拈華微笑 南無父母不二佛

何でも仏教徒として思いついたことを書きます

和を以て貴しとなす。あつく三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。

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22. 豊岳正彦[105] lkyKeJCzlUY 2018年8月21日 11:33:36 : AKB67GaCh2 : rOxK_DunrP0[106] 報告
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「日いずる国の天子」聖徳太子の詔勅事績「十七条憲法」



第一条


「原文」 一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。


「読み下し」  一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。


「現代語訳」
一にいう。
和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。



第二条


「原文」 二曰。篤敬三寳。三寳者仏法僧也。則四生之終帰。萬国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三寳。何以直枉。


「読み下し」 二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。


「現代語訳」
二にいう。
あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。



第三条


「原文」 三曰。承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。四時順行。万氣得通。地欲覆天。則致壊耳。是以君言臣承。上行下靡。故承詔必慎。不謹自敗。


「読み下し」 三に曰わく、詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め。君をば則(すなわ)ち天とし、臣(しん)をば則ち地とす。天覆(おお)い地載せて四時(しじ)順行し、万気(ばんき)通うことを得(う)。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊(やぶ)るることを致さむのみ。ここをもって、君言(のたま)えば臣承(うけたまわ)り、上行なえば下靡(なび)く。ゆえに、詔を承けては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。


「現代語訳」
三にいう。
王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。



第四条


「原文」 四曰。群卿百寮。以礼為本。其治民之本。要在乎礼。上不礼而下非齊。下無礼以必有罪。是以群臣有礼。位次不乱。百姓有礼。国家自治。


「読み下し」 四に曰わく、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。それ民(たみ)を治むるの本は、かならず礼にあり。上礼なきときは、下(しも)斉(ととの)わず、下礼なきときはもって必ず罪あり。ここをもって、群臣礼あるときは位次(いじ)乱れず、百姓(ひゃくせい)礼あるときは国家自(おのずか)ら治(おさ)まる。


「現代語訳」
四にいう。
政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。



第五条


「原文」 五曰。絶餮棄欲。明辯訴訟。其百姓之訴。一日千事。一日尚尓。况乎累歳須治訟者。得利為常。見賄聴 。便有財之訟如石投水。乏者之訴似水投石。是以貧民則不知所由。臣道亦於焉闕。


「読み下し」 五に曰わく、餮(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄(す)てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(わきま)えよ。それ百姓の訟(うったえ)、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)り、況(いわ)んや歳(とし)を累(かさ)ぬるをや。頃(このごろ)、訟を治むる者、利を得るを常となし、賄(まいない)を見て?(ことわり)を聴く。すなわち、財あるものの訟は、石を水に投ぐるがごとく、乏しき者の訴は、水を石に投ぐるに似たり。ここをもって、貧しき民は則ち由(よ)る所を知らず。臣の道またここに闕(か)く。


「現代語訳」
五にいう。
官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえることが常識となり、賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである。



第六条


「原文」 六曰。懲悪勧善。古之良典。是以无匿人善。見悪必匡。其諂詐者。則為覆国家之利器。為絶人民之鋒釼。亦侫媚者対上則好説下過。逢下則誹謗上失。其如此人皆无忠於君。无仁於民。是大乱之本也。


「読み下し」 六に曰わく、悪を懲(こら)し善を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。ここをもって人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、則ち国家を覆(くつがえ)す利器(りき)たり、人民を絶つ鋒剣(ほうけん)たり。また佞(かたま)しく媚(こ)ぶる者は、上(かみ)に対しては則ち好んで下(しも)の過(あやまち)を説き、下に逢(あ)いては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それかくの如(ごと)きの人は、みな君に忠なく、民(たみ)に仁(じん)なし。これ大乱の本(もと)なり。


「現代語訳」
六にいう。
悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる。



第七条


「原文」 七曰。人各有任掌。宜不濫。其賢哲任官。頌音則起。 者有官。禍乱則繁。世少生知。尅念作聖。事無大少。得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此国家永久。社稷勿危。故古聖王。為官以求人。為人不求官。


「読み下し」 七に曰わく、人各(おのおの)任有り。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし。それ賢哲(けんてつ)官に任ずるときは、頌音(ほむるこえ)すなわち起こり、?者(かんじゃ)官を有(たも)つときは、禍乱(からん)すなわち繁(しげ)し。世に生れながら知るもの少なし。剋(よ)く念(おも)いて聖(ひじり)と作(な)る。事(こと)大少となく、人を得て必ず治まり、時(とき)に急緩となく、賢に遇(あ)いておのずから寛(ゆたか)なり。これに因(よ)って、国家永久にして、社稷(しゃしょく)危(あや)うきことなし。故(ゆえ)に古(いにしえ)の聖王(せいおう)は、官のために人を求め、人のために官を求めず。


「現代語訳」
七にいう。
人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。



第八条


原文 八曰。群卿百寮。早朝晏退。公事靡 。終日難盡。是以遅朝。不逮于急。早退必事不盡。


読み下し 八に曰わく、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け。公事?(もろ)きことなし、終日にも尽しがたし。ここをもって、遅く朝れば急なるに逮(およ)ばず。早く退けば事(こと)尽さず。


現代語訳
八にいう。
官吏たちは、早くから出仕し、夕方おそくなってから退出しなさい。公務はうかうかできないものだ。一日じゅうかけてもすべて終えてしまうことがむずかしい。したがって、おそく出仕したのでは緊急の用に間にあわないし、はやく退出したのではかならず仕事をしのこしてしまう。



