受け継ぎて国の司の身となれば 忘るまじきは民の父母 /上杉鷹山
受け継ぎて国の司の身となれば 忘るまじきは民の父母 /上杉鷹山
hougakumasahiko.muragon.com/entry/209.html
【日本 金メダルラッシュ! 「だから言っただろ?コロナなんか忘れて馬鹿騒ぎするんだよ。 この調子で選挙も宜しく頼むよ」 菅義偉】ラ・ターシュに魅せられて
latache1992.blog56.fc2.com/blog-entry-866.html
十七条憲法即不二武士道無刀流主権在民日本国憲法詠み人無我無法無門無畏天下無双通りがけ
-------------------------------------------------------------------------
善良であるために父母と同じ善管注意義務を果たせと教える日本国憲法
【ゆっくり解説】知らずに赤ちゃんに与えていた粉ミルクに猛毒・・・『ヒ素ミルク公害』【1955年】
youtube.com/watch?v=KAmDsilRiZ8
豊岳正彦1 時間前(編集済み)
亡父豊岳正道が岡山日赤で小児科勤務時にこれが森永粉ミルクによる中毒であることを特定した第一報告者です。
私も工場で作られた飲料や食料や薬品には基本的に信頼を置いていません。
製品になった時点で製造過程に何の混入事故があってもわからないからです。
中坊公平氏が被害者損害賠償請求の原告側弁護士として法曹界にデビューしたのがこの事件でありました。
豊岳正彦0 秒前
粉ミルクの問題は現在も続いています。
東北大震災後放射性核物質が降り注いだ牧草を食べた牛の牛乳を使って工場で大量生産した粉ミルクを販売した森永ではない大手乳業会社がありました。
これは厚労省医政局の問題です。善管注意義務違反ですね。
豊岳正彦1 秒前
あらゆる公害で最も大きな直接被害を受けるのが胎児と0歳~14歳のこどもです。
豊岳正彦1 時間前(編集済み)
私は東海村JCO臨界事故の時JCOから直線距離で11㎞の水戸市に住んでいました。
風向きを全く考慮せずただ半径10㎞の同心円を描いてその内部を全てロックダウン規制しても放射能は風に乗って拡散します。
SPEEDIE情報と風向きを知らせる気象情報が被曝を避けるには必須の情報となります。
善管注意義務を全く果たさないまま同心円規制する保安院の無責任さに憤慨しました。
また保安院は原子力の専門家であり被曝の危険性を熟知しているにもかかわらず、
その中性子線被曝の致死性を全く説明せずに放射能に素人のJCO社員に臨界反応を強制的に停止させるという、
国民を守る公務員にあるまじき行政権濫用を行って、
若いJCO社員に決死隊を組織させて中性子線が発生している発生源の人力停止という、
近づけば死の危険がある極限の危険作業に従事させた、
信じられない憲法違反汚職の国民に対するテロ命令をJCO社長に強要したのです。
私は保安院官僚西山に対して怒りを抑えることができません。
JCOには私の若い友人の若くて妻子ある兄が務めていたからです。
風評被害は保安院が保身のためにつく嘘で作り出した世間の声によって起こるのです。
森永事件でも厚生省ほかの政府省庁が自らの保身のために嘘をついて被害者に対する差別という世間の風潮を作り出したように。
被害者に対する差別も公務員の嘘(憲法違反の汚職罪です)が作り出した「公害」そのものです。
豊岳正彦59 分前(編集済み)
大企業が工場で作るものは製造過程で何が入っていても製品になった時点ではわからない。
成分表示があっても必ず100%正しいことは絶対ない。
森永ヒ素ミルクは成分表示されていてもわからなかったでしょ。
どんな製品も製造者が善管注意義務を果たして製造過程を不断に点検監視しておかなければ、
コンピューター任せでは何が起こるかわからないのです。
よって私は大企業が大工場で大量生産している食品薬品の印刷された成分表示も消費期限も全く信用していません。
善管注意義務を完全に果たしているのは職人がその手の熟練の技で作る中小企業製品だけだから、
私は日本人の中小企業が作る手工業的製品しか信用しないのです。
この善管注意義務という観点から、ミルクか母乳かというような分け方は全く無意味ですね。
分類の一方であるミルクの工場製造過程に善管注意義務がまったく果たされていないから。
豊岳正彦29 分前(編集済み)
この事件で最も苦しくつらい人生を生きることを強いられたのはお母さんです。
