拈華微笑 南無父母不二佛

何でも仏教徒として思いついたことを書きます

仏教聖典第237版なかま第二章 生活の指針

第二章 生活の指針


第一節 家庭のしあわせ


一、災いが内からわくことを知らず、東や西の方角から来るように思うのは愚かである。
内を修めないで外を守ろうとするのは誤りである。
 朝早く起き出て口をすすぎ、顔を洗い、東西南北、上下の六方を拝んで、災いの出口を守り、その日一日の安全を願うのは、世の人のするところである。
 しかし、仏の教えにおいては、これと異なり、正しい真理の六方に向かって尊敬を払い、賢明に徳を行って、災いを防ぐ。
 この六方を守るには、まず四つの行いの垢(あか)を去り、四つの悪い心をとどめ、家や財産を傾ける六つの口をふさがなければならない。
 この四つの行いの垢とは、殺生(せっしょう)と盗みとよこしまな愛欲と偽りであり、
四つの悪い心とは、貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさと恐れとである。
家や財産を傾ける六つの口とは、酒を飲んでふまじめになること、夜ふかしして遊びまわること、音楽や芝居におぼれること、賭博(とばく)にふけること、悪い友達に交わること、それに業務を怠ることである。
 この四つの行いの垢を去り、四つの悪の心をとどめ、家や財産を傾ける六つの口をふさいで、それからまことの六方を拝むのである。
 このまことの六方とは何かというと、東は親子の道、南は師弟の道、西は夫婦の道、北は友人の道、下は主従の道、そして上は教えを信ずる者としての道である。
 まず、東の親子の道を守るというのは、子は父母に対して五つのことをする。
父母に仕え、家業の手伝いをし、家系を尊重し、遺産を守り、父母の死後はねんごろに供養することである。
 これに対して、親は子に五つのことをする。
悪をとどめ、善をすすめ、教育を施し、婚姻をさせ、よい時に家を相続させることである。互いにこの五つを守れば、家庭は平和であり、波風が立たない。
 次に南の師弟の道とは、弟子は師に対し、座を立って迎え、よく仕え、素直に命(めい)を守り、供養を怠らず、慎んで教えを受ける。
 それと同時に、師はまた弟子に対して、自ら身を正しくして弟子を正し、自ら学び得たところをすべて正しく授け、正しく説いて正しく教え、引き立てて名を表わすようにし、何ごとについても守護を忘れないようにする。
こうして師弟の間が守られて平和になる。
 次に西方の夫婦の間は、夫は妻に対し、尊敬と、礼節と、貞操とをもって向かい、家政をまかせ、ときどきは飾りを与える。
妻は夫に対し、家政をととのえ、使用人たちを適切に使い、貞操を守り、夫の収入を浪費せず、家政をうまく行うようにする。
これによって夫婦の間はむつまじく、争いは起こらない。
 次に北方の友人の道は、相手の足らないものを施し、優しいことばで語り、利益をはかってやり、常に相手を思いやる。
 また友人が悪い方へ流れ落ちないように守り、万一そのような場合にはその財産を守ってやり、また心配のあるときには相談相手になり、不幸のときは助けの手をのばし、必要の場合にはその妻子を養うこともする。
このようにして友人の間は美しく守られ、互いに幸せが得られる。
 次に下方の主従の道とは、主人は使用人に対して、次の五つを守る。
その力に応じて仕事をさせる。
よい給与を与える。
病気のときは親切に看病する。
珍しいものは分かち与える。
ときどき休養させる。
 これに対し使用人は、主人に向かって五つの心得をもって仕える。
朝は主人よりも早く起き、夜は主人よりも遅く眠る。
何ごとにも正直を守り、仕事にはよく熟練する。
そして主人の名誉を傷つけないよう心がける。
こうして主従の間にもつれがなくなり、常に平和が保たれてれゆく。
 教えを信ずる者としての道というのは、どんな家庭であっても、仏の教えが入っていなければならない。
そしてこの教えを受ける人として、師に対し、身(からだ)も口も意(こころ)もともになさけに満ち、ていねいに師を迎え、その教えを聞いて守り、供養をしなければならない。
 これに対して、仏の教えを説く師は、よく教えを理解し、悪を遠ざけ、善をすすめ、道を説き、人をして平安の境地に入らせるようにしなければならない。
このようにして、家庭は中心となる教養を保って成長してゆく。
 六方を拝むというのは、このように、六方の方角を拝んで災いを避けようとすることではない。
人としての六方を守って、内からわいてくる災いを、自ら防ぎとめることである。


二、人は親しむべき友と、親しむべきでない友とを、見分けなければならない。
 親しむべきでない友とは、貪(むさぼ)りの深い人、ことばの巧みな人、へつらう人、浪費する人である。
 親しむべき友とは、ほんとうに助けになる人、苦楽をともにする人、忠言を惜しまない人、同情心の深い人である。
 ふまじめにならないよう注意を与え、陰に回って心配をし、災難にあったときには慰め、必要なときに助力を惜しまず、秘密をあばかず、常に正しい方へ導いてくれる人は、親しみ仕えるべき友である。
 自らこのような友を得ることは容易ではないが、また、自分もこのような友になるように心がけなければならない。
よい人は、その正しい行いゆえに、世間において、太陽のように輝く。


