拈華微笑 南無父母不二佛

何でも仏教徒として思いついたことを書きます

仏教聖典第237版 おしえ 煩悩 人の性質

第二節 人の性質


一、人の性質は、ちょうど入り口のわからない藪のように、わかりにくい。これに比べると、獣の性質はかえってわかりやすい。このわかりにくい性質の人を区分して、次の四種類とする。


 一つには、自ら苦しむ人で、間違った教えを受けて苦行する。


 二つには、他人を苦しめる人で、殺したり盗んだり、その他さまざまなむごい仕業(しわざ)をする。


 三つには、自ら苦しむとともに他人をも苦しめる人である。


 四つには、自らも苦しまず、また他人をも苦しめない人で、欲を離れて安らかに生き、仏の教えを守って、殺すことなく盗むことなく、清らかな行いをする人である。


二、またこの世には三種類の人がある。岩に刻んだ文字のような人と、砂に書いた文字のような人と、水に書いた文字のような人である。


 岩に刻んだ文字のような人とは、しばしば腹を立てて、その怒りを長く続け、怒りが、刻み込んだ文字のように消えることのない人をいう。


 砂に書いた文字のような人とは、しばしば腹を立てるが、その怒りが、砂に書いた文字のように、速やかに消え去る人を指す。


 水に書いた文字のような人とは、水の上に文字を書いても、流れて形にならないように、他人の悪口や不快なことばを聞いても、少しも心に跡を留(とど)めることもなく、温和な気の満ちている人のことをいう。


 また、ほかにも三種類の人がある。


第一の人は、その性質がわかりやすく、心高ぶり、かるはずみであって、常に落ち着きのない人である。


第二の人は、その性質がわかりにくく、静かにへりくだって、ものごとに注意深く、欲を忍ぶ人である。


第三の人は、その性質がまったくわかりにくく、自分の煩悩を滅ぼし尽くした人のことである。


 このように、さまざまに人を区別することができるが、その実、人の性質は容易に知ることはできない。ただ、仏だけがこれらの性質を知りぬいて、さまざまに教えを示す。



第三節 現実の人生


一、ここに人生にたとえた物語がある。ある人が、河の流れに舟を浮かべて下るとする。岸に立つ人が声をからして叫んだ。「楽しそうに流れを下ることをやめよ。下流には波が立ち、渦巻きがあり、鰐と恐ろしい夜叉(やしゃ)との住む淵がある。そのままに下れば死ななければならない。」と。


 このたとえで「河の流れ」とは、愛欲の生活をいい、「楽しそうに下る」とは、自分の身に執着することであり、「波立つ」とは、怒りと悩みの生活を表わし、「渦巻き」とは、欲の楽しみを示し、「鰐と恐ろしい夜叉の住む淵」とは、罪によって滅びる生活を指し、「岸に立つ人」とは、仏をいうのである。


 ここにもう一つのたとえがある。ひとりの男が罪を犯して逃げた。追手が迫ってきたので、彼は絶体絶命になって、ふと足もとを見ると、古井戸があり、藤蔓(ふじつる)が下がっている。彼はその藤蔓をつたって、井戸の中へ降りようとすると、下で毒蛇が口を開けて待っているのが見える。しかたなくその藤蔓を命の綱にして、宙にぶら下がっている。やがて、手が抜けそうに痛んでくる。そのうえ、白黒二匹の鼠が現われて、その藤蔓をかじり始める。


 藤蔓がかみ切られたとき、下へ落ちて餌食にならなければならない。そのとき、ふと頭をあげて上を見ると、蜂の巣から蜂蜜の甘いしずくが一滴二滴と口の中へしたたり落ちてくる。すると、男は自分の危うい立場を忘れて、うっとりとなるのである。


この比喩で、「ひとり」とは、ひとり生まれひとり死ぬ孤独の姿であり、「追手」や「毒蛇」は、この欲のもとになるおのれの身体のことであり、「古井戸の藤蔓」とは、人の命のことであり、「白黒二匹の鼠」とは、歳月を示し、「蜂蜜のしずく」とは、眼前の欲の楽しさのことである。


二、また、さらにもう一つのたとえを説こう。王が一つの箱に四匹の毒蛇を入れ、ひとりの男にその蛇を養うことを命じて、もし一匹でも怒らせれば、命を奪うと約束させる。男は王の命令を恐れて、蛇の箱を捨てて逃げ出す。


 これを知った王は、五人の臣下に命じて、その後を追わせる。彼らは偽って彼に近づき、連れ帰ろうとする。男はこれを信じないで、ふたたび逃げて、とある村に入り、隠れ家を探す。


 そのとき、空に声あって、この村は住む人もなく、そのうえ今夜、六人の賊が来て襲うであろうと告げる。彼は驚いて、ふたたびそこを逃げ出す。行く手に荒波を立てて激しく流れている河がある。渡るには容易ではないが、こちら岸の危険を思って筏を作り、かろうじて川を渡ることを得、はじめて安らぎを得た。


