仏教聖典第237版 おしえ
おしえ
第一章 因縁
第一節 四つの真理
一、この人間世界は苦しみに満ちている。生も苦しみであり、老いも病も死もみな苦しみである。怨みあるものと会わなければならないことも、愛するものと分かれなければならないことも、また求めて得られないことも苦しみである。まことに、執着(しゅうぢゃく)を離れない人生はすべて苦しみである。これを苦しみの真理(苦諦くたい)という。
この人生の苦しみが、どうして起こるかというと、それは人間の心につきまとう煩悩から起こることは疑いない。その煩悩をつきつめていけば、生まれつきそなわっている激しい欲望に根ざしていることがわかる。このような欲望は、生に対する激しい執着をもととしていて、見るもの聞くものを欲しがる欲望となる。また転じて、死さえ願うようにもなる。これを苦しみの原因(集諦じったい)という。
この煩悩の根本を残りなく滅ぼし尽くし、すべての執着を離れれば人間の苦しみもなくなる。これを苦しみを滅ぼす真理(滅諦めったい)という。
この苦しみを滅ぼし尽くした境地に入るには、八つの正しい道(八正道)を修めなっければならない。八つの正しい道というのは、正しい見解、正しい思い、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい記憶、正しい心の統一である。これらの八つは欲望を滅ぼすための正しい道の真理(道諦どうたい)といわれる。
これらの真理を人はしっかり身につけなければならない。というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとする者はだれでも煩悩を断ちきらなければならないからである。煩悩と苦しみのなくなった境地は、さとりによってのみ到達し得る。さとりはこの八つの正しい道によってのみ達し得られる。
二、道に志す人も、この四つの聖(とうと)い真理を知らなければならない。これらを知らないために、長い間、迷いの道をさまよってやむときがない。この四つの聖い真理を知る人をさとりの眼を得た人という。
だから、よく心を一つにして仏の教えを受け、この四つの聖い真理の道理を明らかに知らなければならない。いつの世のどのような聖者も、正しい聖者であるならば、みなこの四つの聖い真理をさとった人であり、四つの聖い真理を教える人である。
この四つの聖い真理が明らかになったとき、人は初めて、欲から遠ざかり、世間と争わず、殺さず、盗まず、よこしまな愛欲を犯さず、欺かず、そしらず、へつらわず、ねたまず、瞋らず、人生の無常を忘れず、道にはずれることがない。
三、道を行うものは、例えば、燈火(ともしび)をかかげて、暗黒の部屋へ入るようなものである。闇はたちまち去り、明るさに満たされる。
道を学んで、明らかにこの四つの聖い真理を知れば、智慧の燈火を得て、無知の闇は滅びる。
仏は単にこの四つの真理を示すことによって人びとを導くのである。教えを正しく身に受けるものは、この四つの聖い真理によって、はかないこの世においてまことのさとりを開き、この世の人びとの守りとなり、頼りとなる。
それは、この四つの聖い真理が明らかになれば、あらゆる煩悩のもとである無明が滅びるからである。
仏の弟子たちはこの四つの聖い真理によって、あらゆる教えの達し、すべての道理を知る智慧と功徳をそなえ、どんな人びとに向かっても、自在に教えを説くことができる。
第二節 不思議なつながり
一、人びとの苦しみには原因があり、人びとのさとりには道があるように、すべてのものは、みな縁(条件)によって生まれ、縁によって滅びる。
雨の降るのも、風の吹くのも、花の咲くのも、葉の散るのも、すべて縁によって生じ、縁によって滅びるのである。
この身は父母を縁として生まれ、食物によって維持され、また、この心も経験と知識によって育ったものである。
だから、この身も、この心も、縁によって成り立ち、縁によって変わるといわなければならない。
網の目が、互いにつながりあって網を作っているように、すべてのものは、つながりあってできている。
一つの網の目が、それだけで網の目であると考えるならば、大きな誤りである。
網の目は、ほかの網の目とかかわりあって、一つの網の目といわれる。網の目は、それぞれ、ほかの網が成り立つために、役立っている。
二、花は咲く縁が集まって咲き、葉は散る縁が集まって散る。ひとり咲き、ひとり散るのではない。
縁によって咲き、縁によって散るのであるから、どんなものも、みなうつり変わる。ひとりで存在するものも、常にとどまるものもない。
すべてのものが、縁によって生じ、縁によって滅びるのは永遠不変の道理である。だから、うつり変わり、常にとどまらないということは、天地の間に動くことのない道理であり、これだけは永久に変わらない。
第三節 ささえあって
一、それでは、人びとの憂い、悲しみ、苦しみ、もだえは、どうして起こるのか。つまりそれは、人に執着があるからである。
富に執着し、名誉利欲に執着し、悦楽に執着し、自分自身に執着する。この執着から苦しみ悩みが生まれる。