未来の希望を託すわが子が一生障害に苦しまねばならないことを思う時その悲嘆は想像に絶するものです。
しかも製造者も医者も政府も全員その悲嘆を与えた張本人なのに言を左右していつまでも自分の責任を認めず罪を認めないばかりか、
被害者に対してただの頭のおかしなクレーマーであるという風評を流して世間に被害者を逆差別させて孤立させるという、
反人道の悪逆非道を官権力乱用して何十年も続けて罪のない被害者をゆえなく虐待し村八分の暴力で一層苦しめることだけ続けてきた。
今森永は被害者に支援をするようになっていますが、それまでうそをつき続けて国民を苦しめている間にいったい何人の赤ちゃんとその親御さんが無念の思いでこの世を去ったのか。
可愛いわが子をヒ素中毒患者にされた母親の思いを汲んで、
政府とともに御用医者とともに森永は人として心の底から誠意をもって被害者の皆様に謝ったでしょうか。
罪は懺悔しなければ永遠に罪として人をとがめるのです。罪を心から懺悔して初めて罪は消えるのです。
森永は何をこれからすればよいのか。
医者はこれから何をすればよいのか。毒入りワクチンを打ち続けるものは医者なのかただの傷害殺人犯なのか。
役人はこれから何をすればよいのか。毒入りワクチンを輸入して老若男女全員にたとえ何人死のうとも2回3回と打ち続けることが役人の仕事なのか。
日本国憲法に書いてあることをよく読みなさい。
我々日本国民は日本国憲法を守ってこそ日本国民また日本人と呼ばれるのです。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/208.html
--------------------------------------------------------------------------
【深田萌絵×大谷由里子「日本の産業はどこへ向かっていくの?」】
新ランチェスター戦略 経営実践会 公式チャンネル2021/08/05
youtube.com/watch?v=Y6zi76Sa0P4
豊岳正彦
「木に学べ」法隆寺・薬師寺の美 西岡常一
タイトルの本は1987年「BE-PAL」誌上に連載されたエッセイ形式を1988年3月小学館ライブラリーとして刊行されたものです。
最後の棟梁鵤之郷大工西岡常一氏の「あとがき」を全文転載します。
「田舎大工の口から出放題の戯言を、「BE-PAL」誌上に区切りよく連載して下さった白井康介さん、今また、その連載を一冊の本にお纏め下さった石塚郁雄さん、其の他のスタッフの皆々様に深く御礼申し上げます。
学者への不用意な放言も、歯に衣を着せて上手にお纏め下さったことに感心いたします。
私は、学問を軽んずるような心は毛頭もっておりませんが、よく考えてみて下さい。
科学知識は日進月歩で、今日の正論は明日の正論では有り得ないのではないでしょうか。
今日をもって千年後の建築の命を証明出来ないのではないかと思います。
千年どころか、明日をも律し得ないのが科学知識の天気予報やありませんか。
それはなんでかと言うたら、科学はまだまだ未完成やからだっしゃろ。
未完成の今日を科学で総てを律しようと考えがちなのが、学者さん方やおまへんやろか。
科学知識のない我々工人の言い分にも耳を傾けるような学者さんこそ、ほんとうの学者やと思いまんな。
私どもの、仕事に対する考え方や思い入れは、神代以来の体験の上に体験を重ねた伝統というものをしっかり踏まえて、仕事に打ち込んでますのやがな。
例えば、法隆寺伝統の大工には口伝というものがありますのやが、その中の一つに「堂組の木組は寸法で組まずに、木の癖を組め」と言うのがありますけど、どんな建築の本を読んでも、こんな言葉にはお目にかかりまへんな。
寸法や形式・様式には詳しいことですが、建物を造営する木の癖に触れた本には、いまだお目にかかっていまへん。
それは私の本を読む範囲がせまいのかも知れまへん。
浅学のせいでっしゃろな。
もっともっと勉強せなあかんとゆうことかいな。
何れにしても、堂塔伽藍を造営するのには、様式や形式に先だって、造営の意義と言うものがありまんがな。
例えば、法隆寺の場合には、英邁限りない聖徳太子が仏法の慈悲をもって国を治めようとなさったんやと思いますが、多くの仏法者を養成するための道場としての伽藍ですがな。
薬師寺もまた、天武・持統の両帝が、仏法興隆治国平天下の大願をもってなされた大伽藍でっせ。
仏法の慈悲ゆうたら、母が子を思う心だっせ。
