拈華微笑 南無父母不二佛

何でも仏教徒として思いついたことを書きます

仏教聖典第237版はげみ 第一章第三節 仏のたとえ

第3節 仏のたとえ


一、遠い昔、棄老国(きろうこく)と名づける、老人を棄(す)てる国があった。
その国の人びとは、だれしも老人になると、遠い野山に棄てられるのがおきてであった。


 その国の王に仕える大臣は、いかにおきてとはいえ、年老いた父を棄てることができず、深く大地に穴を掘ってそこに家を作り、そこに隠して孝養を尽くしていた。
 ところがここに一大事が起きた。それは神が現われて、王に向かって恐ろしい難問を投げつけたのである。
 「ここに二匹の蛇がいる。この蛇の雄・雌を見分ければよし、もしできないならば、この国を滅ぼしてしまう。」と。
 王はもとより、宮殿にいるだれひとりとして蛇の雄・雌を見分けられる者はいなかった。   王はついに国中に布告して、見分け方を知っている者には、厚く賞を与えるであろうと告げさせた。
 かの大臣は家に帰り、ひそかに父を尋ねると、父はこう言った。
 「それは易しいことだ。柔らかい敷物の上に、その二匹の蛇を置くがよい。そのとき、騒がしく動くのは雄であり、動かないのが雌である。」
 大臣は父の教えのとおり王に語り、それによって蛇の雄・雌を知ることができた。
 それから神は、次々にむずかしい問題を出した。王も家臣たちも、答えることができなかったが、大臣はひそかにその問題を父に尋ね、常に解くことができた。
その問いと答えは次のようなものであった。


 「眠っているものに対しては覚めているといわれ、覚めているものに対しては眠っているといわれるのは誰であるか。」
「それは、いま道を修業している人のことである。道を知らない、眠っている人に対しては、その人は覚めているといわれる。すでに道をさとった、覚めている人に対しては、その人は眠っているといわれる。」
「大きな象の重さはどうして量るか。」
「象を舟に乗せ、舟が水中にどれだけ沈んだか印をしておく。次に象を降ろして、同じ深さになるまで石を載せその石の重さを量ればよい。」
「一すくいの水が大海の水より多いというのは、どんなことか。」
「清らかな心で一すくいの水を汲んで、父母や病人に施せば、その功徳は永久(とこしえ)に消えない。大海の水は多いとはいっても、ついに尽きることがある。これをいうのである。」


 次に神は、骨と皮ばかりにやせた、飢えた人を出して、その人にこう言わせた。
「世の中に、私よりもっと飢えに苦しんでいるものがあるであろうか。」
「ある。世にもし、心がかたくなで貧しく仏法僧の三宝を信ぜず、父母や師匠に供養をしないならば、その人の心は飢えきっているだけでなく、その報いとして、後の世には餓鬼道に落ち、長い間飢えに苦しまなければならない。」
「ここに真四角な栴檀【せんだん】の板がある。この板はどちらが根の方であったか。」
「水に浮かべてみると、根の方がいくらか深く沈む。それによって根の方を知ることができる。」
「ここに同じ姿・形の母子の馬がいる。どうしてその母子を見分けるか。」
「草を与えると、母馬は必ず子馬の方へ草を押しつけ与えるから、直ちに見分けることができる。」


 これらの難問に対する答えはことごとく神を喜ばせ、また王をも喜ばせた。そして王は、この智慧が、ひそかに穴蔵にかくまっていた大臣の老いた父から出たものであることを知り、それより、老人を棄てるおきてをやめて、年老いた人に孝養を命ずるに至った。


二、インドのヴィーデーハ国の王妃は、六牙(ろくげ)の白象の夢を見た。王妃は、その象牙をぜひ自分のものにしたいと思い、王にその牙(きば)を手に入れたいと願った。王妃を愛する王は、この無理な願いを退けることができず、このような象を知る者があれば届け出よ、と賞金をつけて国中に触れを出した。


 ヒマラヤ山の奥にこの六牙の象がいた。この象は仏になるための修行をしていたのであるが、あるときひとりの猟師を危難から救ってやった。ようやく国に帰ることのできたこの猟師は、この触れを見、賞金に眼がくらみ、恩を忘れて、六牙の象を殺そうと山へ向かっていった。