三、父母の大恩は、どのように努めても報いきれない。
例えば百年の間、右の肩に父をのせ、左の肩に母をのせて歩いても、報いることはできない。
 また、百年の間、日夜に香水で、父母の体を洗いさすり、あらゆる孝養を尽くしても、または父母を王者の位に昇らせるほどに、努め励んで、父母をして栄華を得させても、なおこの大恩に報いきることはできない。
 しかし、もし父母を導いて仏の教えを信じさせ、誤った道を捨てて正しい道にかえらせ、貪(むさぼ)りを捨てて施しを喜ぶようにすることができれば、はじめてその大恩に報いることができるのである。
あるいはむしろ、それ以上であるとさえいえよう。
 父母を喜び敬うものの家は、仏や神の宿る家である。


四、家庭は心と心がもっとも近く触れあって住むところであるから、むつみあえば花園のように美しいが、もし心と心の調和を失うと、激しい波風を起こして、破滅をもたらすのである。
 この場合、他人のことは言わず、まず自らの心を守ってふむべき道を正しくふんでいなければならない。


五、昔、ひとりの信仰厚い青年がいた。
父親が死んで、母親とともに親ひとり子ひとりの親しい生活を送っていたが、新たに嫁を迎えて三人の暮らしとなった。
 初めは互いにむつみあい、平和な美しい家庭であったが、ふとしたことから姑(しゅうとめ)と嫁との心持ちに行き違いが起こり、波風が立ち始めると、容易には納まらず、ついに母は、若い二人を後に、家を離れることとなった。
 母が別居すると、やがて若い嫁に男の子が生まれた。
「姑と一緒にいる間は、口やかましいので、めでたいこともなかったが、別居すると、こうしてめでたいことができた。」と、嫁が言ったという噂(うわさ)が、さびしいひとり暮らしの姑の耳に入った。
 姑は大変腹を立てて叫んだ。
「世の中には正しいことがなくなった。
母を追い出して、それでめでたいことがあるならば、世の中は逆さまだ。」
 姑は、「この上は、正しさという主張を葬り去らなければ。」とわめき立て、気違いのようになって、墓場へ出かけた。
 このことを知った神は、すぐに姑の前に現われて、ことの次第を尋ね、いろいろに諭したけれども、姑の心の角(つの)は折れない。
 神はついに
「それではおまえの気のすむように、これから憎い嫁と孫を焼き殺してやろう。
それでよいであろう。」と言った。
 この神の言葉に驚いた姑は、自分の間違っていた心の罪をわびて、嫁と孫の助命を願った。
子も嫁もまたこのときには、今までの心得違いを反省し、母を訪ねて、この墓場へ来る途中であった。
神は姑と嫁とを和解させて、平和な家庭にかえらせた。
 自ら正しさを捨てなければ、教えは永久に滅びるものではない。
教えがなくなるのは、教えそのものがなくなるのではなく、その人の心の正しさが失われるからである。
 心と心の食い違いは、まことに恐ろしい不幸をもたらすものである。
わずかの誤解も、ついには大きな災いとなる。
家庭の生活において、このことは特に注意をしなければならない。


六、人はだれでもその家計のことについては、専心に蟻(あり)のように励み、蜜蜂(みつばち)のように努めなければならない。
いたずらに他人の力をたのみ、その施しを待ってはならない。
 また努め励んで得た富は、自分ひとりのものと考えて自分ひとりのために費やしてはならない。
その幾分かは他人のためにこれを分かち、その幾分かはたくわえて不時の用にそなえ、また国家のため、社会のため、教えのために用いられることを喜ばなければならない。
 一つとして、「わがもの」というものはない。
すべてはみな、ただ因縁によって、自分にきたものであり、しばらく預かっているだけのことなのである。
だから、一つのものでも、大切にして粗末にしてはならない。


七、アーナンダ(阿難)が、ウダヤナ王の妃(きさき)、シャマヴァティーから、五百着の衣を供養されたとき、アーナンダはこれを快く受け入れた。
 王はこれを聞いて、あるいはアーナンダが貪(むさぼ)りの心から受け入れたのではあるまいかと疑った。
王はアーナンダを訪ねて聞いた。
「尊者は、五百着の衣を一度に受けてどうしますか。」
 アーナンダは答えた。
「大王よ、多くの比丘(びく)は破れた衣を着ているので、彼らにこの衣を分けてあげます。」「それでは破れた衣はどうしますか。」「破れた衣で敷布を作ります。」「古い敷布は。」「枕の袋に。」「古い枕の袋は。」「床の敷物に使います。」「古い敷物は。」「足ふきを作ります。」「古い足ふきはどうしますか。」「雑巾(ぞうきん)にします。」「古い雑巾は。」「大王よ、わたしどもはその雑巾を細々(こまごま)に裂き、泥に合わせて、家を造るとき、壁の中に入れます。」
 ものは大切に使わなければならない。
生かして使わなければならない。
これが「わがもの」でない、預かりものの用い方である。



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