火事や地震やと火急の場合、自分の一身にかえても子を救おうとする、それが慈悲でんがな。
世のお母さん方、自分の心の内をようよう振り返ってみて下され。
ようわかるはずだすが。
わからなんだら、法隆寺や薬師寺のような心構えで造営された、魂のこもる寺に、観光でなく心から参拝して祈ってみて下され。
仏法こそが、世界を最後に救う法やと感得しますし、慈悲心で国を治めようとなさった太子や天武・持統の魂が、皆様方の心にも宿りまっせ。
大工の喋ることやないことを喋りましたな。笑ってお許し下さい。
一九八七年十二月」
hougakumasahiko.muragon.com/entry/7.html
------------------------------------------------------------------------
setsuo katsuta1 日前
EV車に使う電気を太陽光でまかない切れるわけが無い。結局、原発。良いのか悪いのか
豊岳正彦3 時間前
放射能で元気になる多細胞生物は皆無だから原発はいいか悪いかの二択なら絶対悪だね。まあ地上では絶対善用不可能だけど原子炉放射能。
注目の返信setsuo katsuta2 分前
@豊岳正彦 さん
原発悪拒否なら今まで通りガソリン、軽油の直爆が最も効率が良い事は分かっているのだから、いまのままいけばいいいです。原油枯渇説のウソはバレていて大産油国が増えているのが現実。CO2を排出して植物のご飯を蓄えておけば、将来の寒冷化の穀物不足に抗えるかもしれません。
豊岳正彦0 秒前
@setsuo katsuta さん
原発を導入したのは戦前共産党で戦後東大教授有沢の原子力利用計画に基づいて中曽根康弘が田中角栄内閣の科技庁長官時に猛烈にプッシュして東海村に第一号原子炉を設置したのち急速に全国拡大着工したせいですな。中曽根も東大卒ですからフリーメーソン売国スパイです。原子炉はゆっくり爆発する原爆です。放射能の害は同じです。大勲位をもらった上級国民はみな売国奴の亡国スパイですよ。ルメイなど焼夷弾爆撃で無辜の市民を100万人焼き殺した極悪非道を昭和天皇にたたえられて大勲位ですからね。マッカーサーは辞退したそうですがまあ恥ずかしかったんでしょうよ自分が超A級戦争犯罪人だと自覚してたから。戦後世界最悪のテロ組織日本赤軍も東大医学部が発祥だからね。ご存じか知らんけど、吉田茂も東大卒です。戦前に天皇の鶴の一声で東大に裏口入学して何の単位も取らずに卒業してすぐイギリスへ外交官として派遣されました。伊藤博文より低レベルの学歴粉飾外交官ですねw
豊岳正彦
【閲覧厳禁】この動画を見る勇気はありますか?この"残酷な真実"を受け止めないと日本は詰みです。誰も教えないから私が全部言ってしまいます【武田邦彦】
youtube.com/watch?v=Ywq1o0MLx_c&t=6s
/豊岳正彦3 週間前
藤井颯太君でもないのに詰みが読めるわけないやろ、しょうもないw
米長がゆうとったやろ、兄貴どもはくそ馬鹿だから東大へ行ったって。
米長はさすがほんとの頭がいい将棋指しじゃったわいw
どえらいご先祖様もゆうとる、
「世の中は学士博士が破るもの作るは下男織るは織姫」田中正造翁
hougakumasahiko.cocolog-nifty.com/blog/2018/12/post-7ebc.html
/豊岳正彦3 週間前
GHQが作った憲法41条違反違憲立法「日本学術会議法」のWGIPに全身全霊騙されとるのが東大卒よ。
養老孟がバカ丸出しで吐いた「バカの壁」一冊だけで医学部の医学博士になった。
政府と癒着して金儲けにだけ走る銭ゲバ養成学校は明治ロックフェラーフリーメーソン福沢諭吉が三田に開いた慶応大である。
違憲立法で行政すれば公務員の憲法99条違反汚職の罪すなわち刑法極刑内乱罪だだぜ。
憲法を読んでいれば小学生でもわかるよ、ところが大卒は全員日本国憲法を読めないから公務員になればクーデターファシズムジェノサイド犯罪者と一味同心になり果てるわけだ。
学術会議法を廃止して中学校以上は国は学校法人に国庫から一銭たりとも払わんとすればよかろう。
これで日本人からバカが育たなくなってみな賢くなれること請け合いw
ameblo.jp/hougaku-masahiko/entry-12678065070.html
/注目の返信菊地大貴3 週間前
憲法を創りましょう!日本人による日本人の為の民主主義憲法を!
