拈華微笑 南無父母不二佛

何でも仏教徒として思いついたことを書きます

日本国憲法主権者『勤労子育て国民日本国王』が裁く裁判は『罪を憎んで人を憎まず』転輪王大慈悲裁判である。

日本国憲法主権者『勤労子育て国民日本国王』が裁く裁判は『罪を憎んで人を憎まず』転輪王大慈悲裁判である。
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仏教聖典237版「長阿含経、遊行経、華厳経、入法界品、
金光明経、四天王護国品、大薩遮尼*けん子所説経」(*は手へんに建のつくり)


第三節 もろ人のために 


 一、(長阿含経第二、遊行経)
 ここに国家を栄えさせる七つの教えがある。


一つには、
国民はしばしば会合して政治を語り、
国防を厳にして自ら守り、


二つには、
上下心を一つにして相和し、
ともに国事を議し、


三つには、
国風を尊んでみだりにあらためず、
礼を重んじ義を尊び、


四つには、
男女の別を正し、
長幼の序を守って、
よく社会と家庭の純潔を保ち、


五つには、
父母に孝し、
師長に仕え、


六つには、
祖先の祭壇をあがめて祭儀を行い、


七つには、
道を尊び徳をあがめ、
徳の高い師について教えを仰ぎ、
厚く供養することである。


 どんな国でも、
この七つの教えをよく守って破ることがないならば、
その国の栄えることは疑いがなく、
外国の侮りを受けることはないであろう。


 二、(華厳経第三四、入法界品)
 昔、大光王は、自分の王道を次のように説いた。


 「自分の国家を治める道は、まず自分を修めることである。
自ら慈の心を養って、
この心をもって国民に臨み、
人びとを教え導いて心の垢を除き去り、
身と心を和らげて、
世の中の楽しみにまさる正しい教えの喜びを得させる。


 また、貧しいものが来たときには、蔵を開いて心のままに取らせる。
そしてこれを手がかりとして、すべての悪から遠ざかるように戒める。


 人びとは各々その心をもととして、見るところを異にする。
この城中の民にしても、この都を美しいと見るものもあれば、また汚いと見るものもある。
これは各々、その心、その環境がそうさせるのである。


 教えを尊び、心の正しい素直な人は、木石にも瑠璃の光を見るのであるが、
欲が深くて自分を修めることを知らない者は、どんな立派な御殿でもなお美しいと見ることはできない。


 国民の生活は、万事みなこのとおり、
心がもとになっているから、
わたしは国を治める大もとを、
民にその心を修めさせることに置いている。」


 三、(金光明経第一二、四天王護国品)
 大光王のことばどおり、
政道の大もとは、
民にその心を修めさせることにある。


 この心を修めることはさとりの道に進むことであるから、
政治の上に立つ人は、まず仏の教えを信じなければならない。


 もし政治を行う人が、
仏を信じ、
教えを信じて、
慈悲深く徳のある人を敬い、
これに供養するならば、
敵もなく、
恨みもなく、
国家は必ず栄えるに違いない。


 そして、国が富み栄えるならば、
他の国を貪り攻めることもなく、
また他を攻める武器の必要もなくなるであろう。


 したがって国民も満足して楽しみを受け、
上下和らいでむつみあい、
善を増し徳を積んで互いに敬愛し喜び合うから、
いよいよ人は栄え、
寒さ暑さもととのい、
日も月も星も常の程度を失わず、
風雨が時に従うようになり、
こうしていろいろの災いも遠ざかるようになるであろう。


 四、(大薩遮尼*子所説経)
 王たるものの勤めは、民を守ることにある。
王は民の父母であり、
教え(すなわち仏法)によって民を守るからである。
民を養うことは、父母が赤子を養うようなもので、
父母が赤子のことばを待たず、湿ったものを取り替えて新しい布を当てがうように、
いつも民に幸いを与えて悩みを去るよう慈しみ養うのである。
まことに王は、民をもって国の宝とする。
これは、
民が安らかでなければ政道が立たないからである。


 だから、
王たるものは、民を憂えてしばらくも心を離さない。
民の苦楽を察し、
民の繁栄をはかり、
そのためには
常に水を知り、風、雨を知り、
実りの善悪を知り、
日照りを知り、
民の憂いと喜びを知り、
罪の有無と軽重、功績の有無などをよく知って、
賞罰の道を明らかにする。


 このように民の心を知って、
与えなければならないものは時をはかって与え、
取るべきものはよく量って取り、
民の利を奪わないよう、よく税を軽くして
民を安らかにする。


 王は力と権威によって民を守り、
このようにして
民の心になって民をよく見守るものが王と呼ばれる。


 五、(大薩遮尼*子所説経)
 この世の中の王を転輪王というが、
転輪王とはその家系が正しく、身分が尊くてよく四辺を統御し、
また教えを守る(即ち仏法に帰依する)ところの王である。


 この王のゆくところには、
戦いもなく恨みもなく、
よく教え(仏法)によって
徳をしき、
民を安らかにして
邪と悪を下す。


 また転輪王は、
殺さず、
盗まず、
よこしまな愛欲を犯さず、
偽りを言わず、
悪口を言わず、
二枚舌を使わず、
むだ口を言わず、
貪らず、
瞋(いか)らず、
愚かでない。
この十善を行って民の十悪を去らせる。


