拈華微笑 南無父母不二佛

何でも仏教徒として思いついたことを書きます

仏教聖典第237版 おしえ さとりの種~煩悩

第三章 さとりの種


第一節 清らかな心


一、人にはいろいろの種類がある。心の曇りの少ないものもあれば、曇りの多いものもあり、賢いものもあれば、愚かなものもある。


 善い性質のものもあれば、悪い性質のものもあり、教えやすいものもあれば、教えにくいものもある。


 例えていうと、青・赤・黄・白、色さまざまな蓮の池があって、水中に生え、水中に育って、水の表面に出ない蓮もあれば、水面にとどまる蓮もあり、水面を離れて、水にもぬれない蓮もあるようなものである。


 この差別の上に、さらにまた、男・女の区別があるが、しかし、人の本性としての差別があるのではない。男が道を修めてさとりを得るように、女もまた道を修めれば、しかるべき心の道すじを経て、さとりに至るであろう。


象を扱う術を学ぶのには、信念と健康をもち、勤勉であって、偽りがなく、その上に智慧がなければならない。仏に従ってさとりを得るにも、やはりこの五つがなければならない。この五つがあれば、男でも女でも、仏の教えを学ぶのに長い年月を要しない。これは、人にはみな、さとるべき性質がそなわっているからである。


二、さとりの道において、人はおのれの眼をもって仏を見、心をもって仏を信ずる。それと同じく、人をして生死の巷に今日まで流転させたのも、また、この眼と心である。


 国王が、侵入した賊を討とうとするとき、何より先に、その賊のありかを知ることが必要であるように、いま迷いをなくそうとするのにも、まずその眼と心のありかを確かめなければならない。


 人が室内にいて目を開けば、まず、部屋の中のものを見、やがて窓を通して、外の景色を見る。部屋の内のものを見ないで、外のものばかり見る目はない。


 ところが、もしもこの身の内に心があるならば、何よりも先に、身の内のことを詳しく知らなければならないはずであるのに、人びとは、身の外のことだけをよく知っていて、身の内のことについては、ほとんど何ごとも知ることができない。


 また、もしも心が身の外にあるとするならば、身と心が互いに離れて、心の知るところを身は知らず、身の知るところを心は知らないはずである。ところが、事実は、心の知るところを身が感じ、身に感ずるところを心はよく知っているから、心は身の外にあるということもできない。いったい、心の本体はどこにあるのであろうか。


三、もともと、すべての人びとが、始めも知れない昔から、煩悩の行為に縛られて、迷いを重ねているのは、二つのもとを知らないからである。


 一つには生死のもとである迷いの心を、自己の本性と思っていること。二つには、さとりの本性である清浄(しょうじょう)な心が、迷いの心の裏側に隠されたまま自己の上にそなわっていることを知らないことである。


 拳(こぶし)をかためて臂(ひじ)をあげると、目はこれを見て心はこのことを知る。しかし、その知る心は真実の心ではない。


 はからいの心は欲から起こり、自分の都合をはからう心であり、縁に触れて起こる心であって、真実の本体のない、うつり変わる心である。この心を、実体のある心と思うところに、迷いが起こる。


 次に、その拳が開くと、心は拳の開いたことを知る。動くものは手であろうか、心であろうか、それとも、そのいずれでもないのか。


 手が動けば心も動き、また、心の動きにつれて手も動く。しかし、動く心は、心の表面であって根本の心ではない。


四、すべての人びとには、清浄の本心がある。それが外の因縁によって起こる迷いのちりのために覆われている。しかし、あくまでも迷いの心は従であって主ではない。


 月は、しばらく雲に覆われても、雲に汚されることもなく、また動かされることもない。


 だから、人は浮動するちりのような迷いの心を自分の本性と思ってはならない。


 また、人は、動かず、汚されないさとりの本心に目覚めて、真実の自己に帰らなければならない。浮動する迷いの心にとらわれ、さかさまの見方に追われているので、人は迷いの巷をさまようのである。


 人の心の迷いや汚れは、欲とその変化する外界の縁に触れて起こるものである。


 この縁の来ること去ることに関係なく、永久に動かす滅びない心、これが人の本体の心であって、また主(あるじ)でもある。


 客が去ったからといって、宿屋がなくなったとはいえないように、縁によって生じたり滅したりするはからいの心がなくなったからといって、自分がなくなったとはいえない。外の縁によってうつり変わるはからいは、心の本体ではない。


