拈華微笑 南無父母不二佛

何でも仏教徒として思いついたことを書きます

母の大慈悲三つ子の音魂以心伝心阿吽の言霊【桃太郎】

母の大慈悲三つ子の音魂以心伝心阿吽の言霊【桃太郎】


山岡鉄舟先生が明治になって東京にコレラ菌感染症が流行して寄席や歌舞伎の興業禁止令が出たときに自宅に呼んだ落語師匠三遊亭円朝に桃太郎を語らせて「お前は舌で語って心で語っていないから話にならない。我が母は心で桃太郎を語ってくれた。舌を無くして心で桃太郎を語れるようになるまで修業せよ」と禅の公案を与えて参禅稽古をつけたおかげで円朝は当代随一の落語名人と呼ばれるに至ったのである。


「鎌倉臨済宗円覚寺派大本山円覚寺」
engakuji.or.jp/blog/32163/
2020.08.11
今日の言葉
無舌(むぜつ)
八月十日の毎日新聞を開こうとすると、一面の余録に、「三遊亭円朝」や「山岡鉄舟」の名前が目につきました。
名人といわれた円朝のエピソードを紹介していました。


「明治期に東京を襲ったコレラで興行はすべて休業に。


円朝は家中の衣類を質に入れ、困窮しているほかの落語家を援助した。


「大師匠の情に一同感泣した」」


と書かれていました。


余録にも、「いまのコロナ禍に響くエピソードだ」と評しています。


この話は私も存じ上げませんでした。


余録では、円朝が、「牡丹燈籠(ぼたんどうろう)」や「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」といった長編の怪談噺(ばなし)を創作自演されたことにも触れています。


亡くなった桂歌丸師匠が、このような長編を演じておられました。


更に、余録では、


「その円朝に大きな影響を与えたのが全生庵を建立した山岡鉄舟。


舌ではなく心で語らなければ噺は死ぬと説いた。


やがて円朝は「無舌(むぜつ)の悟り」を開き、京都・天竜寺の滴水禅師から「無舌居士」の号を得た。墓石にも刻まれる」


と簡潔に鉄舟居士とのご縁を書いてくれていました。


私も毎年全生庵に法話に出向いており、いつも法話の前に鉄舟居士のお墓にお参りしています。その傍らに円朝のお墓もあるのです。


もう少し、鉄舟居士とのご縁について書いてみましょう。


円朝は、鉄舟居士より三歳年下で、天保十年(一八三九)の生まれです。


七歳で寄席に初出演しました。


安政二年(一八五五)、隆盛する柳派に対して衰微しつつある三遊派の再興を誓って、名を円朝と改めました。


一時期は、鳴り物を遣って芝居の雰囲気を演出する「鳴り物入り道具噺」を始めて大いに人気を集めました。


明治に入ってからの円朝は、道具を弟子に譲ってしまい、扇子一本による「素噺」に転向しました。


明治九年には、「朝野新聞」に「三遊亭円朝伝」が掲載されるほど、貫禄十分の第一人者となりました。


その翌年明治十年に、鉄舟居士と出会うことになりました。まだ三十九歳のときであります。鉄舟居士は、四十二歳でした。(年齢は数え年)


