仏教聖典第237版なかま第一章 人のつとめ 第一節 第二節
第一章 人のつとめ
第一節 出家の生活
一、わたしの弟子になろうとするものは家を捨て世間を捨て財を捨てなければならない。
教えのためにこれらすべてを捨てたものはわたしの相続者であり、出家とよばれる。
たとえ、わたしの衣の裾(すそ)をとって後ろに従い、わたしの足跡を踏んでいても、欲に心が乱れているならば、その人はわたしから遠い。
たとえ、姿は出家であっても、彼は教えを見ていない。
教えを見ないものはわたしを見ないからである。
たとえ、わたしから離れること何千里であっても、心が正しく静かであり、欲を離れているなら、彼はわたしのすぐそばにいる。
なぜかというと、彼は教えを見ており、教えを見るものはわたしを見るからである。
二、出家の弟子は次の四つの条件を生活の基礎としなければならない。
一つには古布をつづり合わせた衣を用いなければならない。
二つには托鉢(たくはつ)によって食を得なければならない。
三つには木の下、石の上を住みかとしなければならない。
四つには腐尿薬(ふにょうやく)のみを薬として用いなければならない。
食物を入れる容器を手にして戸ごとに食を乞うのは乞食(こつじき)の行ではあるが、それは他人に脅(おびや)かされたためでもなく、他人に誘われ欺(あざむ)かれたためでもない。
ただこの世のあらゆる苦しみを免(まぬが)れ、迷いを離れる道がここで教えられることを信じてなったのである。
このように出家していながら、しかも欲を離れず、瞋(いか)りに心を乱され、五官を守ることができないとしたら、まことにふがいないことである。
三、自ら出家であると信じ、人に問われてもわたしは出家であると答えるものは、次のように言うことができるに違いない。
「わたしは出家としてしなければならないことは必ず守る。この出家のまことをもって、わたしに施しをする人に、大きな幸(さいわ)いを得させ、同時に、わたし自身の出家した目的を果たすようにしよう。」と。
さて、出家のしなければならないことは何であるか。
慚(ざん)と愧(ぎ)をそなえ、身と口と意(こころ)による三つの行為と生活を清め、よく五官の戸口を守って、享楽に心を奪われない。
また、自分をたたえて他人をそしるということをせず、怠(なま)けて眠りにふけることがない。
夕方には静坐(せいざ)や歩行をし、夜半には右わきを下に、足と足を重ね、起きるときのことをよく考えて静かに眠り、明け方にはまた静坐したり歩行したりする。
また日常生活においてもつねに正しい心でなければならない。
静かなところを選んで座を占め、身と心とをまっすぐにし、貪(むさぼ)り、瞋(いか)り、愚かさ、眠け、心の浮つき、悔い、疑いを離れて心を清めなければならない。
このように心を統一して、すぐれた智慧を起こし、煩悩を断ち切って、ひたすらさとりに向かうのである。
四、もし出家の身でありながら、貪りを捨てず、瞋りを離れず、怨み、そねみ、うぬぼれ、たぶらかし、といった過ちを覆い隠すことをやめないなら、ちょうど両刃(もろは)の剣を衣に包んでいるようなものである。
衣を着ているから出家なのではなく、托鉢しているから出家なのではなく、経を誦(よ)んでいるから出家なのではなく、外形がただ出家であるのみ、ただそれだけのことである。
形がととのっても、煩悩をなくすことはできない。
赤子に衣を着けさせても出家とよぶことはできない。
心を正しく統一し、智慧を明らかにし、煩悩をなくして、ひたすらさとりに向かう出家本来の道を歩く者でなければ、まことの出家とは呼ばれない。
たとえ血は涸(か)れ、骨は砕けても、努力を加え、至るべきところへ至らなければならないと決心し、努め励んだならば、ついには出家の目的を果たして、清らかな行いを成しとげることができる。
五、出家の道は、また、教えを伝えることである。
すべての人びとに教えを説き、眠っている人の目を覚まさせ、邪見(じゃけん)な人の心を正しくし、身命(しんみょう)を惜しまず、広く教えをしかなければならない。