五、ここに講堂があって、太陽が出て明るくなり、太陽が隠れて暗くなるとする。


 明るさは太陽に返し、暗さは夜に返すこともできよう。しかし、その明るさや暗さを知る力は、どこにも返すことはできない。


 太陽が現われて、明るいと見るのもひとときの心であり、太陽が隠れて、暗いと見るのもひとときの心である。


 このように、明暗という外の縁に引かれて、明暗を知る心が起こるが、明暗を知る心は、ひとときの心であって、心の本体ではなく、その明暗を知る力の根本は、心の本体である。


 外の因縁に引かれて生じたり滅したりする善悪・愛憎の念(おもい)は、人の心に積まれた汚れによって起こるひとときの心なのである。


 煩悩のちりにつつまれて、しかも染まることも、汚れることもない、本来清浄な心がある。


 まるい器に水を入れるとまるくなり、四角な器に水を入れると四角になる。しかし、本来、水にまるや四角の形があるのではない。ところが、すべての人びとはこのことを忘れて、水の形にとらわれている。


 善し悪しと見、好む好まぬと考え、有り無しと思い、その考えに使われ、その見方に縛られて、外のものを追って苦しんでいる。


 縛られた見方を外の縁に返し、縛られることのない自己の本性にたち帰ると、身も心も、何ものにもさえぎられることのない、自由な境地が得られるであろう。



第二節 かくれた宝


一、清浄の本心とは、言葉を変えていえば仏性*(ぶっしょう)である。仏性とは、すなわち仏の種である。


 レンズを取って太陽に向かい、もぐさを当てて火を求めるときに、火はどこから来るのであろうか。太陽とレンズとはあいへだてること遠く、合することはできないけれども、太陽の火がレンズを縁とし、もぐさの上に現われたことは疑いを入れない。また、もしも太陽があっても、もぐさに燃える性質がなければ、もぐさに火は起こらない。


 いま、仏を生む根本である仏性のもぐさに、仏の智慧のレンズを当てれば、仏の火は、仏性の開ける信の火として、人びとというもぐさの上に燃え上がる。


 仏はその智慧のレンズを取って世界に当てられるから、世をあげて信の火が燃え上がるのである。


二、人びとは、この本来そなわっているさとりの仏性にそむいて、煩悩のちりにとらわれ、ものの善し悪しの姿に心を縛られて、不自由を嘆いている。


 なぜ、人びとは、本来さとりの心をそなえていながら、このように偽りを生み、仏性の光を隠し、迷いの世界にさまよっているのであろうか。


 昔ある男が、ある朝鏡に向かって、自分の顔も頭もないのにあわて驚いた。しかし、顔も頭もなくなったのではなく、それは鏡を裏返しに見ていて、なくなったと思ったのであった。


 さとりに達しようとして達せられないからといって苦しむのは愚かであり、また、必要のないことである。さとりの中に迷いはないのであるが、限りない長い時間に、外のちりに動かされて、妄想(もうぞう)を描き、その妄想によって迷いの世界を作り出していたのである。


 だから、妄想がやめば、さとりはおのずと返ってきて、さとりのほかに妄想があるのではないとわかるようになる。しかも、不思議なことに、ひとたびさとった者には妄想がなく、さとられるものもなかったことに気づくのである。


三、この仏性は尽きることがない。例え畜生に生まれ、餓鬼となって苦しみ、地獄に落ちても、この仏性は絶えることはない。


 汚い体の中にも、汚れた煩悩の底にも、仏性はその光を包み覆われている。


四、昔、ある人が友人の家に行き、酒に酔って眠っているうちに、急用で友は旅に立った。友はその人の将来を気づかい、価の高い宝石をその人の着物のえりに縫いこんでおいた。


 そうとは知らず、その人は酔いからさめて他国へとさすらい、衣食に苦しんだ。その後、ふたたびその旧友にめぐり会い、「おまえの着物のえりに縫い込まれている宝石を用いよ。」と教えられた。


 このたとえのように、仏性の宝石は、貪りや、瞋りという煩悩の着物のえりに包まれて、汚されずにいるのである。


 このように、どんな人でも仏の知恵のそなわらないものはないから、仏は人びとを見通して、「すばらしいことだ、人びとはみな仏の智慧と功徳をそなえている。」とほめたたえる。


