仏教聖典第237版なかま第二章第三節 もろ人のために「日本国憲法」
沼田恵範師の業績仏教聖典中「もろ人のために」の内容が1266版令和2年発行本ではすべて削除されていたのでこちらに追補して沼田師がじかに監修した昭和60年237版を復刻した。ほかの237版仏教聖典ページでも復刻部分をカラー文字で示した。
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仏教聖典第237版なかま第二章第二節 女性の生き方 - 拈華微笑 南無父母不二佛
山口新聞コラム「東流西流」原稿(令和3年8回予定) - 拈華微笑 南無父母不二佛
山口新聞記者湊孝典殿机前あつく御礼申し上げます九拝 - 拈華微笑 南無父母不二佛
第三節 もろ人のために
一、ここに国家を栄えさせる七つの教えがある。
一つには、国民はしばしば会合をして政治を語り、国防を厳(げん)にして自ら守り、
二つには、上下心を一つにして相和し、ともに国事を議し、
三つには、国風を尊んでみだりにあらためず、礼を重んじ義を尊び、
四つには、男女の別を正し、長幼の序を守って、よく社会と家庭の純潔を保ち、
五つには、父母に孝し、師長に仕え、
六つには、祖先の祭壇をあがめて祭儀を行い、
七つには、道を尊び徳をあがめ、徳の高い師について教えを仰ぎ、厚く供養することである。
どんな国でも、この七つの教えをよく守って破ることがないならば、
その国の栄えることは疑いがなく、
外国の侮(あなど)りを受けることはないであろう。
二、昔、大光王は、自分の王道を次のように説いた。
「自分の国家を治める道は、まず自分を修めることである。
自ら慈の心を養って、この心を持って国民に臨み、
人びとを教え導いて心の垢(あか)を除き去り、身と心を和らげて、
世の中の楽しみにまさる正しい教えの喜びを得させる。
また、貧しいものが来たときには、蔵を開いて心のままに取らせる。
そしてこれを手がかりとして、すべての悪から遠ざかるように戒める。
人びとは各々その心をもととして、見るところを異にする。
この城中の民にしても、この都を美しいと見るものもあれば、また汚いと見るものもある。
これは各々、その心、その環境がそうさせるのである。
教えを尊び、心の正しい素直な人は、木石にも瑠璃(るり)の光を見るのであるが、
欲が深くて自分を修めることを知らない者は、
どんな立派な御殿でもなお美しいと見ることはできない。
国民の生活は、万事みなこのとおり、心がもとになっているから、
わたしは国を治める大もとを、
民にその心を修めさせることに置いている。」
三、大光王のことばどおり、政道の大もとは、
民にその心を修めさせることにある。
この心を修めることはさとりの道に進むことであるから、
政治の上に立つ人は、まず仏の教えを信じなければならない。
もし政治を行う人が、仏を信じ、教えを信じて、
慈悲深く徳のある人を敬い、これを供養するならば、
敵もなく、恨みもなく、国家は必ず栄えるに違いない。
そして、国が富み栄えるならば、
他の国を貪(むさぼ)り攻めることもなく、
また他を攻める武器の必要もなくなるであろう。
したがって国民も満足して楽しみを受け、
上下和らいでむつみあい、
善を増し徳を積んで互いに敬愛し喜びあうから、
いよいよ人は栄え、
寒さ暑さもととのい、
日も月も星も常の程度を失わず、
風雨が時に従うようになり、
こうしていろいろの災いも遠ざかるようになるであろう。
四、王たるものの勤めは、民を守ることにある。
王は民の父母であり、教えによって民を守るからである。
民を養うことは、父母が赤子を養うようなもので、
父母が赤子のことばを持たず、湿ったものを取り替えて新しい布を当てがうように、
いつも民に幸いを与えて悩みを去るよう慈しみ養うのである。
まことに王は、民をもって国の宝とする。
これは、民が安らかでなければ政道が立たないからである。
だから、王たるものは、民を憂えてしばらくも心を離さない。
民の苦楽を察し、民の繁栄をはかり、
そのためには常に水を知り、風、雨を知り、実りの善悪を知り、日照りを知り、
民の憂いと喜びを知り、
罪の有無と軽重、功績の有無などをよく知って、
賞罰の道を明らかにする。
このように民の心を知って、
与えなければならないものは時をはかって与え、
取るべきものはよく量って取り、
民の利を奪わないよう、
よく税を軽くして民を安らかにする。
王は力と権威によって民を守り、
このようにして
民の心になって民をよく見守るものが王と呼ばれる。
五、この世の中の王を転輪王(てんりんおう)というが、
転輪王とはその家系が正しく、
身分が尊くてよく四辺を統御し、
また教えを守るところの王である。
この王のゆくところには、
戦いもなく恨みもなく、
よく教えによって徳をしき、
民を安らかにして邪と悪を下す。
また転輪王は、
殺さず、盗まず、
よこしまな愛欲を犯さず、
偽り、悪口、二枚舌、むだ口を言わず、