しかし、この教えを説くということは容易でないから、教えを説くことを志す者は、みな仏の衣を着、仏の座に坐り、仏の室に入って説かなければならない。
仏の衣を着るとは、柔和であって忍ぶ心を持つことである。
仏の座に坐るとは、すべてのものを空と見て、執着を持たないことである。
仏の室に入るとは、すべての人に対して大慈悲の心を抱くことである。
六、またこの教えを説こうと思う者は、次の四つのことに心をとどめなければならない。
第一にはその身の行いについて、第二にはそのことばについて、第三にはその願いについて、第四にはその大悲についてである。
第一に、教えを説く者は、忍耐の大地に住し、柔和であって荒々しくなく、すべては空*(くう)であって善悪のはからいを起こすべきものでもなく、また執着すべきものでもないと考え、ここに心のすわりを置いて、身の行いを柔らかにしなければならない。
第二には、さまざまな境遇の相手に心をくばって、権勢ある者や邪悪な生活をする者に近づかないようにし、また、異性に親しまない。
静かなところにあって心を修め、すべては因縁によって起こる道理を考えてこれを心のすわりとし、他人を侮(あなど)らず、軽んぜず、他人の過(あやま)ちを説かないようにしなければならない。
第三には、自分の心を安らかに保ち、仏に向かっては慈父の思いをなし、道を修める人に対しては師の思いをなし、すべての人びとに対しては大悲の思いを起こし、平等に教えを説かなければならない。
第四には、仏と同様に慈悲の心を最大に発揮し、道を求めることを知らない人びとには、必ず教えを聞くことができるようになってほしいと心に願い、その願いに従って努力しなければならない。
第二節 信者の道
一、仏教を信ずる者とは、三宝、すなわち、仏と教えと教団を信ずる者のことであるということは、すでに説いた。
だから、仏教を信ずる者は、仏と教えと教団に対して、破れることのない信を抱き、教えが命じている信者としての戒律を守らなければならない。
在家者としての戒とは、ものの命を取らず、盗まず、よこしまな愛欲にふけらず、偽りを言わず、酒を飲まないことである。
在家者は、この三宝に対する信と、在家者としての戒を保つとともに、他人にもこの信と戒を得させるようにしなければならない。
親戚、友人、知人の間に同信の人をつくるように努めなければならない。
そうすることによって彼らもまた仏の慈悲に浴(よく)することができる。
三宝に対する信を持ち、在家として戒を守ることは、さとりを得るためであるから、在家の愛欲の生活の中にあっても、愛着(あいぢゃく)に縛られないようにしなければならない。
父母ともついには別れなければならない。
家族ともついには離れなければならない。
この世もついには去らなければならない。
別れなければならないもの、去らなければならないものに心を縛られず、別離というもののない涅槃*に心を寄せなければならない。
二、仏の教えを聞いて、信が厚く、退くことがなければ、喜びは自然にわき起こる。
この境地に入れば、何ごとにも光を認め、喜びを見いだしてゆくことができる。
その心は清く柔らかに、常に耐え忍んで、争いを好まず、人びとを悩まさず、仏と教えと教団を思うから、喜びは自然にわきいで、光はどこにでも見いだされる。
信ずることによって仏と一体になり、我(が)という思いを離れているから、わがものを貪(むさぼ)らず、したがって、生活に恐れがなく、そしられることをいとわない。
仏の国に生まれることを信じているから死を恐れない。
教えの真実と尊さを信じているから、人びとの前に出ても、恐れることなく自分の信ずるところを言うことができる。
また慈悲を心のもととするから、すべての人に対して好ききらいの思いがなく、心が正しく清らかであるから、進んであらゆる善を修める。
また順調の時も逆境のときも信仰を増し、恥を知り、教えを敬い、言ったとおりに行い、行うとおりに言い、ことばと行いとが一致し、明らかな智慧をもってものを観(み)、心は山のように動かず、ますますさとりへの道に進むことを願う。