 しかも、人びとは愚かさに覆われて、ものごとをさかさまに見、おのれの仏性を見ることができないから、仏は人びとに教えて、その妄想を離れさせ、本来、仏と違わないものであることを知らせる。


五、ここでいう仏とはすでに成ってしまった仏であり、人びとは将来まさに成るべき仏であって、それ以外の相違はない。


 しかし、成るべき仏ではあるけれども、仏となったのではないから、すでに道を成しとげたかのように考えるなら、それは大きな過ちを犯しているのである。


 仏性はあっても、修めなければ現われず、現われなければ道を成しとげたのではない。


六、昔、ひとりの王があって、多くの盲人を集め、象に触れさせて、象とはどんなものであるかを、めいめいに言わせたことがある。象の牙に触れた者は、象は大きな人参のようなものであるといい、耳に触れた者は、扇のようなものであるといい、鼻に触れた者は、杵(きね)のようなものであるといい、足に触れた者は、臼(うす)のようなものであるといい、尾に触れた者は、縄のようなものであると答えた。ひとりとして象そのものをとらえたものはいなかった。


 人を見るのもこれと同じで、人の一部分に触れることができても、その本性である仏性を言い当てることは容易ではない。


 死によっても失われず、煩悩の中にあっても汚れず、しかも永遠に滅びることのない仏性を見つけることは、仏と法によるもののほかには、でき得ないのである。



第三節 とらわれを離れて


一、このように、人には仏性があるというと、それは他の教えでいう我(が)と同じであると思うかもしれないが、それは誤りである。


 我の考えは執着心によって考えられるけれども、さとった人にとっては、我は否定されなければならない執着であり、仏性を開き現わさなければならない宝である。仏性は我に似ているれども、「われあり」とか「わがもの」とかいう場合の我ではない。


 我があると考えるのは、ないものをあると考える、さかさまの見方であり、仏性を認めないことも、あるものをないと考える、さかさまの見方である。


 例えば、幼子が病にかかって医師にかかるとすると、医師は薬を与えて、この薬のこなれるまでは乳を与えてはならないと言いつける。


 母は乳房ににがいものを塗り、子に乳をいやがらせる。後に、薬のこなれたときに、乳房を洗って、子の口にふくませる。母のこのふるまいは、わが子をいとおしむやさしい心からくるものである。


 ちょうどこのように、世の中の誤った考えを取り去り、我の執着を取り去るために、我はないと説いたが、その誤った見方を取り去ったので、あらためて仏性があると説いたのである。


 我は迷いに導くものであり、仏性はさとりに至らしめるものである。


 家に黄金(こがね)の箱を持ちながら、それを知らないために、貧しい生活をする人をあわれんで、その黄金の箱を掘り出して与えるように、仏は人びとの仏性を開いて、彼らに見せる。


二、それなら、人びとは、みなこの仏性をそなえているのに、どうして貴賤・貧富という差別があり、殺したり、欺かれたりするようないとわしいことが起こるのであろうか。


 例えば、宮廷に使える一力士が、眉間に小さな金剛の珠玉を飾ったまま相撲をとって、その額を打ち、玉が膚(はだ)の中に隠れてできものを生じた。力士は、玉をなくしたと思い、ただそのできものを治すために医師に頼む。医師は一目見て、そのできものが膚の中に隠れた玉のせいであると知り、それをとりだして力士に見せた。


 人びとの仏性も煩悩の塵(ちり)の中に隠れ、見失われているが、善き師によってふたたび見いだされるものである。


 このように、仏性はあっても貪りと愚かさのために覆われ、業(ごう)と報いとに縛られて、それぞれ迷いの境遇を受けるのである。しかし、仏性は実際には失われても破壊されておらず、迷いを取り除けばふたたび見いだされるものである。


 たとえの中の力士が、医師によって取り出されたその玉を見たように、人びとも、仏の光によって仏性を見ることであろう。


三、赤・白・黒と、さまざまに毛色の違った牝牛(めうし)でも、乳をしぼると、みな同じ白い色の乳を得るように、境遇が異なり、生活が異なる、さまざまの人びとも、その業の報いの異なるにもかかわらず、同じ仏性をそなえている。