 猟師はこの象が仏になるための修行をしていたので、象を安心させるために袈裟(けさ)をかけて出家の姿になった。そして、山には入って象に近づき、象が心を許しているさまを見すまして毒矢を放った。


 激しい毒矢に射られて死期の近いことを知った象は、猟師の罪をとがめようともせず、かえってその煩悩の過ちを哀れみ、猟師をその四つの足の間に入れて、報復しようとする大勢の仲間の象から守り、さらに、猟師がこの危険をおかすに至ったわけを尋ねて、彼が六つの牙を求めるためであることを知り、自ら牙を大木に打ちつけて折り、彼にこれを与えた。白象は、「この布施行によって仏道修行を成就した。わたしは仏の国に生まれるであろう。やがて仏となったら、まず、あなたの心の中にある貪り・瞋り・愚かさという三つの毒矢を抜き去るであろう。」と誓った。


三、ヒマラヤ山のふもとの、ある竹やぶに、多くの鳥や獣と一緒に、一羽のおうむが住んでいた。あるとき、にわかに大風が起こり、竹と竹が擦(す)れあって火が起こった。火は風にあおられて、ついに大火となり、鳥も獣も逃げ場を失って鳴き叫んだ。おうむは、一つには、長い間住居を与えてくれた竹やぶの恩に報いるために、一つには、大勢の鳥や獣の災難を哀れんで、彼らを救うために、近くの池に入っては翼を水に浸し、空にかけのぼっては滴(しずく)を燃えさかる火の上にそそぎかけ、竹やぶの恩を思う心と、限りない慈愛の心で、たゆまずにこれを続けた。


 慈悲と献身の心は天界の神を感動させた。神は空から下って来ておうむに語った。
「おまえの心はけなげではあるが、この大いなる火を、どうして羽の滴で消すことができよう。」
おうむは答えて言う。


 「恩を思う心と慈悲の心からしていることが、できないはずはない。わたしはどうしてもやる。次の生に及んでもやりとおす。」と。


 神はおうむの偉大な志にうたれ、力を合わせてこのやぶの火を消し止めた。


四、ヒマラヤ山に共命鳥(ぐみょうちょう)という鳥がいた。体は一つ、頭は二つであった。


 あるとき、一つの頭がおいしい果実を食べるのを見て、もう一つの頭がねたみ心を起こし、「それならわたしは毒の果実を食べてやろう。」と毒をたべて、両方ともに死んでしまった。


五、ある蛇の頭と尾とが、あるとき、お互いに前に出ようとして争った。尾が言うには、


 「頭よ、おまえはいつも前にあるが、それは正しいことではない。たまにはわたしを前にするがよい。」
 頭が言うには、
「わたしがいつも前にあるのはきまったならわしである。おまえを前にすることはできない。」と。
 互いに争ったが、やはり頭が前にあるので、尾は怒って木に巻きついて頭が前へ進むことを許さず、頭がひるむすきに、木から離れて前へ進み、ついに火の穴へ落ち、焼けただれて死んだ。
 ものにはすべて順序があり、異なる働きがそなわっている。不平を並べてその順序を乱し、そのために、そのおのおのに与えられている働きを失うようになると、そのすべてが滅んでしまうのである。


六、非常に気が早く怒りっぽい男がいた。その男の家の前で、二人の人がうわさをした。
 「ここの人は大変よい人だが、気の早いのと、怒りっぽいのが病である。」と。
 その男は、これを聞くとすぐに家を飛び出してきて、二人の人におそいかかり、打つ、蹴る、なぐるの乱暴をし、とうとう二人を傷つけてしまった。


 賢い人は、自分の過ちを忠告されると、反省してあらためるが、愚かな者は、自分の過ちを指摘されると、あらためるどころか、かえって過ちを重ねるものである。


七、金持ちではあるが愚かな人がいた。他人の家の三階づくりの高層が高くそびえて、美しいのを見てうらやましく思い、自分も金持ちなのだから、高層の家を造ろうと思った。
 大工を呼んで建築を言いつけた。大工は承知して、まず基礎を作り、二階を組み、それから三階に進もうとした。主人はこれを見て、もどかしそうに叫んだ。
 「わたしの求めるのは土台ではない。一階でもない、二階でもない、三階の高楼(たかどの)だけだ。早くそれを作れ。」と。