第九条


原文 九曰。信是義本。毎事有信。其善悪成敗。要在于信。群臣共信。何事不成。群臣无信。万事悉敗。


読み下し 九に曰わく、信はこれ義の本(もと)なり。事毎(ことごと)に信あれ。それ善悪成敗はかならず信にあり。群臣ともに信あるときは、何事か成らざらん、群臣信なきときは、万事ことごとく敗れん。


現代語訳
 九にいう。
真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。



第十条


原文 十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理能可定。相共賢愚。如鐶无端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。従衆同擧。


読み下し 十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。


現代語訳
十にいう。
心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。



第十一条


原文 十一曰。明察功過。罰賞必當。日者賞不在功。罰不在罪。執事群卿。宜明賞罰。


読み下し 十一に曰わく、功過(こうか)を明らかに察して、賞罰必ず当てよ。このごろ、賞は功においてせず、罰は罪においてせず、事(こと)を執(と)る群卿、よろしく賞罰を明らかにすべし。


現代語訳
十一にいう。
官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。近頃の褒賞はかならずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。指導的な立場で政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである。



第十二条


原文 十二曰。国司国造。勿斂百姓。国非二君。民無兩主。率土兆民。以王為主。所任官司。皆是王臣。何敢與公。賦斂百姓。


読み下し 十二に曰わく、国司(こくし)国造(こくぞう)、百姓(ひゃくせい)に斂(おさ)めとることなかれ。国に二君なく、民(たみ)に両主なし。率土(そつど)の兆民(ちょうみん)は、王をもって主(あるじ)となす。任ずる所の官司(かんじ)はみなこれ王の臣なり。何ぞ公(おおやけ)とともに百姓に賦斂(ふれん)せんや。


現代語訳
十二にいう。
国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。国に2人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。国内のすべての人民にとって、王(天皇)だけが主人である。役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな王の臣下である。どうして公的な徴税といっしょに、人民から私的な徴税をしてよいものか。



第十三条


原文 十三曰。諸任官者。同知職掌。或病或使。有闕於事。然得知之日。和如曾識。其非以與聞。勿防公務。


読み下し 十三に曰わく、もろもろの官に任ずる者同じく職掌(しょくしょう)を知れ。あるいは病(やまい)し、あるいは使(つかい)して、事を闕(か)くことあらん。しかれども、知ること得(う)るの日には、和すること曽(かつ)てより識(し)れるが如くせよ。それあずかり聞くことなしというをもって、公務を防ぐることなかれ。


現代語訳
十三にいう。
いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。病気や出張などで職務にいない場合もあろう。しかし政務をとれるときにはなじんで、前々より熟知していたかのようにしなさい。前のことなどは自分は知らないといって、公務を停滞させてはならない。



第十四条


原文 十四曰。群臣百寮無有嫉妬。我既嫉人人亦嫉我。嫉妬之患不知其極。所以智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以五百之後。乃今遇賢。千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治国。


読み下し 十四に曰わく、群臣百寮、嫉妬(しっと)あることなかれ。われすでに人を嫉(ねた)めば、人またわれを嫉む。嫉妬の患(わずらい)その極(きわまり)を知らず。ゆえに、智(ち)おのれに勝(まさ)るときは則ち悦(よろこ)ばず、才おのれに優(まさ)るときは則ち嫉妬(ねた)む。ここをもって、五百(いおとせ)にしていまし賢に遇うとも、千載(せんざい)にしてもってひとりの聖(ひじり)を待つこと難(かた)し。それ賢聖を得ざれば、何をもってか国を治めん。


現代語訳
十四にいう。
官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬の憂いははてしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは500年たっても賢者にあうことはできず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない。



第十五条


原文 十五曰。背私向公。是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同。非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云。上下和諧。其亦是情歟。


読み下し 十五に曰わく、私に背(そむ)きて公(おおやけ)に向うは、これ臣の道なり。およそ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり、憾(うらみ)あれば必ず同(ととのお)らず。同らざれば則ち私をもって公を妨ぐ。憾(うらみ)起こるときは則ち制に違(たが)い法を害(そこな)う。故に、初めの章に云(い)わく、上下和諧(わかい)せよ。それまたこの情(こころ)なるか。


現代語訳
十五にいう。
私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである。



第十六条


原文 十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。従春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。


読み下し 十六に曰わく、民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。故に、冬の月には間(いとま)あり、もって民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑(のうそう)の節(とき)なり。民を使うべからず。それ農(たつく)らざれば何をか食(くら)わん。桑(くわ)とらざれば何をか服(き)ん。


現代語訳
十六にいう。
人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。だから冬(旧暦の10月~12月)に暇があるときに、人民を動員すればよい。春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときである。人民を使役してはいけない。人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか。



第十七条


原文 十七曰。夫事不可独断。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事。若疑有失。故與衆相辨。辞則得理。


読み下し 十七に曰わく、それ事(こと)は独(ひと)り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。故(ゆえ)に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん。


現代語訳
十七にいう。
ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。




[出典]金治勇『聖徳太子のこころ』、大蔵出版、1986年



23. 豊岳正彦[106] lkyKeJCzlUY 2018年8月21日 12:04:09 : AKB67GaCh2 : rOxK_DunrP0[107] 報告
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http://www.asyura2.com/18/senkyo243/msg/600.html#c21


1.
五箇条の御誓文


https://ja.wikipedia.org/wiki/五箇条の御誓文


五箇条の御誓文


この項目では、1868年に布告された五項目からなる明治政府の基本方針について説明しています。朝鮮商工連と国税庁との間に取り交わされたとされる五項目の協定については「五項目の合意事項」をご覧ください。


五箇条の御誓文(ごかじょうのごせいもん)は、慶応4年3月14日[1](1868年4月6日)に明治天皇が天地神明に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針である。正式名称は御誓文であり、以下においては御誓文と表記する。