初めから、この世界にはいろいろの災いがあり、そのうえ、老いと病と死とを避けることができないから、悲しみや苦しみがある。
しかし、それらもつきつめてみれば、執着があるから、悲しみや苦しみとなるのであり、執着を離れさえすれば、すべての悩み苦しみはあとかたもなく消えうせる。
さらにこの執着を押しつめてみると、人びとの心のうちに、無明と貧愛(とんあい)とが見いだされる。
無明はうつり変わるもののすがたに眼が開けず、因果の道理に暗いことである。貧愛とは、得ることのできないものを貪って、執着し愛着することである。
もともと、ものに差別はないのに、差別を認めるのは、この無明と貧愛とのはたらきである。もともと、ものに良否はないのに、良否を見るのは、この無明と貧愛とのはたらきである。
すべての人びとは、常によこしまな思いを起こして、愚かさのために正しく見ることができなくなり、自我にとらわれて間違った行いをし、その結果、迷いの身を生ずることになる。
業(ごう)を田とし心を種とし、無明の土に覆われ、貧愛の雨でうるおい、自我の水をそそぎ、よこしまな見方を増して、この迷いを生み出している。
二、だから、結局のところ、憂いと悲しみと苦しみと悩みのある迷いの世界を生み出すものは、この心である。
迷いのこの世は、ただこの心から現われた心の影にほかならず、さとりの世界もまた、この心から現われる。
三、この世の中には、三つの誤った見方がある。もしこれらの見方に従ってゆくと、この世のすべてのことが否定されることになる。
一つには、ある人は、人間がこの世で経験するどのようなことも、すべて運命であると主張する。二つには、ある人は、それはすべて神のみ業(わざ)であるという。三つには、またある人は、すべて因も縁もないものであるという。
もしも、すべてが運命によって定まっているならば、この世においては、善いことをするのも、悪いことをするのも、みな運命であり、幸・不幸もすべて運命となって、運命のほかには何ものも存在しないことになる。
したがって、人びとに、これはしなければならない、これはしてはならないという希望も努力もなくなり、世の中の進歩も改良もないことになる。
次に、神のみ業であるという説も、最後の因も縁もないとする説も、同じ非難があびせられ、悪を離れ、善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。
だから、この三つの見方はみな誤っている。どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるのである。
第二章 人の心とありのままの姿
第一節 変わりゆくものには実体がない
一、身も心も、因縁によってできているものであるから、この身には実体はない。この身は因縁の集まりであり、だから、無常なものである。
もしも、この身に実体があるならば、わが身は、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その思いのままになし得るはずである。
王はその国において、罰すべきを罰し、賞すべきを賞し、自分の思うとおりにすることができる。それなのに、願わないのに病み、望まないのに老い、一つとしてわが身については思うようになるものはない。
それと同じく、この心にもまた実体はない。心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。
もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、そのとおりにできるはずであるのに、心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。
二、この身は永遠に変わらないものなのか、それとも無常であるのかと問うならば、だれも無常であると答えるに違いない。
無常のものは苦しみであるのか、楽しみであるのかと問うならば、生まれた者はだれでもやがて老い、病み、死ぬと気づいたとき、だれでも、苦しみであると答えるに違いない。
このように無常であってうつり変わり、苦しみであるものを、実体である、わがものである、と思うのは間違っている。
心もまた、そのように、無常であり、苦しみであり、実体ではない。
だから、この自分を組み立てている身と心や、それをとりまくものは、我(が)とかわがものとかという観念を離れたものである。
智慧のない心が、我である、わがものであると執着するにすぎない。
身もそれをとりまくものも、縁によって生じたものであるから、変わりに変わって、しばらくもとどまることがない。
流れる水のように、また燈し火のようにうつり変わっている。また、心の騒ぎ動くこと猿のように、しばらくの間も、静かにとどまることがない。
智慧あるものは、このように見、このように聞いて、身と心とに対する執着を去らなければならない。心身ともに執着を離れたとき、さとりが得られる。
