拈華微笑 南無父母不二佛

何でも仏教徒として思いついたことを書きます

仏教聖典第237版 はげみ第一章さとりへの道

第一章 さとりへの道


第一節 心を清める


一、人には、迷いと苦しみのもとである煩悩(ぼんのう)がある。この煩悩のきずなから逃れるには五つの方法がある。


 第一には、ものの見方を正しくして、その原因と結果とをよくわきまえる。すべての苦しみのもとは、心の中の煩悩であるから、その煩悩がなくなれば、苦しみのない境地が現われることを正しく知るのである。


 見方を誤るから、我(が)という考えや、原因・結果の法則を無視する考えが起こり、この間違った考えにとらわれて煩悩を起こし、迷い苦しむようになる。


 第二には、欲をおさえしずめることによって煩悩をしずめる。明らかな心によって、眼・耳・鼻・舌・身・意の六つに起こる欲をおさえしずめて、煩悩の起こる根元を断ち切る。


 第三には、物を用いるに当たって、考えを正しくする。着物や食物を用いるのは享楽のためとは考えない。着物は暑さや寒さを防ぎ羞恥を包むためであり、食物は道を修めるもととなる身体を養うためにあると考える。この正しい考えのために、煩悩は起こることができなくなる。


 第四には、何ごとも堪え忍ぶことである。暑さ・寒さ・飢え・渇きを堪え忍び、ののしりや謗(そし)りを受けても堪え忍ぶことによって、自分の身を焼き滅ぼす煩悩の火は燃え立たなくなる。


 第五には、危険から遠ざかることである。賢い人が、荒馬や狂犬の危険に近づかないように、行ってはならないところ、交わってはならない友は遠ざける。このようにすれば煩悩の炎は消え去るのである。


二、世には五つの欲がある。


 眼に見るもの、耳に聞く声、鼻にかぐ香り、舌に味わう味、身に触れる感じ、この五つのものをここちよく好ましく感ずることである。


多くの人は、その肉体の好ましさに心ひかれて、これにおぼれ、その結果として起こる災いを見ない。これはちょうど、森の鹿が猟師のわなにかかって捕らえられるように、悪魔のしかけたわなにかかったのである。まことにこの五欲はわなであり、人びとはこれにかかって煩悩を起こし、苦しみを生む。だから、この五欲の災いを見て、そのわなから免(まぬが)れる道を知らなければならない。


三、その方法は一つではない。例えば、蛇と鰐(わに)と鳥と犬と狐と猿と、その習性を別にする六種の生きものを捕らえて強いなわで縛り、そのなわを結び合わせて放つとする。


 このとき、この六種の生きものは、それぞれの習性に従って、おのおのその住みかに帰ろうとする。蛇は塚に、鰐は水に、鳥は空へ、犬は村に、狐は野に、猿は森に。このためお互いに争い、力のまさったものの方へ、引きずられていく。


 ちょうどこのたとえのように、人びとは眼に見たもの、耳に聞いた声、鼻にかいだ香り、舌に味わった味、身に触れた感じ、及び、意(こころ)に思ったもののために引きずられ、その中の誘惑のもっとも強いものの方に引きずられてその支配を受ける。


 またもし、この六種の生きものを、それぞれなわで縛り、それを丈夫な大きな柱に縛りつけておくとする。はじめの間は、生き物たちはそれぞれの住みかに帰ろうとするが、ついには力尽き、その柱のかたわらに疲れて横たわる。


 これと同じように、もし、人がその心を修め、その心を鍛錬しておけば、他の五欲に引かれることはない。もし心が制御されているならば、人びとは、現在においても未来においても幸福を得るであろう。


四、人びとは欲の火の燃えるままに、はなやかな名声を求める。それはちょうど香(こう)が薫(かお)りつつ自らを焼いて消えてゆくようなものである。いたずらに名声を求め、名誉を貪(むさぼ)って、道を求めることを知らないならば、身はあやうく、心は悔いにさいなまれるであろう。


 名誉と財と色香とを貪り求めることは、ちょうど子供が刃(やいば)に塗られた蜜をなめるようなものである。甘さを味わっているうちに、舌を切る危険をおかすこととなる。


 愛欲を貪り求めて満足を知らない者は、たいまつをかかげて風に逆らいゆくようなものである。手を焼き、身を焼くのは当然である。


 貪りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒に満ちている自分自身の心を信じてはならない。自分の心をほしいままにしてはならない。心をおさえ欲のままに走らないように努めなければならない。


五、さとりを得ようと思うものは欲の火を去らなければならない。干し草を背に負う者が野火を見て避けるように、さとりの道を求める者は、必ずこの欲の火から遠ざからなければならない。