/返信豊岳正彦3 週間前(編集済み)
@菊地大貴
君が日本人だという保証がないね。
そもそも日本人なら日本国憲法が外人に作れるはずがないことをわかってるはずだがね。
日本語は人類世界で最も優れた言語である。
あらゆる言葉を日本語で正しく翻訳できるが、日本語はどの国のどんな言語にも翻訳できない。
日本語は仏教の言霊だからである。
仏教はすべての異教徒を排斥しない。
一神教は異教徒をすべて排斥し虐殺し根絶やしにしろと神様がジェノサイドを奨励しているね。
大きな器が仏教であり小さな器が一神教である。
大は小を容れるが小は大を容れることができない。
一神教は小さな器の中で唯一絶対神のお告げの通りに政治を行う。
これが政教一致であり、政教一致を日本語でカルトと呼ぶ。
仏教は大きな器の中に小さな器をすべて容れて、器の小さなそれぞれの神の言葉とは別に大きな視点で政を行う。
これが三世十方三千世界の中で唯一仏教のみが教える政教分離である。
仏の教えの広大無辺の大いさがなければ、政教分離もまた達成できないのだ。
日本国憲法が仏法そのものである証拠が、憲法20条である。
-------------------------------
第二〇条【信教の自由】
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
----------------------------
/豊岳正彦
政治を行うのは国及びその機関であるから、憲法20条3項は人類史上唯一無二の「政教分離」をうたった憲法であり、
憲法という言葉は聖徳太子が作った日本語であり、
仏教はこの世で唯一無二の政教分離の教えである。
七不衰法に明らかに説かれてある。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/9.html
一、(長阿含經第二、遊行經)
ここに国家を栄えさせる七つの教えがある。
一つには、国民はしばしば会合して政治を語り、国防を厳にして自ら守り、
二つには、上下心を一つにして相和し、ともに国事を議し、
三つには、国風を尊んでみだりにあらためず、礼を重んじ義を尊び、
四つには、男女の別を正し、長幼の序を守って、よく社会と家庭の純潔を保ち、
五つには、父母に孝し、師長に仕え、
六つには、祖先の祭壇をあがめて祭儀を行い、
七つには、道を尊び徳をあがめ、徳の高い師について教えを仰ぎ、厚く供養することである。
どんな国でも、この七つの教えをよく守って破ることがないならば、その国の栄えることは疑いがなく、外国の侮りを受けることはないであろう。
hougakumasahiko.muragon.com/entry/56.html
----------------------------------
/豊岳正彦
「コロナ萎縮ダンゴムシどもを 蹴散らせ!」よしりん・もくれんのオドレら正気か?#72
youtube.com/watch?v=kzllGPLhS1g
//豊岳正彦
和を以て貴しとなす。あつく三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり。
2018/08/22 05:44
asyura2.com/18/cult19/msg/559.html#c22
22. 豊岳正彦[105] lkyKeJCzlUY 2018年8月21日 11:33:36
「日いずる国の天子」聖徳太子の詔勅事績「十七条憲法」
第一条
「原文」 一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。
「読み下し」 一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とうと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわら)ぎ下(しも)睦(むつ)びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。
「現代語訳」
一にいう。
和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就(じょうじゅ)するものだ。
第二条
「原文」 二曰。篤敬三寳。三寳者仏法僧也。則四生之終帰。萬国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三寳。何以直枉。
「読み下し」 二に曰わく、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則(すなわ)ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何(いず)れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪(あ)しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。
「現代語訳」
二にいう。
あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。
第三条
「原文」 三曰。承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。四時順行。万氣得通。地欲覆天。則致壊耳。是以君言臣承。上行下靡。故承詔必慎。不謹自敗。
「読み下し」 三に曰わく、詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め。君をば則(すなわ)ち天とし、臣(しん)をば則ち地とす。天覆(おお)い地載せて四時(しじ)順行し、万気(ばんき)通うことを得(う)。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊(やぶ)るることを致さむのみ。ここをもって、君言(のたま)えば臣承(うけたまわ)り、上行なえば下靡(なび)く。ゆえに、詔を承けては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。
「現代語訳」