円朝は、十代の頃に既に、異父兄が住持していた禅寺で、坐禅の経験もあったようです。


明治十年、贔屓を受けていた陸奥宗光のご縁で、その父である伊達自得居士の禅の講義を聴かれました。


そこで高橋泥舟と出会い、泥舟の紹介で鉄舟に出会ったのでした。


鉄舟居士はある時、三遊亭円朝を招いて、


「わたしは子供の時分、母から桃太郎の話を聞いて非常に面白く感じた。


今日は桃太郎を一席語ってくれ」と要望しました。


そこで円朝は、得意の弁舌で桃太郎を話しましたが、


鉄舟居士は「お前は舌で語るから肝心の桃太郎が死んでしまっている」と言いました


円朝もさすがで、世の中の人が自分の落語にやんやと騒いでくれるにもかかわらず、どうにも物足りない気がしてならない思いを抱いていました。


そこで、ある日鉄舟居士の屋敷に赴き、事細かに実情を明かし、


「わたくしごとき者にでも、できることであるのならば、禅をやりたく存じます」と言いました。


鉄舟居士は


「今の芸人は、人が喝采さえすれば、すぐにうぬぼれて名人気取りになるが、


昔の人は自分の芸を始終自分の本心に問い掛けて修行したものだ。


しかし、いくら修行しても、噺家であれば、その舌をなくさない限り本心は満足しない。


役者であれば、その身をなくさない限り本心は満足しないものだ。


そしてその舌や身をなくす法は、禅をおいてほかにはない。


だからこそ昔の諸道の名人は皆禅に入っている。


その禅をやるには智恵も学問もいらない。ただ根気さえあればよいのだ」


と言って聞かせたのでした。


そこで円朝は、謙虚に参禅を願いました。


鉄舟居士は、趙州無字の公案を授けて工夫させました。


それから二年間、円朝は辛苦を重ね、ひとたび「無字」の境地に至ると、大急ぎで鉄舟居士のもとを訪ねて桃太郎か語りました。


すると鉄舟居士は、


「うむ、今日の桃太郎は生きているぞ」と言葉をかけたのでした。


その後、滴水老師と鉄舟居士とが相談して、「無舌居士」の号が付与されることとなりました。


そのことがあって円朝が門弟に稽古させる時は、専ら桃太郎の話をさせたというのです。


以上は『最後のサムライ 山岡鉄舟』(教育評論社)を参考にさせていただきました。


はじめから「舌無し」で、好き勝手にしゃべっていたのでは、何にもなりません。


先日小欄で、「一字の重さ」という題で、「終に」という一字について書きましたが、稽古に稽古を重ねた末に、「終に」「舌無し」に到るのです。


大拙居士の言葉で表現すれば、「無功用」になるのです。


余録の最後には、


「あす11日は円朝忌。今年は没後120年となる。


舌先ばかりで、舌の根の乾かぬうちに政策がコロコロ変わる昨今の風潮だ。


振り回される国民はたまったものではない。


それこそ無舌の境地で、心で語る政治は期待できないものか」


と締めくくられています。


厳しい暑さが続きますが、爽快な思いにしてくれる文章でありました。


横田南嶺


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“コロリ ” 対策も「手洗い」「換気」が重要だった:幕末から明治にかけてのコレラ大流行と予防法
nippon.com/ja/japan-topics/g00854/
開国時期と重なったコレラのまん延
日本では6世紀に天然痘(疱瘡)が大流行し、その後も度々感染が広がり、はしかの流行も発生した。しかし、ペストや黄熱病などが引き起こしたような感染症のパンデミック(世界的大流行)には、19世紀まで巻き込まれていない。極東の島国で最初に猛威を振るったのが、江戸時代後期のコレラである。


コレラはガンジス川流域の風土病であったが、英国がインドを植民地支配し、アジアでの貿易を展開していた19世紀前半から全世界に広がっている。激しい下痢と嘔吐を繰り返し、脱水症状によって死に至るコレラが、日本で最初に流行したのは文政5(1822)年。中国(清、しん)経由で沖縄、九州に上陸したと考えられている。本州に渡り、西日本で大きな被害を出した後、東海道沿いを東進したが、江戸には至らなかった。


100万人以上が暮らす世界最多の都市人口だった江戸の町に、コレラの脅威が及んだのは安政5(1858)年。感染源はペリー艦隊に属していた米国艦船ミシシッピー号で、中国を経由して長崎に入った際、乗員にコレラ患者が出たと伝わる。この年に、日米修好通商条約を含む5カ国との不平等条約が結ばれ、鎖国政策を続けて来た日本では国民に不安が広がっていた。外国から伝来した感染症の流行が重なり、大きな恐怖心を生んだことが想像できる。


江戸の死者数は約10万人とも、28万人や30万人に上ったとも記録が残り、本サイトでもおなじみの浮世絵師・歌川広重も命を落とした。コレラは当時の物流の中核だった廻船(かいせん)によって、東北などの港町にも運ばれた。江戸の死者数のピークが安政5年だったために流行年とされるが、翌年の被害の方が甚大だった地域も多い。