 「四匹の毒蛇の箱」とは地水火風の四大要素から成るこの身のことである。この身は、欲のもとであって、心の敵である。だから、彼はこの身を厭(いと)って逃げ出した。


 「五人の男が偽って近づいた」とは、同じくこの身と心とを組み立てている五つの要素のことである。


 「隠れ家」とは、人間の六つの感覚器官のことであり、「六人の賊」とは、この感覚器官に対する六つの対象のことである。このように、すべての官能の危ういのを見て、さらに逃げ出し、「流れの強い河を見た」とは、煩悩の荒れ狂う生活のことである。


 この深さの測り知れない煩悩の河に、教えの筏を浮かべて、安らかな彼(か)の岸に達したのである。


三、世に母も子を救い得ず、子も母を救い得ない三つの場合がある。すなわち、大火災と大水害と、大盗難のときである。しかし、この三つの場合においても、ときとしては、母と子が互いに助けあう機会がある。


 ところがここに、母は子を絶対に救い得ず、子も母を絶対に救い得ない三つの場合がある。それは、老いの恐れと、病の恐れと、死の恐れの襲い来たったときのことである。


 母の老いゆくのを、子はどのようにしてこれに代わることができるであろうか。


 子の病む姿のいじらしさに泣いても、母はどうして代わって病むことができよう。


 子供の死、母の死、いかに母子であっても、どうしても代わりあうことはできない。


 いかに深く愛し合っている母子でも、こういう場合には絶対に助けあうことはできないのである。


四、人間世界において悪事をなし、死んで地獄に落ちた罪人に、閻魔(えんま)王が尋ねた。「おまえは人間の世界にいたとき、三人の天使に会わなかったか。」
「大王よ、わたくしはそのような方には会いません。」


「それでは、おまえは年老いて腰を曲げ、杖にすがって、よぼよぼしている人を見なかったか。」「大王よ、そういう老人ならば、いくらでも見ました。」
「おまえはその天使に会いながら、自分も老いゆくものであり、急いで善をなさなければならないと思わず、今日の報いを受けるようになった。」


「おまえは病にかかり、ひとりで寝起きもできず、見るも哀れに、やつれはてた人を見なかったか。」「大王よ、そういう病人ならいくらでも見ました。」
「おまえは病人というその天使に会いながら、自分も病まなければならない者であることを思わず、あまりにもおろそかであったから、この地獄へくることになったのだ。」


「次に、おまえは、おまえの周囲で死んだ人を見なかったか。」
「大王よ、死人ならば、わたくしはいくらでも見てまいりました。」
「おまえは死を警(いまし)め告げる天使に会いながら、死を思わず善をなすことを怠って、この報いを受けることになった。おまえ自身のしたことは、おまえ自身がその報いを受けなければならない。」


五、裕福な家の若い嫁であったキサゴータミーは、そのひとり子の男の子が、幼くして死んだので、気が狂い、冷たい骸(むくろ)を抱いて巷に出、子供の病を治す者はいないかと尋ね回った。


 この狂った女をどうすることもできず、町の人びとはただ哀れげに見送るだけであったが、釈尊の信者がこれを見かねて、その女に祇園精舎の釈尊のもとに行くようにすすめた。彼女は早速、釈尊のもとへ子供を抱いていった。


 釈尊は静かにその様子を見て、「女よ、この子の病を治すには、芥子(けし)の実がいる。町に出て四・五粒もらってくるがよい。しかし、その芥子の実は、まだ一度も死者の出ない家からもらってこなければならない。」と言われた。


 狂った母は、町に出て芥子の実を求めた。芥子の実は得やすかったけれども、死人の出ない家は、どこにも求めることはできなかった。ついに求める芥子の実を得ることができず、仏のもとにもどった。かの女は釈尊の静かな姿に接し、はじめて釈尊のことばの意味をさとり、夢から覚めたように気がつき、わが子の冷たい骸 を墓所におき、釈尊のもとに帰ってきて弟子となった。



第四節 迷いの姿


一、この世の人びとは、人情が薄く、親しみ愛することを知らない。しかも、つまらないことを争いあい、激しい悪と苦しみの中にあって、それぞれの仕事を勤めて、ようやく、その日を過ごしている。


 身分の高下にかかわらず、富の多少にかかわらず、すべてみな金銭のことだけに苦しむ。なければないで苦しみ、あればあるで苦しみ、ひたすらに欲のために心を使って、安らかなときがない。


 富める人は、田があれば田を憂え、家があれば家を憂え、すべて存在するものに執着し憂いを重ねる。あるいは災いにあい、困難に出会い、奪われ焼かれてなくなると、苦しみ悩んで命までも失うようになる。しかも死への道はひとりで歩み、だれもつき従う者はない。


 貧しいものは、常に足らないことに苦しみ、家を欲しがり、田を欲しがり、この欲しい欲しいの思いに焼かれて、心身ともに疲れはててしまう。このために命を全うすることができずに、中途で死ぬようなこともある。