三にいう。
王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。
第四条
「原文」
四曰。群卿百寮。以礼為本。其治民之本。要在乎礼。上不礼而下非齊。下無礼以必有罪。是以群臣有礼。位次不乱。百姓有礼。国家自治。
「読み下し」
四に曰わく、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。それ民(たみ)を治むるの本は、かならず礼にあり。上礼なきときは、下(しも)斉(ととの)わず、下礼なきときはもって必ず罪あり。ここをもって、群臣礼あるときは位次(いじ)乱れず、百姓(ひゃくせい)礼あるときは国家自(おのずか)ら治(おさ)まる。
「現代語訳」
四にいう。
政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。
第五条
「原文」
五曰。絶餮棄欲。明辯訴訟。其百姓之訴。一日千事。一日尚尓。况乎累歳須治訟者。得利為常。見賄聴 。便有財之訟如石投水。乏者之訴似水投石。是以貧民則不知所由。臣道亦於焉闕。
「読み下し」
五に曰わく、餮(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄(す)てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(わきま)えよ。それ百姓の訟(うったえ)、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)り、況(いわ)んや歳(とし)を累(かさ)ぬるをや。頃(このごろ)、訟を治むる者、利を得るを常となし、賄(まいない)を見て?(ことわり)を聴く。すなわち、財あるものの訟は、石を水に投ぐるがごとく、乏しき者の訴は、水を石に投ぐるに似たり。ここをもって、貧しき民は則ち由(よ)る所を知らず。臣の道またここに闕(か)く。
「現代語訳」
五にいう。
官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえることが常識となり、賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである。
/豊岳正彦
第六条
「原文」
六曰。懲悪勧善。古之良典。是以无匿人善。見悪必匡。其諂詐者。則為覆国家之利器。為絶人民之鋒釼。亦侫媚者対上則好説下過。逢下則誹謗上失。其如此人皆无忠於君。无仁於民。是大乱之本也。
「読み下し」
六に曰わく、悪を懲(こら)し善を勧(すす)むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。ここをもって人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、則ち国家を覆(くつがえ)す利器(りき)たり、人民を絶つ鋒剣(ほうけん)たり。また佞(かたま)しく媚(こ)ぶる者は、上(かみ)に対しては則ち好んで下(しも)の過(あやまち)を説き、下に逢(あ)いては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それかくの如(ごと)きの人は、みな君に忠なく、民(たみ)に仁(じん)なし。これ大乱の本(もと)なり。
「現代語訳」
六にいう。
悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる。
第七条
「原文」
七曰。人各有任掌。宜不濫。其賢哲任官。頌音則起。 者有官。禍乱則繁。世少生知。尅念作聖。事無大少。得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此国家永久。社稷勿危。故古聖王。為官以求人。為人不求官。
「読み下し」
七に曰わく、人各(おのおの)任有り。掌(つかさど)ること宜(よろ)しく濫(みだ)れざるべし。それ賢哲(けんてつ)官に任ずるときは、頌音(ほむるこえ)すなわち起こり、?者(かんじゃ)官を有(たも)つときは、禍乱(からん)すなわち繁(しげ)し。世に生れながら知るもの少なし。剋(よ)く念(おも)いて聖(ひじり)と作(な)る。事(こと)大少となく、人を得て必ず治まり、時(とき)に急緩となく、賢に遇(あ)いておのずから寛(ゆたか)なり。これに因(よ)って、国家永久にして、社稷(しゃしょく)危(あや)うきことなし。故(ゆえ)に古(いにしえ)の聖王(せいおう)は、官のために人を求め、人のために官を求めず。
「現代語訳」
七にいう。
人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。
第八条
原文
八曰。群卿百寮。早朝晏退。公事靡 。終日難盡。是以遅朝。不逮于急。早退必事不盡。
読み下し
八に曰わく、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け。公事?(もろ)きことなし、終日にも尽しがたし。ここをもって、遅く朝れば急なるに逮(およ)ばず。早く退けば事(こと)尽さず。
現代語訳
八にいう。
官吏たちは、早くから出仕し、夕方おそくなってから退出しなさい。公務はうかうかできないものだ。一日じゅうかけてもすべて終えてしまうことがむずかしい。したがって、おそく出仕したのでは緊急の用に間にあわないし、はやく退出したのではかならず仕事をしのこしてしまう。
第九条
原文
九曰。信是義本。毎事有信。其善悪成敗。要在于信。群臣共信。何事不成。群臣无信。万事悉敗。
読み下し
九に曰わく、信はこれ義の本(もと)なり。事毎(ことごと)に信あれ。それ善悪成敗はかならず信にあり。群臣ともに信あるときは、何事か成らざらん、群臣信なきときは、万事ことごとく敗れん。
現代語訳
九にいう。
真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。
第十条
原文
十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理能可定。相共賢愚。如鐶无端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。従衆同擧。