 美しい色を見、それに心を奪われることを恐れて眼をくり抜こうとする者は愚かである。心が主(あるじ)であるから、よこしまな心を断てば、従者である眼の思いは直ちにやむ。
道を求めて進んでゆくことは苦しい。しかし、道を求める心のないことは、さらに苦しい。   この世に生まれ、老い、病んで、死ぬ。その苦しみには限りがない。


 道を求めて行くことは、牛が重荷を負って深い泥の中を行くときに、疲れてもわき目もふらずに進み、泥をはなれてはじめて一息つくのと同じでなければならない。欲の泥はさらに深いが、心を正しくして道を求めてゆけば、泥を離れて苦しみはうせるであろう。


六、道を求めてゆく人は、心の高ぶりを取り去って、教えの光を身に加えなければならない。どんな金銀・財宝の飾りも、徳の飾りには及ばない。


 身を健やかにし、一家を栄えさせ、人びとを安らかにするには、まず、心をととのえなければならない。心をととのえて道を楽しむ思いがあれば、徳はおのずからその身にそなわる。


 宝石は地から生まれ、徳は善から現われ、智慧は静かな清い心から生まれる。広野のように広い迷いの人生を進むには、この智慧の光によって、進むべき道を照らし、徳の飾りによって身をいましめて進まなければならない。


 貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさという三つの毒を捨てよ、と説く仏の教えは、よい教えであり、その教えに従う人は、よい生活と幸福を得る人である。



第二節 善い行い


一、道を求めるものは、常に身と口と意(こころ)の三つの行いを清めることを心がけなければならない。


身の行いを清めるとは、生きるもの殺さず、盗みをせず、よこしまな愛欲をを犯さないことである。


口の行いを清めるとは、偽りを言わず、悪口を言わず、二枚舌を使わず、むだ口をたたかないことである。


意の行いを清めるとは、貪(むさぼ)らず、よこしまな見方をしないことである。


心が濁れば行いが汚れ、行いが汚れると、苦しみを避けることができない。だから、心を清め、行いを慎むことが道のかなめである。


二、昔、ある金持ちの女主人がいた。親切で、しとやかで、謙遜であったため、まことに評判のよい人であった。その家にひとりの使用人がいて、これも利口でよく働く人であった。


 あるとき、その使用人がこう考えた。「うちの主人は、まことに評判のよい人であるが、腹からそういう人なのか、または、よい環境がそうさせているのか、一つ試してみよう。」
 そこで、使用人は、次の日、なかなか起きず、昼頃にようやく顔を見せた。女主人はきげんを悪くして、「なぜこんなに遅いのか。」ととがめた。
「一日や二日遅くても、そうぶりぶり怒るものではありません。」とことばを返すと、女主人は怒った。
 使用人はさらに次の日も遅く起きた。女主人は怒り、棒で打った。このことが知れわたり、女主人はそれまでのよい評判を失った。


三、だれでもこの女主人と同じである。環境がすべて心にかなうと、親切で謙遜で、静かであることができる。しかし、環境が心に逆らってきても、なお、そのようにしていられるかどうかが問題なのである。


 自分にとって面白くないことばが耳に入ってくるとき、相手が明らかに自分に敵意を見せて迫ってくるとき、衣食住は容易に得られないとき、このようなときにも、なお静かな心と善い行いとを持ち続けることができるであろうか。


 だから、環境がすべて心にかなうときだけ、静かな心を持ち善い行いをしても、それはまことによい人とはいえない。仏の教えを喜び、教えに身も心も練り上げた人こそ、静かにして、謙遜な、よい人といえるのである。


四、すべてことばには、時にかなったことばとかなわないことば、事実にかなったことばとかなわないことば、柔らかなことばと粗(あら)いことば、有益なことばと有害なことば、慈(いつく)しみあることばと憎しみあることば、この五対(ごつい)がある。


 この五対のいずれによって話しかけられても、
「わたしの心は変わらない。粗い言葉はわたしの口から漏れない。同情と哀れみとによって慈しみの思いを心にたくわえ、怒りや憎しみの心を起こさないように。」と努めなければならない。


 例えばここに人がおり、鋤(すき)と鍬(くわ)を持って、この土地の土をなくそうと、土を掘ってはまき散らし、土よなくなれと言ったとしても、土をなくすことはできない。このようにすべてのことばをなくしてしまうことはのぞみ得ない。


 だから、どんなことばで語られても、心を鍛えて慈しみの心をもって満たし、心の変わらないようにしておかなければならない。


 また、絵の具によって、空に絵を描こうとしても、物の姿を現わすことはできないように、また、よくなめした柔らかな皮を摩擦して、ざらざらした音を立てようとしてもできないように、どんなことばで話しかけられても、決して心の変わらないように、心を養わなければならない。