すべての世界が敵対するかのように見え、死出の旅路は、ただひとりだけで、はるか遠くに行かなければならない。


二、また、この世には五つの悪がある。


 一つにはあらゆる人から地に這う虫に至るまで、すべてみな互いにいがみ合い、強いものは弱いものを倒し、弱いものは強いものを欺き、互いに傷つけあい、いがみあっている。


 二つには、親子、兄弟、夫婦、親族など、すべて、それぞれにおのれの道がなく、守るところもない。ただ、おのれを中心にして欲を欲しいままにし、互いに欺きあい、心と口とが別々になっていて誠がない。


 三つには、だれも彼もみなよこしまな思いを抱き、みだらな思いに心をこがし、男女の間に道がなく、そのために、徒党を組んで争い戦い、常に非道を重ねている。


 四つには、互いに善い行為をすることを考えず、ともに教えあって悪い行為をし、偽り、むだ口、悪口、二枚舌を使って、互いに傷つけあっている。ともに尊敬しあうことを知らないで、自分だけが尊い偉いものであるかのように考え、他人を傷つけて省みるところがない。


 五つには、すべてのものは怠りなまけて、善い行為をすることさえ知らず、恩も知らず、義務も知らず、ただ欲のままに動いて、他人に迷惑をかけ、ついには恐ろしい罪を犯すようになる。


三、人は互いに尊敬し、施しあわなければならないのに、わずかな利害のために、互いに憎しみ争うことだけをしている。しかも、争う気持ちがほんのわずかでも、ときの経過に従ってますます大きく激しくなり、大きな恨みになることを知らない。


 この世の争いは、互いに害(そこ)ないあっても、すぐに破滅に至ることはないけれども、毒を含み、怒りが積み重なり、憤(いきどお)りを心にしっかり刻みつけてしまい、生をかえ、死をかえて、互いに傷つけあうようになる。


 人はこの愛欲の世界に、ひとり生まれ、ひとり死ぬ。未来の報いは代わって受けてくれるものがなく、おのれひとりでそれに当たらなければならない。


 善と悪とはそれそれその報いを異にし、善は幸いを、悪は災いをもたらし、動かすことのできない道理によって定まっている。しかも、それぞれが、おのれの業をにない、報いの定まっているところへ、ひとり赴く。


四、恩愛のきずなにつながれては憂いに閉ざされ、長い月日を経ても、いたましい思いを解くことができない。それとともに、激しい貪りにおぼれては、悪意にまれ、でたらめに事を起こし、他人と争い、真実の道に親しむことができず、寿命も尽きないうちに、死に追いやられ、永劫に苦しまなければならない。


 このような人の仕業(しわざ)は、自然の道に逆らい、天地の道理にそむいているので、必ず災いを招くようになり、この世でも、後の世でも、ともに苦しみを重ねなければならない。


 まことに、世俗の事はあわただしく過ぎ去ってゆき、頼りとすべきものは何一つなく、力になるものも何一つない。この中にあって、こぞってみな快楽のとりことなっていることは、嘆かわしい限りといわなければならない。


五、このような有様が、まことにこの世の姿であり、人びとは苦しみの中にあってただ悪だけを行い、善を行うことを少しも知らない。だから自然の道理によって、さらに苦しみの報いを受けることを避けられない。


 ただおのれにのみ何でも厚くして、他人に恵むことを知らない。そのうえ、欲に迫られてあらゆる煩悩を働かせ、そのために苦しみ、またその結果によって苦しむ。


 栄華の時勢は永続せず、たちまちに過ぎ去る。この世の快楽も何一つ永続するものはない。


六、だから、人は世俗の事を捨て、健全なときに道を求め、永遠の生を願わなければならない。道を求めることをほかにして、どんな頼み、どんな楽しみがあるというのか。


 ところが、人びとはよい行為をすれば善を得、道にかなった行為をすれば道を得るということを信じない。また、施せば幸いを得るということを信じない。すべて善悪にかかわるすべてのことを信じない。


 ただ、誤った考えだけを持ち、道も知らず、善も知らず、心が暗くて、吉凶禍福が次々に起こってくる道理を知らず、ただ、眼前に起こることだけについて泣き悲しむ。


 どんなものでも永久に変わらないものはないのであるからすべて移り変わる。ただこれについても苦しみ悲しむことだけを知っていて、教えを聞くことがなく、心に深く思うことがなく、ただ眼前の快楽におぼれて、財貨や色欲を貪って飽きることを知らない。


七、人びとが、遠い昔から迷いの世界を経めぐり、憂いと苦しみに沈んでいたことは、言葉では言い尽くすことができない。しかも、今日に至っても、なお迷いは絶えることがない。ところが、いま仏の教えに会い、仏の名を聞いて信ずることができたのは、まことにうれしいことである。


 だから、よく思いを重ね、悪を遠ざけ、善を選び、勤め行わなければならない。


 いま、幸いにも仏の教えに会うことができたのであるから、どんな人も仏の教えを信じて、仏の国に生まれることを願わなければならない。仏の教えを知った以上は、人は他人に従って煩悩や罪悪のとりこになっては成らない。また、仏の教えをおのれだけのものとすることなく、それを実践し、それを他人に教えなければならない。

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