 愚かな者は、努め励むことを知らないで、ただ良い結果だけを求める。しかし、土台のない三階はあり得ないように、努め励むことなくして、良い結果を得られるはずがない。


八、ある人が蜜を煮ているところへ親しい友人が来たので、蜜をごちそうしようと思い、火にかけたまま扇であおぎ冷やそうとした。これと同じく、煩悩の火を消さないで、清涼のさとりをの蜜を得ようとしても、ついに得られるはずはない。


九、二匹の鬼が、一つの箱と一本の杖と一足の靴(くつ)とを中にして互いに争い、終日争ってついにきまらず、なおも争いを続けた。
 これを見たひとりの人が、
「どうしてそのように争うのか。この品々にどのような不思議があって、そのように奪いあいをするのか。」と尋ねた。
 二匹の鬼はこう答えた。
「この箱からは、食物でも、宝でも、何でも欲しいものを自由に取り出すことができる。又、この杖を手に取るとすぐに敵をうち下すことができる。この靴をはくと、空を自由に飛ぶことができる。」と。
 その人はこれを聞いて、
「争うことなんかあるものか。おまえら二人は、しばらくここを離れているがよい。わたしが等分に分けてやろう。」と言って、二匹の鬼を遠ざけ、自ら箱を抱え、杖を取り、靴をはいて空へ飛び去った。


 鬼とは異教の人、箱とは布施のことである。彼らは、布施からもろもろの宝の生ずることを知らない。また、杖とは心の統一のこと。彼らは、心の統一によって煩悩の悪魔をうち下すことを知らない。
 また、靴とは清らかな戒のこと。彼らはこの清らかな戒によって、あらゆる争いを超えられることを知らない。だから、この箱と杖と靴を取りあって、争ってやまないのである。


十、ひとりの人が旅をして、ある夜、ただひとりでさびしい空き家に宿をとった。すると真夜中になって、一匹の鬼が人の死骸をかついで入ってきて、床の上にそれを降ろした。


 間もなく、後ろからもう一匹の鬼が追って来て、「これはわたしのものだ。」と言い出したので、激しい争いが起こった。
 すると、前の鬼が後ろの鬼に言うには、
「こうして、おまえと争っていても果てしがない。証人を立てて所有を決めよう。」
 後ろの鬼もこの申し出を承知したので、前の鬼は、先ほどからすみに隠れて小さくなって震えていた男を引き出して、どちらが先にかついできたかを言ってくれと頼んだ。
 男はもう絶体絶命である。どちらの鬼に味方しても、もう一方の鬼に恨まれて殺されることはきまっているから、決心して正直に自分の見ていたとおりを話した。
 案の定、一方の鬼は怒ってその男の手をもぎ取った。これを見た前の鬼は、すぐ死骸の手を取って来て補った。後ろの鬼はますます怒ってさらに手を抜き足を取り、胴を取り去り、とうとう頭まで取ってしまった。前の鬼は次々に、死体の手、足、胴、頭を取って、みなこれを補ってしまった。
 こうして二匹の鬼は争いをやめ、あたりに散らばった手足を食べて満腹し、口をぬぐって立ち去った。
 男はさびしい小屋で恐ろしい目にあい、親からもらった手も足も胴も頭も、鬼に食べられ、今や自分の手も足も胴も頭も、見知らぬ死体のものである。一体、自分は自分なのか自分ではないのか、まったくわからなくなった男は、夜明けに気が狂って空き家を立ち去ったが、途中で寺を見つけて喜び勇み、その寺に入って、昨夜の恐ろしいできごとをすべて話し、教えを請うたのである。人びとは、この話の中に、無我 の理(ことわり)を感得し、まことに尊い感じを得た。


十一、ある家に、ひとりの美しい女が、着飾って訪ねてきた。
 その家の主人が、
「どなたでしょうか。」
と訪ねると、その女は
「私は人に富を与える福の神である。」
と答えた。主人は喜んで、その女を家に上げ手厚くもてなした。
 すると、すぐその後ろから、粗末な身なりをした醜い女が入ってきた。主人がだれであるかと尋ねると、貧乏神であると答えた。主人は驚いてその女を追い出そうとした。すると女は、
「先ほどの福の神はわたしの姉である。私たち姉妹はいつも離れたことはないのであるから、わたしを追い出せば姉もいないことになるのだ。」
と主人に告げ、彼女が去ると、やはり美しい福の神の姿も消えうせた。