 例えば、ヒマラヤ山に貴い薬があるが、それは深い草むらの下にあって、人びとはこれを見つけることができない。昔、ひとりの賢人がいて、その香りを尋ねてありかを知り、樋(とい)を作って、その中に薬を集めた。しかし、その人の死後、薬は山にうもれ、樋の中の薬は腐り、流れるところによって、その味を異にした。


 仏性も、このたとえのように、深く煩悩の草むらに覆われているから、人びとはこれを容易に見つけることができない。いまや仏はその草むらを開いて、彼らに示した。仏性の味は一つの甘さであるが、煩悩のためにさまざまな味を出し、人びとはさまざまな生き方をする。


四、この仏性は金剛石のように堅いから、破壊することはできない。砂や小石に穴を開けることはできても、金剛石に穴を開けることはできない。


 身と心は破られることがあっても、仏性を破ることはできない。


 仏性は、実にもっともすぐれた人間の特質である。世に、男はまさり女は劣るとするならわしもあるが、仏の教えにおいては、男女の差別を立てず、ただこの仏性を知ることを尊いとする。


黄金の粗金(あらがね)を溶かして、そのかすを去り、練(ね)りあげると貴い黄金になる。心の粗金を溶かして煩悩のかすを取り去ると、どんな人でも、みなすべて同一の仏性を開き現わすことができる。



第四章 煩悩(ぼんのう)


第一節 心のけがれ


一、仏性を覆いつつむ煩悩に二種類ある。


一つは知性の煩悩である。二つには感情の煩悩である。


 この二つの煩悩は、あらゆる煩悩の根本的な分類であるが、このあらゆる煩悩の根本となるものを求めれば、一つには、無明*(むみょう)、二つには愛欲となる。


 この無明と愛欲とは、あらゆる煩悩を生み出す自在の力を持っている。そしてこの二つこそ、すべての煩悩の源なのである。


 無明とは無知のことで、ものの道理をわきまえないことである。愛欲は激しい欲望で、生に対する執着が根本であり、見るもの聞くものすべてを欲しがる欲望ともなり、また転じて、死を願うような欲望ともなる。


 この無明と愛欲とをもとにして、これから貪り、瞋り、愚(癡)かさ、邪見、恨み、嫉み、へつらい、たぶらかし、おごり、あなどり、ふまじめ、その他いろいろの煩悩が生まれてくる。


二、貪りの起きるのは、気に入ったものを見て、正しくない考えを持つためである。瞋りの起きるのは、気に入らないものを見て、正しくない考えを持つためである。愚かさはその無知のために、なさなければならないことと、なしてはならないことを知らないことである。邪見は正しくない教えを受けて、正しくない考えを持つことから起きる。


 この貪りと瞋りと愚かさは、世の三つの火といわれる。貪りの火は欲にふけって、真実心を失った人を焼き、瞋りの火は、腹を立てて、生けるものの命を害(そこ)なう人を焼き、愚かさの火は、心迷って仏の教えを知らない人を焼く。


 まことに、この世は、さまざまに火に焼かれている。貪りの火、瞋りの火、愚かさの火、生・老・病・死の火、憂い・悲しみ・苦しみ・悶えの火、さまざまの火によって災災(えんえん)と燃えあがっている。これらの煩悩の火はおのれを焼くばかりでなく、他をも苦しめ、人を身(しん)・口(く)・意(い)の三つの悪い行為に導くことになる。しかも、これらの火によってできた傷口のうみは触れたものを毒し、悪道に陥し入れる。


三、貪りは満足を得たい気持ちから、瞋りは満足を得られない気持ちから、愚かさは不浄な考えから生まれる。貪りは罪の汚れは少ないけれども、これを離れることは容易ではなく、瞋りは罪の汚れが大きいけれども、これを離れることは早いものである。愚かさは罪の汚れも大きく、またこれを離れることも容易ではない。


 したがって、人びとは気に入ったものの姿を見聞きしては正しく思い、気に入らないものの姿を見ては慈しみの心を養い、常に正しく考えて、この三つの火を消さなければならない。もしも、人びとが正しく、清く、無私の心に満ちているならば、煩悩によって惑わされることはない。