読み下し
十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄(す)て、人の違(たが)うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執(と)るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫(ぼんぷ)のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖(いえど)も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独(ひと)り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。
現代語訳
十にいう。
心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。
第十一条
原文
十一曰。明察功過。罰賞必當。日者賞不在功。罰不在罪。執事群卿。宜明賞罰。
読み下し
十一に曰わく、功過(こうか)を明らかに察して、賞罰必ず当てよ。このごろ、賞は功においてせず、罰は罪においてせず、事(こと)を執(と)る群卿、よろしく賞罰を明らかにすべし。
現代語訳
十一にいう。
官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。近頃の褒賞はかならずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。指導的な立場で政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである。
第十二条
原文
十二曰。国司国造。勿斂百姓。国非二君。民無兩主。率土兆民。以王為主。所任官司。皆是王臣。何敢與公。賦斂百姓。
読み下し
十二に曰わく、国司(こくし)国造(こくぞう)、百姓(ひゃくせい)に斂(おさ)めとることなかれ。国に二君なく、民(たみ)に両主なし。率土(そつど)の兆民(ちょうみん)は、王をもって主(あるじ)となす。任ずる所の官司(かんじ)はみなこれ王の臣なり。何ぞ公(おおやけ)とともに百姓に賦斂(ふれん)せんや。
現代語訳
十二にいう。
国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。国に2人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。国内のすべての人民にとって、王(天皇)だけが主人である。役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな王の臣下である。どうして公的な徴税といっしょに、人民から私的な徴税をしてよいものか。
/豊岳正彦
第十三条
原文
十三曰。諸任官者。同知職掌。或病或使。有闕於事。然得知之日。和如曾識。其非以與聞。勿防公務。
読み下し
十三に曰わく、もろもろの官に任ずる者同じく職掌(しょくしょう)を知れ。あるいは病(やまい)し、あるいは使(つかい)して、事を闕(か)くことあらん。しかれども、知ること得(う)るの日には、和すること曽(かつ)てより識(し)れるが如くせよ。それあずかり聞くことなしというをもって、公務を防ぐることなかれ。
現代語訳
十三にいう。
いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。病気や出張などで職務にいない場合もあろう。しかし政務をとれるときにはなじんで、前々より熟知していたかのようにしなさい。前のことなどは自分は知らないといって、公務を停滞させてはならない。
第十四条
原文
十四曰。群臣百寮無有嫉妬。我既嫉人人亦嫉我。嫉妬之患不知其極。所以智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以五百之後。乃今遇賢。千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治国。
読み下し
十四に曰わく、群臣百寮、嫉妬(しっと)あることなかれ。われすでに人を嫉(ねた)めば、人またわれを嫉む。嫉妬の患(わずらい)その極(きわまり)を知らず。ゆえに、智(ち)おのれに勝(まさ)るときは則ち悦(よろこ)ばず、才おのれに優(まさ)るときは則ち嫉妬(ねた)む。ここをもって、五百(いおとせ)にしていまし賢に遇うとも、千載(せんざい)にしてもってひとりの聖(ひじり)を待つこと難(かた)し。それ賢聖を得ざれば、何をもってか国を治めん。
現代語訳
十四にいう。
官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬の憂いははてしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは500年たっても賢者にあうことはできず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない。
第十五条
原文
十五曰。背私向公。是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同。非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云。上下和諧。其亦是情歟。
読み下し
十五に曰わく、私に背(そむ)きて公(おおやけ)に向うは、これ臣の道なり。およそ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり、憾(うらみ)あれば必ず同(ととのお)らず。同らざれば則ち私をもって公を妨ぐ。憾(うらみ)起こるときは則ち制に違(たが)い法を害(そこな)う。故に、初めの章に云(い)わく、上下和諧(わかい)せよ。それまたこの情(こころ)なるか。
現代語訳
十五にいう。
私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである。