(転記者註:天皇が天地神明に誓約することを日本古来「詔勅」という。
聖徳太子は法皇大王すなわち後の天皇とおなじ位であるから、
十七条憲法も日本古来日本語の正しい意味で天皇が天地神明に誓う「詔勅」であり、
十七条憲法と五箇条ご誓文とは同じである。


しかしながら、大日本帝国憲法は明治22年明治政府総理として廃仏毀釈した伊藤博文が天皇絶対不可侵の唯一絶対神専制独裁条項を盛り込んで起草しており、
これは十七条憲法と五箇条ご誓文の詔勅を臣下の身で恣意的に破棄した大逆不敬の菲法であった。
大日本帝国憲法は中世キリスト教ヨーロッパの王権神授説そのものであり、
政教一致カルト専制弾圧搾取の武器でしかなかったのである。)



起草の過程[編集]
明治新政府は大政奉還後の発足当初から「公議」を標榜し[2]、その具体的方策としての国是を模索していた。慶応4年(1868年)1月、福井藩出身の参与由利公正が、「議事之体大意」五箇条[3]を起案し、次いで土佐藩出身の制度取調参与福岡孝弟が修正し、そのまま放置されていた。それを同年3月に入って長州藩出身の参与木戸孝允が加筆し[4]、同じく参与の東久世通禧を通じて議定兼副総裁の岩倉具視に提出した。
福岡孝弟は、由利五箇条に対して第一条冒頭に「列矦會議ヲ興シ」(列侯会議ヲ興シ)の字句を入れるなどして封建的な方向へ後退させ、表題も「会盟」に改めたため、列侯会盟の色彩が非常に強くなった。さらに福岡は発表の形式として天皇と諸侯が共に会盟を約する形を提案した。しかし、この「会盟」形式は、天皇と諸侯とを対等に扱うものであり、「諸事神武創業之始ニ原キ」とする王政復古の理念にも反するという批判にさらされた。


そこで、参与で総裁局顧問の木戸孝允は、


天皇が天神地祇(てんじんちぎ。簡単に言えば神)を祀り、神前で公卿・諸侯を率いて共に誓いの文言を述べ、かつ、その場に伺候する全員が署名するという形式を提案し、


これが採用されることとなった。その際、木戸は、(1)福岡案第一条の「列侯会議ヲ興シ」を「廣ク會議ヲ興シ」(広ク会議ヲ興シ)に改め、(2)「徴士」の任用期間を制限していた福岡案第五条を削除して、(3)木戸最終案第四条「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」を新たに組み込み、五箇条の順序を体裁良く整え直すなど、大幅に変更を加え、より普遍的な内容にした。また、議定兼副総裁の三条実美も福岡案表題の「会盟」を「誓」に修正したため、木戸による五箇条が「誓文」「御誓文」「五箇条誓文」「五箇条の御誓文」と呼ばれるようになった。この木戸五箇条が、天下に布告すべき日本国の国是として明治天皇の裁可を受け、慶応4年3月14日(1868年4月6日)、朝廷の偉大さを天下に確定させんとする木戸の狙い通り、誓約された。木戸は後日その意図について、「天下の侯伯と誓い、億兆の向ふ所を知らしめ、藩主をして其責に任ぜんと欲し」たと述べている[5]。


儀式と布告[編集]


中略参照https://ja.wikipedia.org/wiki/五箇条の御誓文



一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ
(現代表記)

 広く会議を興し、万機公論に決すべし。


一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ
(現代表記)

 上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。


一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
(現代表記)

 官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す。


一 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ
(現代表記)

 旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。


一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スべシ
(現代表記)

 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。



勅語


勅語と奉答書(太政官日誌掲載)
(現代表記)我が国未曾有の変革を為んとし、朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの旨趣に基き協心努力せよ。年号月日 御諱
(意味)我が国は未曾有の変革を為そうとし、わたくし(天皇)が自ら臣民に率先して天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民を保全する道を立てようとする。臣民もまたこの趣旨に基づき心を合わせて努力せよ。



奉答書
(現代表記)勅意宏遠、誠に以て感銘に堪えず。今日の急務、永世の基礎、この他に出べからず。臣等謹んで叡旨を奉戴し死を誓い、黽勉従事、冀くは以て宸襟を安じ奉らん。慶応四年戊辰三月 総裁名印 公卿諸侯各名印
(意味)天皇のご意志は遠大であり、誠に感銘に堪えません。今日の急務と永世の基礎は、これに他なりません。我ら臣下は謹んで天皇の御意向を承り、死を誓い、勤勉に従事し、願わくは天皇を御安心させ申し上げます。


(奉答書の日付が「慶応四年」となっているが、後の明治改元により慶応四年は1月1日に遡って明治元年に改められた(大正以降の改元とは異なるので要注意)。よって正式には「慶応四年」は「明治元年」に読みかえる[要出典]。)



江戸幕府の天下のご政道を受け継いだものである。


武士始め士農工商四民はみな佛教を奉じていたので、天下のご政道は「和を以て貴しとなす」十七条憲法に遵って天下を治める佛教の政教分離統治であった。


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2.


日本国憲法前文
小6が暗唱:日本国憲法前文! THE CONSTITUTION OF JAPAN

小6が暗唱:日本国憲法前文! THE CONSTITUTION OF JAPAN



前 文


日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。


そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。


これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。


われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。


日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。


われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。


われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。


われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。


日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


________________


3.