四、貪り、瞋り、愚かさは熱のようなものである。どんな人でも、この熱の一つでも持てば、いかに美しい広びろとした部屋に身を横たえても、その熱にうなされて、寝苦しい思いをしなければならない。


 この三つの煩悩のない人は、寒い冬の夜、木の葉を敷物とした薄い寝床でも、快く眠ることができ、むし暑い夏の夜、閉じこめられた狭苦しい部屋でも、安らかに眠ることができる。


 この三つは、この世の悲しみと苦しみのもとである。この悲しみと苦しみのもとを絶つものは、戒めと心の統一と智慧である。戒めは貪りの汚れを取り去り、正しい心の統一は瞋りの汚れを取り去り、智慧は愚かさの汚れを取り去る。


五、人間の欲にははてしがない。それはちょうど塩水を飲むものが、いっこうに渇きがとまらないのに似ている。彼はいつまでたっても満足することがなく、渇きはますます強くなるばかりである。


 人はその欲を満足させようとするけれども、不満がつのっていらだつだけである。


 人は欲を決して満足させることができない。そこには求めて得られない苦しみがあり、満足できないときには、気も狂うばかりとなる。


 人は欲のために争い、欲のために戦う。王と王、臣と臣、親と子、兄と弟、姉と妹、友人同士、互いにこの欲のために狂わされて相争い、互いに殺しあう。


 また人は、欲のために身をもちくずし、盗み、詐欺し、姦淫する。ときには捕らえられて、さまざまな刑を受け、苦しみ悩む。


 また、欲のために、身・口・意の罪を重ね、この世で苦しみを受けるとともに、死んで後の世には、暗黒の世界に入って、さまざまな苦しみを受ける。


六、愛欲は煩悩の王、さまざまの煩悩がこれにつき従う。


 愛欲は煩悩の芽をふく湿地、さまざまな煩悩を生ずる。愛欲は善を食う鬼女、あらゆる善を滅ぼす。


 愛欲は花に隠れ住む毒蛇、欲の花を貪るものに毒を刺して殺す。愛欲は木を枯らすつる草、人の心に巻きつき、人の心の中に善のしるを吸い尽くす。愛欲は悪魔の投げた餌(え)、人はこれにつられて悪魔の道に沈む。


 飢えた犬に血を塗った乾いた骨を与えると、犬はその骨にしゃぶりつき、ただ疲れと悩みを得るだけである。愛欲が人の心を養わないのは、まったくこれと同じである。


 一切れの肉を争って獣は互いに傷つく。たいまつを持って風に向かう愚かな人は、ついにはおのれ自身を焼く。この獣のように、また、この愚かな人のように、人は欲のためにおのれの身を傷つけ、その身を焼く。


七、外から飛んでくる毒矢は防ぐすべがあっても、内からくる毒矢は防ぐすべがない。貪りと瞋りと愚かさと高ぶりとは、四つの毒矢にもたとえられるさまざまな病を起こすものである。


 心に貪りと瞋りと愚かさがあるときは、口には偽りと無駄口悪口と二枚舌を使い、身には殺生と盗みとよこしまな愛欲を犯すようになる。


 意の三つ、口の四つ、身の三つ、これらを十悪という。


 知りながらも偽りを言うようになれば、どんな悪事をも犯すようになる。悪いことをするから、偽りを言わなければならないようになり、偽りを言うようになるから、平気で悪いことをするようになる。


 人の貪りも、愛欲も恐れも瞋りも、愚かさからくるし、人の不幸も難儀も、また愚かさからくる。愚かさは実に人の世の病毒にほかならない。


八、人は煩悩によって業を起こし、業によって苦しみを招く。煩悩と業と苦しみの三つの車輪はめぐりめぐってはてしがない。


 この車輪の回転には始めもなければ終わりもない。しかも人はこの輪廻*(りんね)から逃れるすべを知らない。永遠に回帰する輪廻に従って、人はこの現在の生から、次の生へと永遠に生まれ変わってゆく。


 限りない輪廻の間に、ひとりの人が焼き捨てた骨を積み重ねるならば、山よりも高くなり、また、その間に飲んだ母の乳を集めるならば、海の水よりも多くなるであろう。


 だから、人には仏性があるとはいえ、煩悩の泥があまりにも深いため、その芽生えは容易ではない。芽生えない仏性はあってもあるとはいわれないので人びとの迷いははてしない。

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