第十六条
原文
十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。従春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。
読み下し
十六に曰わく、民を使うに時をもってするは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。故に、冬の月には間(いとま)あり、もって民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑(のうそう)の節(とき)なり。民を使うべからず。それ農(たつく)らざれば何をか食(くら)わん。桑(くわ)とらざれば何をか服(き)ん。
現代語訳
十六にいう。
人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。だから冬(旧暦の10月~12月)に暇があるときに、人民を動員すればよい。春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときである。人民を使役してはいけない。人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか。
第十七条
原文
十七曰。夫事不可独断。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事。若疑有失。故與衆相辨。辞則得理。
読み下し
十七に曰わく、それ事(こと)は独(ひと)り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽(かろ)し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失(あやまち)あらんことを疑う。故(ゆえ)に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん。
現代語訳
十七にいう。
ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。
[出典]金治勇『聖徳太子のこころ』、大蔵出版、1986年
/豊岳正彦
受け継ぎて国の司の身となれば 忘るまじきは民の父母/上杉鷹山
hougakumasahiko.muragon.com/entry/209.html
(うけつぎて くにのつかさの みとなれば わするまじきは
たみのちちはは)
意味・・米沢藩の藩主となったが、藩主の決意として忘れては
ならないのが、民は自分の子供として、我が子を思う
父母の立場で藩政を司る事である。
側近の細井平洲は「人の父母と申すものは、子どもを
不憫(ふびん)に思って、我が身が飢え凍える苦しみ
よりは、子どもらの飢え凍えるのを悲しむというのが
人情であります。従って、君が人の上に立ち、一国の
民を子と思われるのであれば、君主一人だけが安楽に
いようなどとの心はなくなるはずのものでございます」
と言っています。
これを鷹山が藩主として誓いの言葉として歌に詠んだ
ものです。
作者・・上杉鷹山=うえすぎようざん。1751~1822。米沢藩
の藩主。数え16歳の時に春日神社へ奉納した血判誓詞
ameblo.jp/sakuramitih32/entry-12541799502.html
-------------------------------------------------------------------------
豊岳正彦
山岡の武士道は、仏教の理より汲んだものである。
それも、その教理が真に人間の道を教え尽くされているからであるという。
まず、世人が人を教えるに、忠・仁・義・礼・智・信とか、節義・勇武・廉恥とか、或いは、剛勇・廉潔・慈悲・節操・礼譲など、言い様は様々であるが、これらを実践躬行する人を、一般に武士道を守る人というが、山岡もこれには同意であるとして、自分には尚、人に自信するところがあるという。
「人の、此の世の中に処するには、必ず大道を履行しなければならない。故に其の淵源を理解しなければならない。
其の道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。
此処に於いて初めて無我の無我である事を悟るであろう。
これを覚悟すれば、恐らく四恩の鴻徳を奉謝する事に躊躇しないであろう。
これより武士道の要素であり震源である四恩の大要を物語るであろう。」
一、父母の恩
老幼男女の区別なく、各自で発現本所に立ち返ってみるがよい。
各自の体はみなこれ父母の遺体であって、しいて「我」なるものはない。
我々の体は皆総て父母の骨肉の分子である。
今もしこれを父母に返還してしまったならば、更に一物も「我」というべきもののある道理がない。
このように道理をわきまえてくれば、我が体は全部「我」のものでないという事が明瞭ではないか。
このようにしてようやく発育したのは、父母の恩愛の結合物であって、その結合物の活動するもの、すなわちこれが各自の体である。
故にその父母の恩愛の慈悲精神を除き去れば、只一つに「我」というもののあることはない。これがすなわち無我の真理ではないか。
このように論じくれば、各自が体、皮肉、支節、髪膚は今此処に一個として発現しておるも、深く其の理を窮めれば、これは皆、あげて父母身体の遺物と自覚するであろう。
各自この理を悟るならば、深く無我の理を悟り、父母の鴻恩を思えよ。実に広大無辺ではないか。
これらを悟ったならば、我が心身は常に父母の心身と覚悟し、決して他念があってはならない。これがすなわち武士道の発現である。これがすなわち転地道徳の根源である。人の大道である。
それゆえに我と父母とは別体の如くであるが、同心である。
この様にして同心一体の情をなして、共に共に現世を送るべきである。
これを名づけて父母の恩愛を奉謝するといわれている。
これをすなわち武士道と申す。
二、衆生の恩
我々の社会の状態を見られよ。