貪(むさぼ)らず、瞋(いか)らず、愚かでない。
この十善を行って民の十悪を去らせる。
また、教えによって政治を正すから、
天下において思いのままになすことができ、
そのゆくところには戦いがなく、
恨みもなく、互いに相犯すこともない。
したがって、
民は和(やわ)らぎ、国は安らいで、
民にいよいよその生を楽しませることができる。
だから
教えを守る王といわれるのである。
また転輪王は、王の中の王でであるから、
もろもろの王はみなその徳を喜び、その教えに従って各々その国を治める。
このように転輪王は、
もろもろの王をして各々その国を安んじさせ、
正しい教えの下に王の任を果たさせる。
六、また王は罪を裁決するにも、
慈悲の心をもととしなければならない。
明らかな智慧をもってよく観察し、
五つの原則をもってよく処置しなければならない。
五つの原則というのは、
一つには、実によって不実によらない。
これは、事実を調べて、その事実によって処断することである。
二つには、時(じ)によって非時(ひじ)によらない。
これは、王に力がある時が時であり、ないときが非時である。
力のあるときには罰しても効果があるが、
力のない時には罰しても混乱があるだけであるから、
時を待たなければならない。
三つには、動機によって結果によらない。
これは、罪を犯すものの心に立ち入って、
それが故意であるか故意でないかを見きわめ、
故意でなければ許すのをいう。
四つには、親切なことばによってあらいことばによらない。
これは、罪が規則のどれに当たるかを明らかにして罪以上の罰を与えないようにし、
また柔らかい優しいことばで諭してその罪を覚(さと)らせるのをいう。
五つには、慈悲の心によって瞋(いか)りの心によらない。
罪を憎んで人を憎まず、慈悲の心をもととして、
罪を犯したものにその罪を悔いあらためさせるように仕向けるのである。
七、もし王の重臣であって国家の大計を思わず、
ただ自分の利ばかりを求め、
賄賂を取って政道を曲げ、
人民の気風を頽廃(たいはい)させるならば、
人民は互いに相欺(あざむ)くようになり、
強い者は弱い者をしいたげ、
貴い者は卑しい者を軽んじ、
富んだ者は貧しい者を欺き、
曲がった道理をもって正しいものを曲げることになるから、
災いがいよいよ増長するようになる。
すると忠実な重臣は隠れ退き、
心あるものも危害を恐れて沈黙し、
ただへつらう者だけが政権をとって、
みだりに公権を用いて私腹を肥やし、
民の貧しさは少しも救われないようになる。
このようになると、
政令は行われなくなり、
政道はまったくゆるんでしまう。
このような悪人こそ、
民の幸福を奪う盗賊であるから、
国家のもっとも大きな悪賊といわなければならない。
なぜなら、
上を欺き下を乱して、一国の災いの源となるからである。
王はこのような者を、
もっとも厳しく処罰しなければならない。
また教えによって政治をしく王の国において、
父母の生育の恩を思わず、妻子にだけ心を傾けて父母を養わず、
あるいはまた、父母の所有を奪ってその教えに従わないものは、
これをもっとも大きな悪の中に数えなければならない。
なぜなら、
父母の恩はまことに重くて、
一生心を尽くして孝養しても、し尽くせないものだからである。
主君に対して忠でなく、
親に対して孝でない者は、
もっとも重い罪人として処罰しなければならない。
また教えによって政治をしく王の国の中においては、
仏と教えと教団の三宝に対して信ずる心がなく、
寺を壊し経を焼き、僧侶を捕らえて駆使するなど仏の教えを破る行いをする者は、
もっとも重い罪の者である。
なぜなら、これは
すべての善行のもとである民の信念を覆(くつがえ)すものだからである。
これらの者は、みなすべての善根を焼き尽くして、自ら自分の穴を掘るものである。
この三種の罪がもっとも重く、
したがってもっとも厳しく処罰しなければならない。
その他の罪は、これに比べると、なお軽いといわなければならない。
八、正しい教えを守る王に対して逆らう賊が起こるか、
あるいは外国から攻め侵すものがあるときは、
正しい教えの王は三種の思いを持たなければならない。
それは、
第一には、逆賊または外敵は、
ただ人を損ない人民を虐(しいた)げることばかりを考えている。
自分は武力をもって民の苦しみを救おう。
第二には、もし方法があるなら、
刃(やいば)を動かさないで、逆賊や外敵を平らげよう。
第三には、敵をできるだけ生け捕りにして、
殺さないようにし、
そしてその武力をそごう。
王はこの三つの心を起こして、それから後に部署を定め訓令を与えて戦いにつかせる。
このようにするとき、
兵はおのずから王の威徳をおそれ敬ってよくその恩になずき、
また戦いの性質をさとって王を助け、
そして王の慈悲が後顧(こうこ)の憂いをなくすことを喜びながら、
王の恩に報いるために戦い従うから、
その戦いはついに勝利を得るだけでなく、
戦いもかえって功徳となるであろう。