三、この世において、どんな人にもなしとげられないことが五つある。一つには、老いゆく身でありながら、老いないということ。二つには、病む身でありながら、病まないということ。三つには死すべき身でありながら死なないということ。四つには、滅ぶべきものでありながら、滅びないということ。五つには、尽きるべきものでありながら、尽きないということである。
世の常の人びとは、この避け難いことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は、避け難いことを避け難いと知るから、このような愚かな悩みをいだくことはない。
また、この世に四つの真実がある。第一に、すべて生きとし生けるものはみな無明から生まれること。第二に、すべて欲望の対象となるものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第三に、すべて存在するものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第四に、我も、わがものもないということである。
すべてのものは、みな無常であって、うつり変わるものであること、どのようなものにも我がないということは、仏がこの世に出現するとしないとにかかわらず、いつも定まっているまことの道理である。仏はこれを知り、このことをさとって、人びとを教え導く。
第二節 心の構造
一、迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。
人の心の変化に限りがなく、そのはたらきにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。
絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。仏の作る世界は、煩悩を離れて清らかであり、人の作る世界は煩悩によって汚れている。
心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。心のように仏もそうであり、仏のように人びともそうである。だから、すべてのものを描き出すということにおいて、心と仏と人びとと、この三つのものに区別はない。
すべてのものは、心から起こると、仏は正しく知っている。だから、このように知る人は、真実の仏を見ることになる。
二、ところが、この心は常に恐れ悲しみ悩んでいる。すでに起こったことを恐れ、まだ起こらないことをも恐れている。なぜなら、この心の中に無明と病的な愛着とがあるからである。
この貪りの心から迷いの世界が生まれ、迷いの世界のさまざまな因縁も、要約すれば、みなその心そのものの中にある。
生も死も、ただ心から起こるのであるから、迷いの生死(しょうじ)にかかわる心が滅びると、迷いの生死は尽きる。
迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので、迷いの世界となる。心を離れて迷いの世界がないと知れば、汚(けが)れを離れてさとりを得るであろう。
このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現われる。
三、すべてのものは、みな心を先とし、心を主(あるじ)とし、心から成っている。汚れた心でものを言い、また身で行うと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽(ひ)く牛に車が従うようなものである。
しかし、もし善い心でものを言い、または身で行うと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。悪い行いをする人は、その悪の報いを受けて苦しみ、善い行いをする人は、その善の報いを受けて楽しむ。
この心が濁ると、その道は平らでなくなり、そのために倒れなければならない。また、心が清らかであるならば、その道は平らになり、安らかになる。
身と心との清らかさを楽しむものは、悪魔の網を破って仏の大地を歩むものである。心の静かな人は安らかさを得て、ますます努めて夜も昼も心を修めるであろう。
第三節 真実のすがた
一、この世のすべてのものは、みな縁によって現われたものであるから、もともとちがいはない。ちがいを見るのは、人びとの偏見である。
大空に東西の区別がないのに、人びとは東西の区別をつけ、東だ西だと執着する。
数はもともと、一から無限の数まで、それぞれ完全な数であって、量には多少の区別はないのであるけれども、人びとは欲の心からはからって、多少の区別をつける。
もともと生もなければ滅もないのに、生死の区別を見、また、人間の行為それ自体も善もなければ悪もないのに、善悪の対立を見るのが、人びとの偏見である。
仏はこの偏見を離れて、世の中は空に浮かぶ雲のような、また幻のようなもので、捨てるも取るもみなむなしいことであると見、心のはからいを離れている。
二、(パーリ、中部三-二二、蛇喩経、楞伽経)
人ははからいから、すべてのものに執着する。
富に執着し、財に執着し、名に執着し、命に執着する。
有無、善悪、正邪、すべてのものにとらわれて迷いを重ね苦しみと悩みとを招く。