 生があれば死があり幸いがあれば災いがある。善いことがあれば悪いことがある。人はこのことを知らなければならない。愚かな者は、ただいたずらに、災いをきらって幸いだけを求めるが、道を求めるものは、このふたつをともに超えて、そのいずれにも執着してはならない。


十二、昔、貧しい絵かきがいた。妻を故郷に残して旅に出、三年の間苦労して多くの金を得た。いよいよ、故郷に戻ろうとしたところ、途中で、多くの僧に供養する儀式の行われているのを見た。彼は大いに喜び、


「わたしはまだ福の種をまいたことがない。今この福の種をまく田地にあって、どうしてこのまま見過ごすことができよう。」と、惜しげもなく、その多くの金を投げ出して、供養し終えて家に帰った。
 空手で帰った夫を見た妻は、大いに怒ってなじり問いつめたが、夫は、財物はみな堅固な蔵の中にたくわえておいたと答えた。その蔵とは何かと聞くと、それは尊い教団のことであると答えた。
 腹を立てた妻はこのことをその筋に訴え、絵かきは取り調べを受けることになった。彼は次のように答えた。
「わたしは貴い努力によって得た財物をつまらなく費やしたのではない。わたしは今まで福の種を植えることを知らないで過ごしてきたが、福の種をまく田地というべき供養の機会を見て信仰心が起き、物惜しみの心を捨てて施したのである。まことの富とは財物ではなく、心であることを知ったから。」
 役人は絵かきの心をほめたたえ、多くの人びともこれを聞いて心をうたれた。それ以来、彼の信用は高まり、絵かき夫婦はこれによって、大きな富を得るようになった。


十三、ある男が墓場の近くに住んでいた。ある夜、墓場の中から、しきりに自分を呼ぶ声がするので、恐れ震え上がっていた。夜が明けてから、彼がそのことを友に話すと、友の中で勇気のある者が、次の夜にも呼ぶ声がしたら、その声をたずねて、そのもとをつきとめてみようと決心した。


 次の夜も、前夜のように、しきりに呼ぶ声がする。呼ばれた男はおびえて震えていたが、勇気のある男は、その声をたよりに墓場に入り、声の出る場所をたずねて、おまえは誰かと聞いた。
 すると、地の中から声がして、
「わたしは、地の中に隠されている宝である。わたしは、わたしの呼んだ男にわたしを与えようと思うが、彼は恐れて来ない。おまえは勇気があるからわたしを取るにふさわしい。あすの朝、わたしは七人の従者とともにおまえの家に行くであろう。」と言った。
 その男はこのことばを聞いて、
「わたしの家へ来るなら待っているが、どのようにもてなしたらよいのか。」と尋ねる。
声は答えた。「私どもは出家の姿で行くから、まず体を清め、部屋を清めて、水を用意し、八つの器(うつわ)にかゆを盛って待つがよい。
食事が終わったら、ひとりひとり導いて、すみに囲った部屋の中に入れれば、わたしどもはそのまま黄金のつぼになるだろう。」と。
 あくる朝、この男は、体を清め、家を清めて待っていると、はたして八人の出家が托鉢にやって来た。部屋に通して、水とかゆとを供養し、終わってからひとりひとりをすみに囲った部屋に導いた。すると、八人が八人とも、黄金のいっぱい入ったつぼに変わってしまった。
 このことを聞いた欲深い男が、自分も黄金のつぼが欲しいと思い、同じように部屋を清めて托鉢の出家を八人招いて供養し、食事の後、すみの部屋に閉じこめた。しかし八人の出家は黄金のつぼになるどころではなく、怒って暴れ出し、その男はついに訴えられ、捕らえられた。
 はじめに名を呼ばれておびえていた男も、呼んだ声が黄金のつぼであると知ると、これも欲を起こし、あの声はもともと自分を呼んだのだから、あのつぼは自分のものだと言いはり、その家へ入ってつぼを取ろうとすると、つぼの中には蛇がいっぱいいて、首をもたげてその男に向かっていった。
 その国の王はこれを聞いて、黄金のつぼはみな、この勇気ある男のものであるとして、「世の中のことは何ごともこのとおりであって、愚かな者はただその果報だけを望むが、それはそれだけで得られるものではない。ちょうどそれは、うわべだけ戒を保っていても、心の中にまことの信心がなければ決して真の安らぎは得られないのと同じである。」と論した。

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