家族相寄り、僕従相集まり、互いに相愛する情により一家となり、一村、一郡、一国に及び、遂に広く東西万国に至るまで、たれか相助け、相頼むの因縁を持たないものは無い。
よくよくその相関連するところの情理を考究すれば、一人の一挙手一投足の所作も、その及ぼすところの影響は、世界東西に広がる事明瞭なる事である。
これらは既に今日の社会学などの証明するところである。
まずこのような因縁ある事を思えば、今自身と父母、親類家財を保持して、現世に安住するいわれは無始より以来、無量の一切衆生相寄り助け、共に愛護して、或いは父母となり、或いは子となってもって済世をまっとうするものである。
もし一切衆生が無いならば、例え一家であっても成立しないであろう。
親子何によって安穏を得るであろうか。
国家何によって成立することを得るであろうか。
この様にこの理を窮めくれば、兄弟・姉妹・親類・友達・僕婢・禽獣に至るまで、一切の有情(生類)は皆残らず父母の思いをなして、これに慈悲報恩の思いを忘れてはならない。
だから六道(天人、人間、畜生、阿修羅、餓鬼、地獄)の衆生は、皆これは我が父母と思わねばならぬ。
もし父母にして前生(前世)に我を教える事がなかったならば、どうして我今人間界に生を受けた善因を得る事が出来たろうか。
必ず三途に迷うて今日あるを得ず、我今父母の子となって前果福祉を持つ事を得たのは、全く前生宿善の因縁であって、これは即ち父母所生の恩、一切衆生の恩顧によっているのである。
この理を了解して常々衆生縁の慈悲をもって、一切衆生の恩顧なる事を心得て、報恩利斉の義を務めなければならぬ。
三、国王の恩
国王の恩について説明しようというについては、我ら日本人の最も耳を傾けて謹聴しなければならないところである。
然るに拙者が四恩という事を武士道の前提に説いておく事は、武士道発現の要素であるから、いずれも先ず、そのごく大要だけを示し置くのである。
鉄太郎謹んで釈尊の御説法を拝聴するに、一切の衆生「国王を以って根本と為す」事、恰もこれは殿堂の柱の様だとある。
一切衆生の善因は国王によって成立すべきものである。
もし国王の保護、恩愛がなかったならば、一切の善果は成立する事が出来ない。
況して一切の善王は前世既に菩薩の三聚浄戒を受持し給い、一切衆生を憐愛せられ給いし三世因果の功徳によって、その原因の果実として今この国王の尊報を得させ給いしものであると述べてある。
ああ、尊く畏れ多き次第ではないか。
この様な至尊の理を弁えたならば、我々如き悪世界の凡人、誰か帝王の尊厳を忘れて私利を欲しい儘にする事が出来ようか。
是非とも帝王を尊敬して報恩の誠意を尽くさねばならぬ。
況して我が本朝の如きは、畏れ多くも皇祖皇宗は遠く神代に於いて、万姓の開始であらせられ、偕に日本民族の始宗、即ち祖宗であるので、我々日本民族は元より、忠孝二途の別なくして天壌無窮の神宣を信奉して、皇運を扶翼し古往今来幾千万年億兆心を一つにして死ぬるとも二心であってはならない。
これは我が国体の精華にして、日本武士道の淵源実にここにあり、日本民族の方針実にここにあるのである。
四、三宝(仏・法・僧)の恩
扨、以上説明したとおり、父母その他一切衆生及び国王の宏恩である事は、言語上の理屈だけは幾らか承知せられた事と思う。
然るにそれら諸理屈はどこから来るか、これが大切である。
この道理を教示し給いしお方は誰であろうか。即ちそれは三宝である。
三宝とは、一つには仏、二には法、三には僧、しかして最も武士道の発現地は法(真理)である。
法は諸仏能生の母で、諸仏の師とし給うところで、其の理の広大なる事は、凡俗輩が容易に領得する事の得難い道である。無色、無形にしてまた容易に知るところでない。
然れども、天地に満ちて塞がらず、言行の間にあって休まず、天道といい、真如と称え、真如実相と名付け、法性、心性、仏性と名付けるのである。
よってこれに随順奉行するのを至善ともいい、道徳とも称えるのである。
下には父母、親類、その他一切衆生の恩を受け、上には国王の宏恩によってこの世に存在すると雖も、もし内に生まれながらに持った仏性を開発して、外に十善の正道を教示し給うものがなかったならば、ただ禽獣と差別する事は出来ない。
このような有様では、何によって安心立命の大盤を求める事が出来ようか。
然るに我等は、幸いにも仏教流布の国に生まれ、三世因果、善悪応報の欺く事の出来ない教理を被る事を得て、家庭に、国家に、社会に、吉凶の典礼、交際の信義、千載伝わって国風をなし、上下敬愛、慈悲道徳のいたって重要なる事を知り、強慾・私情の恥ずべき事を悟り、貪・瞋・痴の三毒は身を焦がす熱火であり、小慾知足は家を富ますの福音なる事を信じ、父祖の遺伝、応化作用により、諸般の節義・感情・風俗をなして習慣を作った事、悉く仏教の教理薫陶の賜でないものはない。
三宝の如きは、凡俗輩の了解に苦しむものであるが、まず手近く論ずれば、己の心は心そのものの生まれつきで、他に求めるべきものではない。
一切の衆生は等しく用足りて、欠陥がないとはいっても、無始無明の妄想にとり憑かれてこれを理解しないので、諸仏、菩薩、諸天、善神即ち皇祖、皇宗大神その他八百万神は、正しくこの理を覚悟し給い、我等凡俗の為、百方力を尽くさせ給い、其の方便道をもって種々の形像を表し、諸種の言語をもって、三毒五慾を除き、無我の真理を開示し給い、忠孝仁義の事瞬時も忘れてはならない事を教示し給うた。
見られよ。世人が神と尊び、仏と敬う尊称はただその形の上の称号にて、その実体に至っては神仏一体一貫の道である。そうして今日の我等凡人は諸神諸仏の作り給うた慈悲深恩の内に恵みを受ける事、此処に幾千年であるか。そうして東方君子国の威名を保ち、現に我が国民が世界に闊歩しても恥じない理由は、即ちこれが為である。
我々は深くこの教理に向かって感謝の意を表すると共に、厚く三宝を尊信して、遍く法界の衆生にこの教益の恩沢を施す様心掛けねばならない。
これが即ち日本武士道の発覚所である。また発達地でもある。
なんと由来の深遠広大なものではないか。このような道理がなお理解せられないという連中を見れば、拙者は一層不憫でならない。実に憐れむべきものと思われてならない。
-------------------------------------------------------------------