 人は、心を大地のように広く、大空のように限りなく、大河のように深く、なめした皮のように柔らかく養わなければならない。


 たとえ、かたきに捕らえられて、苦しめられるようなことがあっても、そのために心を憎くするのは、真に仏の教えを守った者とはいえない。どんな場合に当たっても、
「わたしの心は動かない。憎しみ怒ることばは、わたしの口を漏れない。同情と哀れみのある慈しみの心をもって、その人を包むように。」と学ばなければならない。


五、ある人が、「夜は煙って、昼は燃えあがる蟻塚【ありづか】。」を見つけた。
ある賢者にそのことを語ると、「では、剣をとって深く掘り進め。」と命ぜられ、言われるままに、その蟻塚を掘ってみた。


 はじめにかんぬきが出、次は水泡、次には刺又(さすまた)、それから箱、亀、と殺用の刀、一片の肉が次々と出、最後に龍が出た。


 賢者にそのことを語ると、「それらのものをみな捨てよ。ただ龍のみをそのままにしておけ。龍を妨げるな。」と教えられた。


 これはたとえである。ここに「蟻塚」というのはこの体のことである。「夜は煙って」というのは、昼間したことを夜になっていろいろ考え、喜んだり、悔やんだりすることをいう。「昼は燃える」というのは、夜考えたことを、昼になってから体や口で実行することをいう。


 「ある人」というのは道を求める人のこと、「賢者」とは仏のことである。


 「剣」とは清らかな智慧のこと、「深く掘り進む」とは努力のことである。


 「かんぬき」とは無明(むみょう)のこと、「水泡」とは怒りと悩み、「刺又(さすまた)」とはためらいと不安、「箱」とは貪【むさぼ】り・瞋【いか】り・怠り・浮わつき・悔い・惑いのこと、「亀」とは身と心のこと、「と殺用の刀」とは五欲のこと、「一片の肉」とは楽しみを貪(むさぼ)り求める欲のことである。これらは、いずれもこの身の毒となるものであるから、「みな捨てよ」というのである。


 最後の「龍」とは、煩悩の尽きた心のことである。わが身の足下を掘り進んでゆけば、ついにはこの龍を見ることができる。


 掘り進んでこの龍を見いだすことを、「龍のみをそのままにしておけ、龍を妨げるな。」というのである。


六、釈尊の弟子ピンドーラは、さとりを得て後、故郷の恩に報いるために、コーサンビーの町に帰り、努力して仏の種をまく田地(でんち)の用意をしようとした。コーサンビーの郊外に、小公園があり、椰子(ヤシ)の並木は果てもなく続き、ガンジスの洋々たる河波(かわなみ)は、涼しい風を絶え間なく送っていた。


 夏のある日、昼の暑い日盛りを避けて、ピンドーラは、並木の木陰の涼しいところで座禅をしていた。ちょうどこの日、城主のウダヤナ王も、妃たちを連れて公園に入り、管弦の遊びに疲れて、涼しい木陰にしばしの眠りにおちいった。


 妃たちは、王の眠っている間に、あちらこちらとさまよい歩き、ふと、木陰に端座するピンドーラを見た。彼女らはその姿に心にうたれ、道を求める心を起こし、説法することを求めた。そして、彼の教えに耳を傾けた。


 目を覚ました王は、妃たちのいないのに不審をいだき、後を追って、木陰で妃たちにとりかこまれているひとりの出家を見た。淫楽に荒(すさ)んだ王は、前後の見境もなく、心中にむらむらと嫉妬の炎を燃やし、「わが女たちを近づけて雑談にふけるとはふらちな奴だ。」と悪口(あっこう)を浴びせた。ピンドーラは目を閉じ、黙然(もくねん)として、一語も発しない。


 怒り狂った王は、剣を抜いて、ピンドーラの頭に突きつけたが、彼はひとことも語らず、岩のように動かない。


 いよいよ怒った王は、蟻塚(ありづか)をこわして、無数の赤蟻を彼の体のまわりにまき散らしたが、それでもピンドーラは、端然と坐ったままそれに耐えていた。


 ここに至って、王ははじめて自分の狂暴を恥じ、その罪をわびて許しを請うた。これから仏の教えがこの王家に入り、その国に広まるいとぐちが開けた。


七、その後、幾日か過ぎて、ウダナヤ王はピンドーラを住むその森に訪ね、その不審をただした。


 「大徳よ、仏の弟子たちは、若い身でありながら、どうして欲におぼれず、清らかにその身を保つことができるのであろうか。」


 「大王よ、仏は私たちに向かって、婦人に対する考えを教えられた。年上の婦人を母と見よ。中ほどの婦人を妹と見よ。若い婦人を娘と見よと。この教えのよって、弟子たちは若い身でありながら、欲におぼれず、その身を清らかに保っている。」