ここに、ひとりの人がいて、長い旅を続け、とあるところで大きな河を見て、こう思った。この河のこちらの岸は危ないが、向こうの岸は安らかに見える。そこで筏(いかだ)を作り、その筏によって、向こうの岸に安らかに着くことができた。そこで、「この筏は、わたしを安らかにこちらの岸へ渡してくれた。大変役に立った筏である。だから、この筏を捨てることなく、肩に担いで、行く先へ持っていこう。」と思ったのである。
このとき、この人は筏に対して、しなければならないことをしたといわれるであろうか。そうではない。
この比喩(たとえ)は、「正しいことさえ執着するべきでなく、捨て離れなければならない。まして、正しくないことは、なおさら捨てなければならない。」ということを示している。
三、すべてのものは、来ることもなく、去ることもなく、生ずることもなく、滅することもなく、したがって得ることもなければ、失うこともない。
仏は、「すべてのものは、有無の範疇を離れているから、有にあらず、無にあらず、生ずることもなく、滅することもない。」と説く。すなわち、すべてのものは因縁から成っていて、ものそれ自体の本性は実在性がないから、有にあらずといい、また因縁から成っているので無でもないから、無にあらずというのである。
ものの姿を見て、これに執着するのは、迷いの心を招く原因となる。もしも、ものの姿を見ても執着しないならば、はからいは起こらない。さとりは、このまことの道理を見て、はからいの心を離れることである。
まことに世は夢のようであり、財宝もまた幻のようなものである。絵に見える遠近と同じく、見えるけれども、あるのではない。すべては陽炎(かげろう)のようなものである。
四、無量の因縁によって現われたものが、永久にそのまま存在すると信ずるのは、常見(じょうけん)という誤った見方である。また、まったくなくなると信ずるのは、断見(だんけん)という誤った見方である。
この断・常・有・無は、ものそのものの姿ではなく、人の執着から見た姿である。すべてのものは、もともとこの執着の姿を離れている。
ものはすべて縁によって起こったものであるから、みなうつり変わる。実体を持っているもののように永遠不変ではない。うつり変わるので、幻のようであり、陽炎のようではあるが、しかも、また、同時に、そのままで真実である。うつり変わるままに永遠不変なのである。
川は人にとっては川と見えるけれども、水を火と見る餓鬼にとっては、川とは見えない。だから、川は餓鬼にとっては「ある」とはいえず、人にとっては「ない」とはいえない。
これと同じように、すべてのものは、みな「ある」ともいえず、「ない」ともいえない、幻のようなものである。
しかも、この幻のような世界を離れて、真実の世も永遠不変の世もないのであるから、この世を、仮のものと見るのも誤り、実の世と見るのも誤りである。
ところが、世の人びとは、この誤りのもとは、この世にあると見ているが、この世がすでに幻とすれば、幻にはからう心があって、人に誤りを生じさせるはずはない。誤りは、この道理を知らず、仮の世と考え、実の世と考える愚かな人の心に起こる。
智慧ある人は、この道理をさとって、幻を幻と見るから、ついにこの誤りを犯すことはない。
第四節 かたよらない道
一、道を修めるものとして、避けなければならない二つの偏(かたよ)った生活がある。 その一つは、欲に負けて、欲にふける卑しい生活であり、その二は、いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活である。
この二つの偏った生活を離れて、心眼を開き、智慧を進め、さとりに導く中道の生活がある。
この中道の生活とは何であるか。正しい見方、正しい思い、正しいことば、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい記憶、正しい心の統一、この八つの正しい道である。
すべてのものは縁によって生滅するものであるから、有と無とを離れている。愚かな者は、あるいは有と見、あるいは無と見るが、正しい智慧の見るところは有と無とを離れている。これが中道の正しい見方である。
二、一本の材木が、大きな河を流れているとする。その材木が、右左の岸に近づかず、中流にも沈まず、陸(おか)にも上(のぼ)らず、人にも取られず、渦にも巻き込まれず、内から腐ることもなければ、その材木はついには海に流れ入るであろう。
この材木のたとえのように、内にも外にもとらわれず、有にも無にもとらわれず、正にも邪にもとらわれず、迷いを離れ、さとりにこだわらず、中流に身をまかせるのが、道を修めるものの中道の見方、中道の生活である。
道を修める生活にとって大事なことは、両極端にとらわれず、常に中道を歩むことである。
すべてのものは、生ずることもなく、滅することもなく、きまった性質のないものと知ってとらわれず、自分の行っている善にもとらわれず、すべてのものに縛られてはならない。
とらわれないとは握りしめないこと、執着しないことである。道を修めるものは、死を恐れず、また、生をも願わない。この見方、あの見方と、どのような見方のあとをも追わないのである。