 また、教え(即ち仏法の大慈悲)によって政治を正すから、
天下において思いのままになすことができ、
そのゆくところには戦いがなく、
恨みもなく、
互いに相犯すこともない。
したがって、
民は和らぎ、
国は安らいで、
民にいよいよその生を楽しませることができる。
だから教えを守る(即ち仏法に帰依する)王といわれるのである。


 また転輪王は、王の中の王であるから、
もろもろの王はみなその徳(大慈悲)を喜び、
その教え(すなわち大慈悲仏法)に従って各々その国を治める。


(聖徳太子が作った*『憲法』という倭言葉(やまとことのは)の言霊(ことだま)は、
「和を以て貴しとなす」仏法僧に憲(のっと)って大倭国(おおやまとのくに)を治める、であるから、
憲法の法はまことに「篤く敬うべしの」*仏法そのものである)


 このように転輪王は、
もろもろの王をして各々その国に安んじさせ、正しい教えのもとに王の任を果たさせる。


 六、(大薩遮尼*子所説経)
 また王は罪を裁決するにも、慈悲の心(すなわち仏法)をもととしなければならない。
明らかな智慧をもってよく観察し、
五つの原則をもってよく処置しなければならない。


 五つの原則というのは、
一つには、実によって不実によらない。
これは、事実を調べて、その事実によって処断することである。


 二つには、時(じ)によって非時(ひじ)によらない。
これは、王に力のあるときが時(じ)であり、力のないときが非時(ひじ)である。
力のあるときは罰しても効果があるが、
力のないときには罰しても混乱があるだけであるから、
時を待たなければならない。


 三つには、動機によって結果によらない。
これは、罪を犯すものの心に立ち入って、
それが故意であるか故意でないかを見きわめ、
故意のことでなければ許すのをいう。


 四つには、親切なことばによってあらいことばによらない(和顔愛語)。
これは、
罪が規則のどれに当たるかを明らかにして罪以上の罰を与えないようにし、
また柔らかい優しいことばで諭してその罪を覚(さと)らせるのをいう。


 五つには、慈悲の心によって瞋(いか)りの心によらない。
罪を憎んで人を憎まず、
慈悲の心をもととして、
罪を犯したものにその罪を悔いあらためさせるように仕向けるのである(和顔愛語)。


 七、(大薩遮尼*子所説経)
 もし王の重臣であって
国家の大計を思わず、
ただ自分の利ばかりを求め、
賄賂を取って政道を曲げ、
人民の気風を頽廃させるならば、
人民は互いに相欺くようになり、
強い者は弱い者をしいたげ、
貴い者は卑しい者を軽んじ、
富んだ者は貧しい者を欺き、
曲がった道理をもって正しいものを曲げることになるから、
災いがいよいよ増長するようになる。


 すると忠実な重臣は隠れ退き、
心あるものも危害を怖れて沈黙し、
ただへつらう者だけが政権をとって、
みだりに公権を用いて私腹を肥やし、
民の貧しさは少しも救われないようになる。


 このようになると、
政令は行われなくなり、
政道はまったくゆるんでしまう。


 このような悪人こそ、民の幸福を奪う盗賊であるから、
国家のもっとも大きな悪賊といわなければならない。
なぜなら、上を欺き下を乱して、一国の災いの源となるからである。
王はこのような者を、もっとも厳しく処罰しなければならない。


 また教えによって政治をしく王の国において、
父母の生育の恩を思わず、
妻子にだけ心を傾けて父母を養わず、
あるいはまた、
父母の所有を奪って
その(父母の)教えに従わないものは、
これをもっとも大きな悪の中に数えなければならない。


 なぜなら、
父母の恩はまことに重くて、
一生心を尽くして孝養しても、
し尽くせないものだからである。
主君に対して忠でなく、
親に対して孝でない者は、
もっとも重い罪人として処罰しなければならない。


 また教えによって政治をしく王の国の中においては、
仏と教えと教団(仏法僧)の三宝に対して信ずる心がなく、
寺を壊し経を焼き、
僧侶を捕らえて駆使するなど
仏の教えを破る行いをする者は、
もっとも重い罪の者である。


 なぜなら、
これらはすべての善行のもとである民の信念を覆すものだからである。
これらの者は、みなすべての善根を焼き尽くして、
自ら自分の穴を掘るものである。


 この三種の罪がもっとも重く、
したがってもっとも厳しく処罰しなければならない。
その他の罪は、これらに比べると、
なお軽いといわなければならない。


 八、(大薩遮尼*子所説経)
 正しい教えを守る王に対して逆らう賊が起こるか、
あるいは外国から攻め侵すものがあるときは、
正しい教えの王は三種の思いを持たなければならない。