また、どんなできごとに出会っても、仏の心を心として人びとを導き、濁った世の中にも、汚れた人びとの間にも交わって、その人びとが善に遷(うつ)るように尽くすのである。
三、だから、だれでもまず自ら教えを聞くことを願わなければならない。
だれかが「この燃え立つ火の中へ入れば教えが得られる。」と言うなら、その火の中へ入る覚悟を持たなければならない。
世界に満ちた火の中に分け入って仏の名を聞くことは、まことにその人の救いだからである。
このようにして自ら教えを得て、広く施し、敬うべき人を敬い、仕えるべき人に仕え、深い慈悲の心をもって他人に向かわなければならない。
利己的であったり、思うままにふるまうのは、道を行う人の行ではない。
このようにして教えを聞き、教えを信じ、他人をうらやまず、他人のことばに迷うことなく、自分のするしないについて省みることが肝心であり、他人のするしないを心にかけてはならない。
何よりも自分の心を修めることが大切なのである。
仏を信じない人は、自分のことだけを思いわずらうから、心が狭く小さく、いつもこせこせと焦るのである。
しかし、仏を信ずる人は、背後の力、背後の大慈悲を信ずるから、自然に心が広く大きくなり、焦らない。
四、また、教えを聞く人は、もとよりこの身を無常なものと見、苦しみの集まるもとと見、悪の源と見るから、この身に執着しない。
しかしまた、この身を大切に養うことを怠らない。
それは楽しみを貪(むさぼ)るためではなく、道を得(え)、道を伝えるためである。
この身を守らなければ命をまっとうすることができず、命をまっとうしなければ、教えを受けて身に行うことも、また教えを広く伝えることもできない。
河を渡ろうとする者はよく筏(いかだ)を守り、旅をする人はよく馬を守るように、教えを聞く人はその身を大切に守らなければならない。
また仏を信ずる者は、着物を着るにも虚飾のためにせず、ただ羞恥(しゅうち)のためにし、寒さ暑さを防ぐためにしなければならない。
食物をとるにも楽しみのためにせず、身をささえ養って教えを受け、また説くためにしなければならない。
家に住むにも同じく、身のためにし、虚栄のためにしてはならない。
さとりの家に住み、煩悩の賊を防ぎ、誤った教えの風雨を避けるためと、思わなければならない。
すべてこのように、何ごとも身のためを思わず、他人に対してもおごる思いをせず、たださとりのため、教えのため、他人のためと思ってしなければならない。
だから、家にあって家族と一緒にいても、その心はしばらくも教えを離れない。
慈悲の心をもって家族に従っているが、手段を示して彼らに救いの道を教えるのである。
五、またこの仏教教団の在家者には、日常、父母に仕え、家族に仕え、自分に仕え、仏に仕えるいろいろな心がけがある。
すなわち、父母に仕えるときには、一切を守り養って、長く平和を得ようと思い、妻子と一緒にいるときには、愛着(あいぢゃく)の牢獄から脱しなければならないものと思わなければならない。
音楽を聞いているときには、教えの楽しみを得ようと思い、室にいるときは、賢者の境地に入って永く汚れを離れようと思わなければならない。
また、たまたま他人に施しをするときは、すべてを捨てて貪る心をなくそうと思い、集いの中にあるときには、諸仏の集いに入ろうと思い、災難にあったときには、どんなことにも動揺しない心を得ようと思わなければならない。
また仏に帰依(きえ)するときには、人びととともに大道(だいどう、たいどう)を体得(たいとく)して、道を求める心を起こそうと願い、
教え(法)に帰依しては、人びととともに深く教えの蔵に入って、海のように大きい智慧を得ようと願い、
教団(僧)に帰依しては、人びととともに大衆を導いて、すべての障碍(さわり)を除こうと願うがよい。
また、着物を着るなら、善根(ぜんごん)と慚愧(ざんぎ)を衣服とすることを忘れず、