あたらしい憲法のはなし


文部省



一 憲法


 みなさん、あたらしい憲法ができました。そうして昭和二十二年五月三日から、私たち日本國民は、この憲法を守ってゆくことになりました。このあたらしい憲法をこしらえるために、たくさんの人々が、たいへん苦心をなさいました。


ところでみなさんは、憲法というものはどんなものかごぞんじですか。じぶんの身にかゝわりのないことのようにおもっている人はないでしょうか。もしそうならば、それは大きなまちがいです。


 國の仕事は、一日も休むことはできません。また、國を治めてゆく仕事のやりかたは、はっきりときめておかなければなりません。そのためには、いろ/\規則がいるのです。この規則はたくさんありますが、そのうちで、いちばん大事な規則が憲法です。


 國をどういうふうに治め、國の仕事をどういうふうにやってゆくかということをきめた、いちばん根本になっている規則が憲法です。


もしみなさんの家の柱がなくなったとしたらどうでしょう。家はたちまちたおれてしまうでしょう。いま國を家にたとえると、ちょうど柱にあたるものが憲法です。


もし憲法がなければ、國の中におゝぜいの人がいても、どうして國を治めてゆくかということがわかりません。それでどこの國でも、憲法をいちばん大事な規則として、これをたいせつに守ってゆくのです。國でいちばん大事な規則は、いいかえれば、いちばん高い位にある規則ですから、これを國の「最高法規」というのです。


 ところがこの憲法には、いまおはなししたように、國の仕事のやりかたのほかに、もう一つ大事なことが書いてあるのです。


それは國民の権利のことです。この権利のことは、あとでくわしくおはなししますから、こゝではたゞ、なぜそれが、國の仕事のやりかたをきめた規則と同じように大事であるか、ということだけをおはなししておきましょう。


 みなさんは日本國民のうちのひとりです。國民のひとり/\が、かしこくなり、強くならなければ、國民ぜんたいがかしこく、また、強くなれません。
國の力のもとは、ひとり/\の國民にあります。


そこで國は、この國民のひとり/\の力をはっきりとみとめて、しっかりと守ってゆくのです。そのために、國民のひとり/\に、いろ/\大事な権利があることを、憲法できめているのです。この國民の大事な権利のことを「基本的人権」というのです。これも憲法の中に書いてあるのです。



 そこでもういちど、憲法とはどういうものであるかということを申しておきます。


憲法とは、國でいちばん大事な規則、すなわち「最高法規」というもので、その中には、だいたい二つのことが記されています。


その一つは、國の治めかた、國の仕事のやりかたをきめた規則です。


もう一つは、國民のいちばん大事な権利、すなわち「基本的人権」をきめた規則です。


このほかにまた憲法は、その必要により、いろ/\のことをきめることがあります。


こんどの憲法にも、あとでおはなしするように、これからは戰爭をけっしてしないという、たいせつなことがきめられています。


 これまであった憲法は、明治二十二年にできたもので、これは明治天皇がおつくりになって、國民にあたえられたものです。


しかし、こんどのあたらしい憲法は、日本國民がじぶんでつくったもので、日本國民ぜんたいの意見で、自由につくられたものであります。


この國民ぜんたいの意見を知るために、昭和二十一年四月十日に総選挙が行われ、あたらしい國民の代表がえらばれて、その人々がこの憲法をつくったのです。


それで、あたらしい憲法は、國民ぜんたいでつくったということになるのです。


 みなさんも日本國民のひとりです。


そうすれば、この憲法は、みなさんのつくったものです。


みなさんは、じぶんでつくったものを、大事になさるでしょう。


こんどの憲法は、みなさんをふくめた國民ぜんたいのつくったものであり、國でいちばん大事な規則であるとするならば、みなさんは、國民のひとりとして、しっかりとこの憲法を守ってゆかなければなりません。


そのためには、まずこの憲法に、どういうことが書いてあるかを、はっきりと知らなければなりません。


 みなさんが、何かゲームのために規則のようなものをきめるときに、みんないっしょに書いてしまっては、わかりにくい[#「わかりにくい」は底本では「わかりくい」]でしょう。


國の規則もそれと同じで、一つ/\事柄にしたがって分けて書き、それに番号をつけて、第何條、第何條というように順々に記します。


こんどの憲法は、第一條から第百三條まであります。


そうしてそのほかに、前書が、いちばんはじめにつけてあります。


これを「前文」といいます。


 この前文には、だれがこの憲法をつくったかということや、どんな考えでこの憲法の規則ができているかということなどが記されています。


この前文というものは、二つのはたらきをするのです。


その一つは、みなさんが憲法をよんで、その意味を知ろうとするときに、手びきになることです。


つまりこんどの憲法は、この前文に記されたような考えからできたものですから、前文にある考えと、ちがったふうに考えてはならないということです。


もう一つのはたらきは、これからさき、この憲法をかえるときに、この前文に記された考え方と、ちがうようなかえかたをしてはならないということです。


挿絵2


 それなら、この前文の考えというのはなんでしょう。


いちばん大事な考えが三つあります。


それは、「民主主義」と「國際平和主義」と「主権在民主義」です。


「主義」という言葉をつかうと、なんだかむずかしくきこえますけれども、少しもむずかしく考えることはありません。


主義というのは、正しいと思う、もののやりかたのことです。


それでみなさんは、この三つのことを知らなければなりません。


まず「民主主義」からおはなししましょう。



二 民主主義とは


 こんどの憲法の根本となっている考えの第一は民主主義です。


ところで民主主義とは、いったいどういうことでしょう。


みなさんはこのことばを、ほう/″\できいたでしょう。


これがあたらしい憲法の根本になっているものとすれば、みなさんは、はっきりとこれを知っておかなければなりません。


しかも正しく知っておかなければなりません。



 みなさんがおゝぜいあつまって、いっしょに何かするときのことを考えてごらんなさい。


だれの意見で物事をきめますか。


もしもみんなの意見が同じなら、もんだいはありません。


もし意見が分かれたときは、どうしますか。


ひとりの意見できめますか。


二人の意見できめますか。


それともおゝぜいの意見できめますか。


どれがよいでしょう。


ひとりの意見が、正しくすぐれていて、おゝぜいの意見がまちがっておとっていることもあります。


しかし、そのはんたいのことがもっと多いでしょう。


そこで、まずみんなが十分にじぶんの考えをはなしあったあとで、おゝぜいの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがないということになります。


