(薔薇園が有名)で尾道ラーメンを頂き、岡山土産の定番廣榮堂本舗のきび団子檸檬味(新作らしい笑)と調布を買って帰った。
調布は昔は下り線の福山東SAでしか買えなかったが、いまはどうなのか知らない。
「調布」という菓子の命名由来について、このたび帰路に見かけた倉敷の帆布作り伝統工芸看板と併せ、いささか思う所が有ったので、長くなるが時系列上ここに書きましょう。十月十五日に書いた覚え書きから投稿します。
調布の調は、租庸調の調であり、統治者大王へ貢納する織物のこと。布は文字どおり。つまり布を織って税すなわち調として貢ぎ納めていたのである。昔の沖縄である琉球国王へのみつぎもの芭蕉布と同じ意。
倉敷の伝統帆布織りも岡山の調布も、福山三原尾道の御調(みつぎ)神宮糸崎神宮も、いずれも織布のことである。
岡山の対岸徳島でも三木家の織布あらたえが有名である。
このように耕作地を持たぬ瀬戸内の海人は租庸調のうち租と庸を納められないので、大王への貢納はすべて塩と調(織物)で賄っていたのである。
塩は藻塩や浜塩の海塩であり、調は大麻である。
大麻から紡がれる麻糸は非常に丈夫であり、丈夫な麻糸は海人にとって生きるための必需品に他ならない。
魏志倭人伝よりも昔の神代の日本で、海幸彦が釣り針を結んだ糸もこの丈夫な麻糸だったのである(笑い)
山陽道半日往復道中の下り帰路、日本一の晴れ男天翔る雲天馬天照彦大神が、真実の日本人無有三宝帰依百姓オオミタカラ菩薩ご先祖様の御在り様を、『調布』に言寄せてかいつまんで長々と(笑)記す。10/15/2019 5:30A.M.