大小便をするときは、心の貪りと瞋(いか)りと愚かさの汚れを除こうと願い、
高みに昇る道を見ては、無上の道へ昇って迷いの世界を越えようと思い、
低きに下る道を見ては、優しくへり下って奥深い教えへ入ろうと願うがよい。
また、橋を見ては、教えの橋を作って人を度(わた)そうと願い、
欲を楽しむ人を見ては、幻の生活を離れてまことのさとりを得ようと願い、
おいしい食物を得ては、節約を知り、欲を少なくして執着(しゅうぢゃく)を離れようと願い、
まずい食物を得ては、永く世間の欲を遠ざけようと願うがよい。
また夏の暑さの厳しいときには、煩悩の熱を離れて涼しいさとりの味わいを得たいと願い、冬の寒さの厳しいときには、仏の大悲(だいひ)の温(あたた)かさを願うがよい。
経を誦(よ)むときには、すべての教えを保って忘れないようにと願い、
仏を思っては、仏のようなすぐれた眼(まなこ)を得たいと願い、
夜眠るときには、身(からだ)と口と意(こころ)のはたらきを休めて心を清めようと願い、朝目覚めては、すべてをさとって、何ごとにも気のつくようになろうと願うがよい。
六、また仏教を信ずる者は、すべてのもののありのままの姿、すなわち、【空】(くう)の教えを知っているから、世の中の仕事、人間の間のいろいろのことを軽視せず、そのまま受け入れ、それをそのままさとりの道にかなうようにする。
人間の世界のことは迷いであって意味がなく、さとりの世界のことは尊い、という二つに分けることなく、世間すべてのできごとの中にさとりの道を味わうようにする。
無明(むみょう)に覆われた眼で見れば、世間は意味のない間違ったものとなるであろうが、智慧をもって明らかにながめると、そのままがさとりの世界になる。
ものに、意味のないものと意味のあるものとの二つがあるのではなく、善いものと悪いものとの二つがあるのでもない。
二つに分けるのは人のはからいである。
はからいを離れた智慧(般若*)をもって照らせば、すべてはみな尊い意味を持つものとなる。
七、仏教を信ずる者は、このようにして、仏を信じ、その信の心をもって世の中のことを尊く味わうが、またその心をもって、身をへり下らせて他人に仕える。
だから、仏教を信ずる者にはおごる心がなく、へり下る心、他人に仕える心、大地のようにすべてを載せる心、すべてに仕えていとわない心、すべての苦しみを忍ぶ心、怠(おこた)りのない心、すべての貧しい人びとに善根(ぜんごん)を施(ほどこ)す心が起こる。
このように、人びとの貧しい心を哀れみ、すべての人びとの慈母(じぼ、じも)となってその心を育てようとする心は、そのまま、すべての人びとを父母のように敬い、自分の尊い善き師として崇(あが)める心である。
だから、仏教を信ずる者に対して、たとえ、百千の人びとが怨みを起こし、敵視し、害を加えようとしても、その心のままになしとげることはできない。
例えば、どのような毒でも、大海の水を汚し損なうことができないようなものである。
八、仏教を信ずる者は、また、省みておのれの幸せを喜び、この仏を信ずる心はまったく仏の力によるものであり、仏のたまものであると感謝する。
また煩悩の泥の中には、信仰心の種はないのであるが、この泥の中に仏の慈悲が植えつけられて、仏を信ずる心となったことを、明らかに知る。
さきに説いたように、エーランダという毒樹の林に、チャンダナ【栴檀】(せんだん)香木の芽が生えるはずはなく、煩悩の胸の中に、仏を信ずる種が芽生えるはずはない。
しかも、いま現に芽生えて歓喜の花が煩悩の胸の中に開くのは、その根はそこになく、別のところにあると知られるのである。
その根は仏の胸の中にある。
仏を信ずる者も、我(が)の思いに立つときは、貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさの心から、他人をそねみ、ねたみ、にくみ、損(そこ)なったりする。
しかし仏に帰ると、いまいうような大きな仏の仕事をするようになる。
これはまことに、不可思議といわねばならない。