そうして、あとの人は、このおゝぜいの人の意見に、すなおにしたがってゆくのがよいのです。


このなるべくおゝぜいの人の意見で、物事をきめてゆくことが、民主主義のやりかたです。



 國を治めてゆくのもこれと同じです。


わずかの人の意見で國を治めてゆくのは、よくないのです。


國民ぜんたいの意見で、國を治めてゆくのがいちばんよいのです。


つまり國民ぜんたいが、國を治めてゆく――これが民主主義の治めかたです。



 しかし國は、みなさんの学級とはちがいます。


國民ぜんたいが、ひとところにあつまって、そうだんすることはできません。


ひとり/\の意見をきいてまわることもできません。


そこで、みんなの代わりになって、國の仕事のやりかたをきめるものがなければなりません。


それが國会です。


國民が、國会の議員を選挙するのは、じぶんの代わりになって、國を治めてゆく者をえらぶのです。


だから國会では、なんでも、國民の代わりである議員のおゝぜいの意見で物事をきめます。


そうしてほかの議員は、これにしたがいます。


これが國民ぜんたいの意見で物事をきめたことになるのです。


これが民主主義です。


ですから、民主主義とは、國民ぜんたいで、國を治めてゆくことです。


みんなの意見で物事をきめてゆくのが、いちばんまちがいがすくないのです。


だから民主主義で國を治めてゆけば、みなさんは幸福になり、また國もさかえてゆくでしょう。



 國は大きいので、このように國の仕事を國会の議員にまかせてきめてゆきますから、國会は國民の代わりになるものです。


この「代わりになる」ということを「代表」といいます。


まえに申しましたように、民主主義は、國民ぜんたいで國を治めてゆくことですが、國会が國民ぜんたいを代表して、國のことをきめてゆきますから、これを「代表制民主主義」のやりかたといいます。



 しかしいちばん大事なことは、國会にまかせておかないで、國民が、じぶんで意見をきめることがあります。


こんどの憲法でも、たとえばこの憲法をかえるときは、國会だけできめないで、國民ひとり/\が、賛成か反対かを投票してきめることになっています。


このときは、國民が直接に國のことをきめますから、これを「直接民主主義」のやりかたといいます。


あたらしい憲法は、代表制民主主義と直接民主主義と、二つのやりかたで國を治めてゆくことにしていますが、代表制民主主義のやりかたのほうが、おもになっていて、直接民主主義のやりかたは、いちばん大事なことにかぎられているのです。


だからこんどの憲法は、だいたい代表制民主主義のやりかたになっているといってもよいのです。



 みなさんは日本國民のひとりです。


しかしまだこどもです。


國のことは、みなさんが二十歳になって、はじめてきめてゆくことができるのです。


國会の議員をえらぶのも、國のことについて投票するのも、みなさんが二十歳になってはじめてできることです。


みなさんのおにいさんや、おねえさんには、二十歳以上の方もおいででしょう。


そのおにいさんやおねえさんが、選挙の投票にゆかれるのをみて、みなさんはどんな氣がしましたか。


いまのうちに、よく勉強して、國を治めることや、憲法のことなどを、よく知っておいてください。


もうすぐみなさんも、おにいさんやおねえさんといっしょに、國のことを、じぶんできめてゆくことができるのです。


みなさんの考えとはたらきで國が治まってゆくのです。


みんながなかよく、じぶんで、じぶんの國のことをやってゆくくらい、たのしいことはありません。


これが民主主義というものです。


三 國際平和主義


 國の中で、國民ぜんたいで、物事をきめてゆくことを、民主主義といいましたが、國民の意見は、人によってずいぶんちがっています。


しかし、おゝぜいのほうの意見に、すなおにしたがってゆき、またそのおゝぜいのほうも、すくないほうの意見をよくきいてじぶんの意見をきめ、みんなが、なかよく國の仕事をやってゆくのでなければ、民主主義のやりかたは、なりたたないのです。