 それは、
第一には、
逆賊または外敵は、ただ人を損い人民を虐げることばかりを考えている。
自分は武力をもって民の苦しみを救おう。


 第二には、
もし方法があるなら、
刃(やいば)を動かさないで、
逆賊や外敵を平らげよう。


 第三には、
敵をできるだけ生け捕りにして、
殺さないようにし、
そしてその武力をそごう。


王はこの三つの心を起こして、
それから後に部署を定め訓令を与えて戦いにつかせる。


 このようにするとき、
兵はおのずから王の威徳をおそれ敬ってよくその恩になずき、
また戦いの性質をさとって王を助け、
そして王の慈悲が後顧の憂いをなくすことを喜びながら、
王の恩に報いるために戦いに従うから、
その戦いはついに勝利を得るだけでなく、
戦いもかえって功徳となるであろう。




__豐嶽醫王第六坊主父母院不二正恩居士義疏__


日本国憲法も十七条憲法も江戸幕府諸法度も五箇条ご誓文もすべて、


仏法であり、


三宝に帰依して一切平等平和の人道仏道を修めるゆえ不二法門である。


「大日本帝国憲法」のみ、三宝に帰依せず、万物は天皇一人の所有で、


天皇独り以外の人間は全て天皇現人神絶対神へ奴隷服従し帰依奉仕させられる、


一神教無慈悲冷酷唯物拝金の反人道政教一致「ハムラビ法典」である。




『三宝帰依転輪王裁判は過失無罪』であり、慈悲の智慧で罪を裁くがゆえに


『罪を憎んで人を憎まず』。


これに対し東大法学部前田刑法学教室の東大卒奇形司法学士公務員が金科玉条とする「過失有罪」は、


明らかに政教一致カルト唯物拝金無慈悲冷酷絶対神造物主一神教「ハムラビ法典」の


『人を憎んで罪を憎まず』であり、




明治以来国民学校検定教科書に書き加えられ、教師が一律に子どもらに聖書の如く丸暗記を強制した教科書用語は、


明らかにムー文明大和民族先祖代々母から子へ抱っこの口伝で代々の子孫が学んだ三つ子の大和魂「親孝行親切慈悲布施報恩言霊」ではなく、


明治維新文明開化大号令のもとで米国フリーメーソンジョン万次郎と福沢諭吉が英米語から虚偽の意訳で捏造したことで言霊を抜かれた、


まるっきりのニセ日本語である現代国語で書かれているがゆえ、




現在の受験地獄社会において教科書丸暗記学歴だけを恃む東大奇形司法法学部卒が使う東大話法だけは、


明治廃仏毀釈フリーメーソンが捏造した言霊無き奇形日本語ゆえに、


万国の万人老若男女すべての人の耳には、


痴れ者の戯言世迷い言にしか聞こえないのである。




いまコロナパンデミックロックダウン世界大恐慌のみぎり、


東大卒厚労省医政局医系技官官僚公務員「日本国憲法国民君主の下僕公僕」が、


自分が滅私奉公すべき責務を負う日本国王勤労子育て主権者国民に向かって、


主君を口先で騙して主君の親や子どもに治験データが無いまま外国製の毒を盛れば、


火を見るよりも明白な「弑逆」乱心の謀反『下剋上』であり、


君主国民全体『即ち国体或いは玉体』に対する下僕官僚の『無差別虐待殺人テロ』である。




斯様な憲法15条公務員の職権濫用汚職特別刑事犯罪は、


そのままで現行犯の憲法最高法規99条違反刑法極刑内乱罪でもある。




日本国憲法は転輪王が帰依する三宝すなわち仏法だから、


『過失無罪』の、


『罪を憎んで人を憎まず』して、


海より深く山より高い父母の無窮なる大慈悲をもって、


すべての罪人を仏の智慧によって正しく裁くであろう。


___


仏教伝道協会出版「仏教聖典」から引用し豊岳正彦が言霊日本語を用語解説した。


発願者沼田惠範尊者https://www.bdk.or.jp/bdk/founder.html


仏教聖典


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http://bdksales.shop24.makeshop.jp/shop/shopdetail.html?brandcode=000000000164&search=&sort=


また、仏教聖典を出版する菩薩行に不惜身命尽くし続けた発願者沼田惠範尊者は、


明治30年広島県の志和村に在る浄土真宗本願寺派浄蓮寺の三男坊として生を受け、


母親から南無阿弥陀佛篤信の悲母観音薫育を受けて、


漢文のお経を言霊日本語へ翻訳した仏教聖典の刊行に生涯をささげた大菩薩と成られたのである。


明治以前幕末の浄蓮寺がある志和村で結成された神機隊は、


薩長土肥藩閥明治新政府に長く歴史を隠蔽されてきたが実は大政奉還と戊辰戦争の真実の立役者であり、


仙台藩と戊辰戦争最大激戦の地福島県双葉郡浪江村で吶喊中銃弾を頭部に受けて壮烈な最期を遂げ、


明治新政府の軍神と成って広島護国神社に祀られる高間省三砲兵隊長始め志和の藝藩学問所神機隊隊士は、


全員が篤信の浄土真宗安芸門徒であった。


穂高健一氏の著書に安芸門徒の手で成し遂げられた真実の明治維新が克明に描かれている。


「芸州広島藩神機隊物語」初版の帯に『民のために命を惜しむなかれ』とある。


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