 「大徳よ、しかし、人は、母ほどの人にも、妹ほどの人にも、娘ほどの人にもみだらな心を起こすものである。仏の弟子たちはどのようにして欲をおさえることができるのであろうか。」


 「大王よ、世尊は人の体がいろいろの汚れ、血・うみ・汗・脂など、さまざまな汚れに満ちていることを【観】(み)よと教えられた。このように観ることによって、われわれ若い者でも、心を清らかに保つことができるのである。」


 「大徳よ、体を鍛え、心を練り、智慧をみがいた仏弟子たちには容易であるかも知れない。しかし、いかに仏弟子でも、未熟の人には、容易なことではないであろう。汚れたものを見ようとしても、いつしか清らかな姿に心ひかれ、醜さを見ようとしても、いつしか美しい形に魅せられてゆく。仏弟子が美しい行いを保つには、もっと他に理由があるのではあるまいか。」


 「大王よ、仏は五官の戸口を守れと教えられる。目によって色・形を見、耳によって声を聞き、鼻によって香りをかぎ、舌によって味を味わい、体によって物に触れるとき、そのよい姿に心を奪われず、またよくない姿に心をいらだたせず、よく五官の戸口を守れと教えられる。この教えによって、若い者でも、身心を清らかに保つことができるのである。」


 「大徳よ、仏の仰せは、まことにすばらしい。わたしの経験によってもそのとおりである。五官の戸締まりをしないで、ものに向かえば、すぐに卑しい心にとらわれる。五官の戸口を守ることは、わたしどもの行いを清らかにするうえに、まことに大切なものである。」


八、人が心に思うところを動作に表わすとき、常にそこには反作用が起こる。人はののしられると、言い返したり、仕返ししたくなるものである。人はこの反作用に用心しなくてはならない。それは風に向かって唾(つばき)するようなものである。それは他人を傷つけず、かえって自分を傷つける。それは風に向かってちりを掃くようなものである。それはちりを除くことにはならず、自分を汚すことになる。仕返しの心には常に災いがつきまとうものである。


九、せまい心を捨てて、広く他に施すことは、まことよいことである。それとともに、志を守り、道を敬うことは、さらによいことである。


 人は利己的な心を捨てて、他人を助ける努力をするべきである。他人が施すのを見れば、その人は別の人を幸せにし、幸福はそこから生まれる。


 一つのたいまつから何千人の人が火を取っても、そのたいまつはもとのとおりであるように、幸福はいくら分け与えても、減るということがない。


 道を修める者は、その一歩一歩を慎まなければならない。


 志がどんなに高くても、それは一歩一歩到達されなければならない。道は、その日その日の生活の中にあることを忘れてはならない。


十、この世の中に、さとりへの道を始めるに当たって成し難いことが二十ある。


一、貧しくて、施すことは難く、
二、慢心にして道を学ぶことは難く、
三、命を捨てて道を求めることは難く、
四、仏の在世に生を受けることは難く、
五、仏の教えを聞くことは難く、
六、色欲を耐え忍び、諸欲を離れることは難く、
七、よいものを見て求めないことは難く、
八、権勢を持ちながら、勢いをもって人に臨まないことは難く、
九、辱(はずかし)められても怒らないことは難く、
十、事が起きても無心であることは難く、
十一、広く学び深く究めることは難く、
十二、初心の人を軽んじないことは難く、
十三、慢心を除くことは難く、
十四、よい友を得ることは難く、
十五、道を学んでさとりに入ることは難く、
十六、外界の環境に動かされないことは難く、
十七、相手の能力を知って、教えを説くことは難く、
十八、心をいつも平らかに保つことは難く、
十九、是非をあげつらわないことは難く、
二十、よい手段を学び知ることは難い。


十一、悪人と善人の特質はそれぞれ違っている。悪人の特質は、罪を知らず、それをやめようとせず、罪を知らされるのをいやがる。善人の特質は、善悪を知り、悪であることを知ればすぐやめ、悪を知らせてくれる人に感謝する。


 このように、善人と悪人とは違っている。
愚かな人とは自分に示された他人の親切に感謝できない人である。


 一方賢い人とは常に感謝の気持ちを持ち、直接自分に親切にしてくれた人だけではなく、すべての人に対して思いやりを持つことによって、感謝の気持ちを表そうとする人である。

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