挿絵3


 これは、一つの國について申しましたが、國と國との間のことも同じことです。


じぶんの國のことばかりを考え、じぶんの國のためばかりを考えて、ほかの國の立場を考えないでは、世界中の國が、なかよくしてゆくことはできません。


世界中の國が、いくさをしないで、なかよくやってゆくことを、國際平和主義といいます。


だから民主主義ということは、この國際平和主義と、たいへんふかい関係があるのです。


こんどの憲法で民主主義のやりかたをきめたからには、またほかの國にたいしても國際平和主義でやってゆくということになるのは、あたりまえであります。


この國際平和主義をわすれて、じぶんの國のことばかり考えていたので、とうとう戰爭をはじめてしまったのです。


そこであたらしい憲法では、前文の中に、これからは、この國際平和主義でやってゆくということを、力強いことばで書いてあります。


またこの考えが、あとでのべる戰爭の放棄、すなわち、これからは、いっさい、いくさはしないということをきめることになってゆくのであります。


四 主権在民主義


 みなさんがあつまって、だれがいちばんえらいかをきめてごらんなさい。


いったい「いちばんえらい」というのは、どういうことでしょう。


勉強のよくできることでしょうか。


それとも力の強いことでしょうか。


いろ/\きめかたがあってむずかしいことです。



 國では、だれが「いちばんえらい」といえるでしょう。


もし國の仕事が、ひとりの考えできまるならば、そのひとりが、いちばんえらいといわなければなりません。


もしおおぜいの考えできまるなら、そのおゝぜいが、みないちばんえらいことになります。


もし國民ぜんたいの考えできまるならば、國民ぜんたいが、いちばんえらいのです。


こんどの憲法は、民主主義の憲法ですから、國民ぜんたいの考えで國を治めてゆきます。


そうすると、國民ぜんたいがいちばん、えらいといわなければなりません。


挿絵4


 國を治めてゆく力のことを「主権」といいますが、この力が國民ぜんたいにあれば、これを「主権は國民にある」といいます。


こんどの憲法は、いま申しましたように、民主主義を根本の考えとしていますから、主権は、とうぜん日本國民にあるわけです。


そこで前文の中にも、また憲法の第一條にも、「主権が國民に存する」とはっきりかいてあるのです。


主権が國民にあることを、「主権在民」といいます。


あたらしい憲法は、主権在民という考えでできていますから、主権在民主義の憲法であるということになるのです。



 みなさんは、日本國民のひとりです。


主権をもっている日本國民のひとりです。


しかし、主権は日本國民ぜんたいにあるのです。


ひとり/\が、べつ/\にもっているのではありません。


ひとり/\が、みなじぶんがいちばんえらいと思って、勝手なことをしてもよいということでは、けっしてありません。


それは民主主義にあわないことになります。


みなさんは、主権をもっている日本國民のひとりであるということに、ほこりをもつとともに、責任を感じなければなりません。


よいこどもであるとともに、よい國民でなければなりません。



・・・・・・・


中略(参照)


・・・・・・・


十五 最高法規


 このおはなしのいちばんはじめに申しましたように、「最高法規」とは、國でいちばん高い位にある規則で、つまり憲法のことです。


この最高法規としての憲法には、國の仕事のやりかたをきめた規則と、國民の基本的人権をきめた規則と、二つあることもおはなししました。


この中で、國民の基本的人権は、これまでかるく考えられていましたので、憲法第九十七條は、おごそかなことばで、この基本的人権は、人間がながいあいだ力をつくしてえたものであり、これまでいろ/\のことにであってきたえあげられたものであるから、これからもけっして侵すことのできない永久の権利であると記しております。


 憲法は、國の最高法規ですから、この憲法できめられてあることにあわないものは、法律でも、命令でも、なんでも、いっさい規則としての力がありません。


これも憲法がはっきりきめています。


 このように大事な憲法は、天皇陛下もこれをお守りになりますし、國務大臣も、國会の議員も、裁判官も、みなこれを守ってゆく義務があるのです。


また、日本の國がほかの國ととりきめた約束(これを「條約」といいます)も、國と國とが交際してゆくについてできた規則(これを「國際法規」といいます)も、日本の國は、まごころから守ってゆくということを、憲法できめました。


 みなさん、あたらしい憲法は、日本國民がつくった、日本國民の憲法です。


これからさき、この憲法を守って、日本の國がさかえるようにしてゆこうではありませんか。



おわり



底本:「あたらしい憲法のはなし」日本平和委員会
   1972(昭和47)年11月3日初版発行
   2004(平成16)年1月27日第38版
底本の親本:「あたらしい憲法のはなし」実業教科書株式会社
   1947(昭和22)年7月28日同日翻刻印刷
   1947(昭和22)年8月2日同日翻刷発行
   1947(昭和22)年8月2日文部省検査済
※「/\」と「/″\」の使い方は、底本通りにしました。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年6月9日作成
2013年6月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


*表記について
このファイルは W3C 勧告 XHTML1.1 にそった形式で作成されています。
[#…]は、入力者による注を表す記号です。



____青空文庫の「あたらしい憲法のはなし」
がアクセスできなくなったので、


挿絵入りが保存されているブログがこちらです。



みんなの知識 ちょっと便利帳


「あたらしい憲法のはなし [ふりがな付き]」
[ 1947年(昭和22年) 文部省 中学1年生用教科書 ]



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24. 豊岳正彦[107] lkyKeJCzlUY 2018年8月21日 13:19:47 : AKB67GaCh2 : rOxK_DunrP0[108] 報告
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「十七条憲法」
五箇条の御誓文
日本国憲法
↑↑↓


仏教聖典おしえ第一章因縁第三節第三項 (華厳経)


 この世の中には、三つの誤った見方がある。もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが否定されることになる。


 一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、すべて運命であると主張する。二つには、ある人は、それはすべて神の御業(みわざ)であるという。三つには、またあるひとは、すべて因も縁もないものであるという。


 もしも、すべてが運命によって定まっているならば、この世においては、善いことをするのも、悪いことをするのも、みな運命であり、幸・不幸もすべて運命となって、運命のほかには何ものも存在しないことになる。


 したがって、人びとに、これはしなければならない、これはしてはならないという希望も努力もなくなり、世の中の進歩も改良もないことになる。


 次に、神の御業であるという説も、最後の因も縁もないとする説も、同じ非難が浴びせられ、悪を離れ、善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。


 だから、この三つの見方はみな誤っている。どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。


(A6文庫本p45)
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 法句経の現代語訳から


「自分よりも愛しいものはない。同様に他の人々にも、自己は愛しい。故に自己を愛するものは、他人を害してはならない。」


「生き物を自ら害すべからず。また他人をして殺さしめてはいけない。また、他の人々が殺害するのを容認してはならない。」


「あらゆる生物にたいして暴力や悩みを与えてはならない。」


「世界はどこも、とどまってはいない。すべての方角も揺れ動いている。私は、安住の地を求め探したが、どこにもなかった。すべて、死や苦しみにとりつかれている所ばかりだった。殺そうとしている人々を見よ。武器をとって打とうとしたことから恐怖が起こった。すべてのものは、燃えている。欲望と怒りと愚かさによって。」