人が執着の心を起こすとき、たちまち、迷いの生活が始まる。だから、さとりへの道を歩むものは、握りしめず、取らず、とどまらないのが、とらわれのない生活である。
三、さとりにはきまった形やものがないから、さとることはあるがさとられるものはない。
迷いがあるからさとりというのであって、迷いがなくなればさとりもなくなる。迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いはない。
だから、さとりのあるのはなお障(さまた)げとなる。闇があるから照らすということがあり、闇がなくなれば照らすということもなくなる。照らすことと照らされるものと、ともになくなってしまうのである。
まことに、道を修めるものは、さとってさとりにとどまらない。さとりのあるのはなお迷いだからである。
この境地に至れば、すべては、迷いのままにさとりであり、闇のままに光である。すべての煩悩がそのままさとりであるところまで、さとりきらなければならない。
四、ものが平等であって差別のないことを空(くう)という。ものそれ自体の本質は、実体がなく、生ずることも、滅することもなく、それはことばでいい表わすことができないから、空というのである。
すべてのものは互いに関係して成り立ち、互いによりあって存在するものであり、ひとりで成り立つものではない。
ちょうど、光と影、長さと短かさ、白と黒のようなもので、ものそれ自体の本質が、ただひとりであり得るものではないから無自性(むじしょう)という。
また、迷いのほかにさとりがなく、さとりのほかに迷いがない。これら二つは、互いに相違するものではないから、ものには二つの相反した姿があるのではない。
五、人はいつも、ものの生ずることと、滅することを見るのであるが、ものにはもともと生ずることがないのであるから、滅することもない。
このものの真実の姿を見る眼を得て、ものに生滅の二つのないことを知り別のものでないという真理をさとるのである。
人は我があると思うから、わがものに執着する。しかし、もともと、我がないのであるから、わがもののあるはずがない。我とわがもののないことを知って、別のものではないという真理をさとるのである。
人は清らかさと汚れがあると思って、この二つにこだわる。しかし、ものにはもともと、清らかさもなければ汚れもなく、清らかさも汚れも、ともに人が心のはからいの上に作ったものにすぎない。
人は善と悪とを、もともと別なものと思い、善悪にこだわっている。しかし、単なる善もなく、単なる悪もない。さとりの道に入った人はこの善悪はもともと別ではないと知って、その真理をさとるのである。
人は不幸を恐れて幸福を望む。しかし、真実の智慧をもってこの二つをながめると、不幸の状態がそのままに、幸福となることがわかる。それだから、不幸がそのままに幸福であるとさとって、心身にまとわりついて自由を束縛する迷いも真実の自由も特別にはないと知って、こうして、人はその真理をさとるのである。
だから、有と無といい、迷いとさとりといい、実と不実といい、正と邪といっても、実は相反した二つのものがあるのではなく、まことの姿においては、言うことも示すことも、識(し)ることもできない。このことばやはからいを離れることが必要がある。人がこのようなことばやはからいを離れたとき、真実の空(くう)をさとることができる。
六、例えば、蓮華が清らかな高原や陸地に生えず、かえって汚い泥の中に咲くように、迷いを離れてさとりがあるのではなく、誤った見方や迷いから仏の種が生まれる。
あらゆる危険をおかして海の底に降りなければ、価(あたい)も知れないほどにすばらしい宝は得られないように、迷いの泥海(どろうみ)の中に入らなければ、さとりの宝を得ることはできない。山のように大きな、我への執着を持つ者であって、はじめて道を求める心も起こし、さとりもついに生ずるであろう。
だから、昔、仙人が刃(やいば)の山に登っても傷つかず、自分の身を大火の中に投げ入れても焼け死なず、すがすがしさを覚えたというように、道を求める心があれば、名誉利欲の山や、憎しみの大火の中にも、さとりの涼しい風が吹き渡ることであろう。
七、仏の教えは、相反する二つを離れて、それらが別のものではないという真理をさとるのである。もしも、相反する二つの中の一つを取って執着すれば、たとえ、それが善であっても、正であっても、誤ったものになる。
もしも、人がすべてのものはうつり変わるという考えにとらわれるならば、これも間違った考えにおちいるものであり、また、もしも、すべてのものは変わらないという考えにとらわれるならば、これももとより間違った考えなのである。もしまた人が我があると執着すれば、それは誤った考えで、常に苦しみを離れることができない。もしも我がないと執着するならば、それも間違った考えで、道を修めても効果がない。
また、すべてのものはただ苦しみであるととらわれれば、これも間違った考えであり、また、すべてのものはただ楽しみだけであるといえば、これも間違った考えである。仏の教えは中道であって、これら二つの偏りから離れている。