「怨みは怨みをもって止まず。怨みを捨ててこそ止む」


「人の価値とは、生まれや身分によるものではなく、清らかな行いによって決まる」


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http://www.asyura2.com/15/senkyo198/msg/416.html#c30


仏教聖典p85


おしえ第四章煩悩第一節心の穢れ第七項( パーリ、本事經二四)



 外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさと高ぶりとは、四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。


 心に貪りと瞋りと愚かさがあるときは、口には偽りと無駄口悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。


 意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。
 知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。
 人の貪りも、愛欲も恐れも瞋りも、愚かさからくるし、人の難儀も不幸も、また愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。


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http://www.asyura2.com/15/senkyo198/msg/416.html#c29



仏教聖典 はげみ 第二章実践の道 第二節 さまざまな道 A6文庫本p177~


十二、(パーリ、本事經三九、四〇)


 おのれに恥じず、他にも恥じないのは、世の中を破り、おのれを恥じ、他にも恥じるのは、世の中を守る。慚愧(ざんぎ)の心があればこそ、父母・師・目上の人を敬う心も起こり、兄弟姉妹の秩序も保たれる。まことに、自ら省みて、わが身を恥じ、人の有様を見ておのれに恥じるのは、尊いことといわなければならない。


 懺悔(さんげ)の心が起これば、もはや罪は罪でなくなるが、懺悔の心がないならば、罪は永久に罪として、その人をとがめる。


 正しい教えを聞いて、いくたびもその味わいを思い、これを修め習うことによって、教えが身につく。思うこと修めることがなければ、耳に聞いても身につけることはできない。


 信と慚(ざん)と愧(ぎ)と努力と智慧(ちえ)とは、この世の大きな力である。
このうち、智慧の力が主であって、他の四つは、これに結びつく従の力である。


 道を修めるのに、雑事にとらわれ、雑談にふけり、眠りを貪るのは、退歩する原因である。


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仏教聖典p229第三節もろ人のために から転載する。



一、(長阿含經第二、遊行經)


 ここに国家を栄えさせる七つの教えがある。


 一つには、国民はしばしば会合して政治を語り、国防を厳にして自ら守り、


 二つには、上下心を一つにして相和し、ともに国事を議し、


 三つには、国風を尊んでみだりにあらためず、礼を重んじ義を尊び、


 四つには、男女の別を正し、長幼の序を守って、よく社会と家庭の純潔を保ち、


 五つには、父母に孝し、師長に仕え、


 六つには、祖先の祭壇をあがめて祭儀を行い、


 七つには、道を尊び徳をあがめ、徳の高い師について教えを仰ぎ、厚く供養することである。


 どんな国でも、この七つの教えをよく守って破ることがないならば、その国の栄えることは疑いがなく、外国の侮りを受けることはないであろう。



二、(華厳経第三四、入法界品)


 昔、大光王は、自分の王道を次のように説いた。


 「自分の国家を治める道は、まず自分を修めることである。自ら慈の心を養って、この心をもって国民に臨み、人びとを教え導いて心の垢を除き去り、身と心を和らげて、世の中の楽しみにまさる正しい教えの喜びを得させる。


 また、貧しいものが来たときには、蔵を開いて心のままに取らせる。そしてこれを手がかりとして、すべての悪から遠ざかるように戒める。


 人びとは各々その心をもととして、見るところを異にする。この城中の民にしても、この都を美しいと見るものもあれば、また汚いと見るものもある。これは各々、その心、その環境がそうさせるのである。


 教えを尊び、心の正しい素直な人は、木石にも瑠璃の光を見るのであるが、欲が深くて自分を修めることを知らない者は、どんな立派な御殿でもなお美しいと見ることはできない。


 国民の生活は、万事みなこのとおり、心がもとになっているから、わたしは国を治める大もとを、民にその心を修めさせることに置いている。」




三、(金光明經第一二、四天王護国品)


 大光王のことばどおり、政道の大もとは、民にその心を修めさせることにある。


 この心を修めることはさとりの道に進むことであるから、政治の上に立つ人は、まず仏の教えを信じなければならない。


 もし政治を行う人が、仏を信じ、教えを信じて、慈悲深く徳のある人を敬い、これに供養するならば、敵もなく、恨みもなく、国家は必ず栄えるに違いない。


 そして、国が富み栄えるならば、他の国を貪り攻めることもなく、また他を攻める武器の必要もなくなるであろう。


 したがって国民も満足して楽しみを受け、上下和らいでむつみあい、善を増し徳を積んで互いに敬愛し喜び合うから、いよいよ人は栄え、寒さ暑さもととのい、日も月も星も常の程度を失わず、風雨が時に従うようになり、こうしていろいろの災いも遠ざかるようになるであろう。




四、(大薩遮尼揵子所説經)


 王たるものの勤めは、民を守ることにある。王は民の父母であり、教えによって民を守るからである。民を養うことは、父母が赤子を養うようなもので、父母が赤子のことばを待たず、湿ったものを取り替えて新しい布を当てがうように、いつも民に幸いを与えて悩みを去るよう慈しみ養うのである。まことに王は、民をもって国の宝とする。これは、民が安らかでなければ政道が立たないからである。


 だから、王たるものは、民を憂えてしばらくも心を離さない。民の苦楽を察し、民の繁栄をはかり、そのためには常に水を知り、風、雨を知り、実りの善悪を知り、日照りを知り、民の憂いと喜びを知り、罪の有無と軽重、功績の有無などをよく知って、賞罰の道を明らかにする。


 このように民の心を知って、与えなければならないものは時をはかって与え、取るべきものはよく量って取り、民の利を奪わないよう、よく税を軽くして民を安らかにする。


 王は力と権威によって民を守り、このようにして民の心になって民をよく見守るものが王と呼ばれる。



五、


 この世の中の王を転輪王というが、転輪王とはその家系が正しく、身分が尊くてよく四辺を統御し、また教えを守るところの王である。


 この王のゆくところには、戦いもなく恨みもなく、よく教えによって徳をしき、民を安らかにして邪と悪を下す。


 また転輪王は、殺さず、盗まず、よこしまな愛欲を犯さず、偽り、悪口、二枚舌、むだ口を言わず、貪らず、瞋らず、愚かでない。この十善を行って民の十悪を去らせる。


 また、教えによって政治を正すから、天下において思いのままになすことができ、そのゆくところには戦いがなく、恨みもなく、互いに相犯すこともない。したがって、民は和らぎ、国は安らいで、民にいよいよその生を楽しませることができる。だから教えを守る王といわれるのである。


 また転輪王は、王の中の王であるから、もろもろの王はみなその徳を喜び、その教えに従って各々その国を治める。


 このように転輪王は、もろもろの王をして各々その国に安んじさせ、正しい教えのもとに王の任を果たさせる。



六、


 また王は罪を裁決するにも、慈悲の心をもととしなければならない。明らかな智慧をもってよく観察し,五つの原則をもってよく処置しなければならない。


 五つの原則というのは、


 一つには、実によって不実によらない。これは、事実を調べて、その事実によって処断することである。


 二つには、時(じ)によって非時(ひじ)によらない。これは、王に力のあるときが時(じ)であり、力のないときが非時(ひじ)である。力のあるときは罰しても効果があるが、力のないときには罰しても混乱があるだけであるから、時を待たなければならない。


 三つには、動機によって結果によらない。これは、罪を犯すものの心に立ち入って、それが故意であるか故意でないかを見きわめ、故意のことでなければ許すのをいう。


 四つには、親切なことばによってあらいことばによらない。これは、罪が規則のどれに当たるかを明らかにして罪以上の罰を与えないようにし、また柔らかい優しいことばで諭してその罪を覚(さと)らせるのをいう。


 五つには、慈悲の心によって瞋(いか)りの心によらない。罪を憎んで人を憎まず、慈悲の心をもととして、罪を犯したものにその罪を悔いあらためさせるように仕向けるのである。



七、


 もし王の重臣であって国家の大計を思わず、ただ自分の利ばかりを求め、賄賂を取って政道を曲げ、人民の気風を頽廃させるならば、人民は互いに相欺くようになり、強い者は弱い者をしいたげ、貴い者は卑しい者を軽んじ、富んだ者は貧しい者を欺き、曲がった道理をもって正しいものを曲げることになるから、災いがいよいよ増長するようになる。


 すると忠実な重臣は隠れ退き、心あるものも危害を怖れて沈黙し、ただへつらう者だけが政権をとって、みだりに公権を用いて私腹を肥やし、民の貧しさは少しも救われないようになる。


 このようになると、政令は行われなくなり、政道はまったくゆるんでしまう。


 このような悪人こそ、民の幸福を奪う盗賊であるから、国家のもっとも大きな悪賊といわなければならない。なぜなら、上を欺き下を乱して、一国の災いの源となるからである。王はこのような者を、もっとも厳しく処罰しなければならない。


 また教えによって政治をしく王の国において、父母の生育の恩を思わず、妻子にだけ心を傾けて父母を養わず、あるいはまた、父母の所有を奪ってその教えに従わないものは、これをもっとも大きな悪の中に数えなければならない。


 なぜなら、父母の恩はまことに重くて、一生心を尽くして孝養しても、し尽くせないものだからである。主君に対して忠でなく、親に対して孝でない者は、もっとも重い罪人として処罰しなければならない。


 また教えによって政治をしく王の国の中においては、仏と教えと教団(仏法僧)の三宝に対して信ずる心がなく、寺を壊し経を焼き、僧侶を捕らえて駆使するなど仏の教えを破る行いをする者は、もっとも重い罪の者である。


 なぜなら、これらはすべての善行のもとである民の信念を覆すものだからである。これらの者は、みなすべての善根を焼き尽くして、自ら自分の穴を掘るものである。


 この三種の罪がもっとも重く、したがってもっとも厳しく処罰しなければならない。その他の罪は、これらに比べると、なお軽いといわなければならない。」



八、


 正しい教えを守る王に対して逆らう賊が起こるか、あるいは外国から攻め侵すものがあるときは、正しい教えの王は三種の思いを持たなければならない。


 それは、第一には、逆賊または外敵は、ただ人を損い人民を虐げることばかりを考えている。自分は武力をもって民の苦しみを救おう。


 第二には、もし方法があるなら、刃(やいば)を動かさないで、逆賊や外敵を平らげよう。


 第三には、敵をできるだけ生け捕りにして、殺さないようにし、そしてその武力をそごう。


王はこの三つの心を起こして、それから後に部署を定め訓令を与えて戦いにつかせる。


 このようにするとき、兵はおのずから王の威徳をおそれ敬ってよくその恩になずき、また戦いの性質をさとって王を助け、そして王の慈悲が後顧の憂いをなくすことを喜びながら、王の恩に報いるために戦いに従うから、その戦いはついに勝利を得るだけでなく、戦いもかえって功徳となるであろう。



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