3度目の大流行は文久2(1862)年。江戸時代の流行では最も多くの犠牲者を出したというが、知識人や文化人が多く住む江戸での被害が大きかった安政のコレラの方が史実として有名だ。


*火葬し切れないほど山積みの棺おけを描いた『安政箇労痢(ころり)流行記』(国立公文書館所蔵)の口絵「荼毘室(やきば)混雑の図」
https://www.nippon.com/ja/ncommon/contents/japan-topics/193195/193195.jpg


江戸時代は「コロリ」と恐れられた「コレラ」
「コレラ」という病名は、安政5年の江戸や文久2年の長崎の史料に記載が残る。しかし、庶民には浸透しておらず、各地方でいろいろな名前で呼ばれた。長崎では「トンコロリン」、他の地域には「鉄砲」「見急」「三日コロリ」などがあったが、頓死を意味する「コロリ」という呼称が定着する。くしくも「コロナ」とは一文字違いである。


漢字の当て字もさまざまだ。金屯道人(仮名垣魯文)が編さんし、安政5年に刊行したのは『安政箇労痢流行記』。まるでキツネやタヌキに化かされたように急死するために「狐狼狸」と書いたり、千里を駆ける虎のように瞬く間に伝染していくことから「虎狼痢」という字を当てたりした。高名な蘭学者・緒方洪庵がまとめたコレラの治療手引書に『虎狼痢治準』(安政5年刊)があり、後に病名が「虎列剌(コレラ)」として浸透したので、「虎」の字は猛威を伝えるのにふさわしかったのだろう。


*『虎狼痢治準』(国会図書館所蔵)は、緒方洪庵が3冊の洋医学書から治療法を抜粋したもの
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明治19(1886)年の錦絵『虎列刺退治』は、日本国民の恐怖心をよく表現している。コレラは、虎の頭部に狼の胴体、狸の巨大な睾丸(こうがん)を持つ、奇怪な動物として描かれた。「狐狼狸」と「虎狼痢」が混ざった、妖怪「虎狼狸(コロリ)」である。


*『虎列刺退治』(東京都公文書館所蔵)。「虎列刺の奇薬」として、梅酢の効果を紹介している
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日本に衛生観念を植え付けたコレラ
コレラの流行まで、日本国内に医学的な感染症対策はほとんどなかった。加持祈禱(かじきとう)に頼り、疫病退散のお札を戸口に貼って家に閉じこもったり、病気を追い払おうと太鼓や鐘を打ち鳴らしたりしたという。


緒方洪庵や長崎のオランダ医師ポンペの治療法が一定の効果をみせたこともあり、江戸幕府は文久2年に洋書調所に命じて『疫毒預防説(えきどくよぼうせつ)』を刊行させた。オランダ医師のフロインコプスが記した『衛生全書』の抄訳本で、「身体と衣服を清潔に保つ」「室内の空気循環をよくする」「適度な運動と節度ある食生活」などを推奨している。


*幕臣・宮崎成身が残した雑録『視聴草(続8集の3)』にとじられていた『疫毒預防説』(国立公文書館所蔵)。杉田玄端(げんたん)や箕作阮甫(みつくり・げんぽ)らが訳著者を務めた
https://www.nippon.com/ja/ncommon/contents/japan-topics/192925/192925.jpg


明治期にもコレラ感染が度々発生し、特に明治12(1879)年と19年には死者10万人を超える大流行となった。その頃には『疫毒預防説』の予防法に加え、コレラは水による感染が多く、夏に活発となることから「井戸水をむやみに飲まない」「換気によって部屋を乾燥させる」「生ものや傷んだものを食べない」といった、より具体的な対策が広まっている。


内務卿・大久保利通が通達した明治10年の「虎列刺病豫防(よぼう)心得書」は、石炭酸(フェノール)による消毒や便所・下水溝の清掃などの予防対策を記載している。第13条では、「『虎列刺』病者アル家族」で看護に当たる者以外は、他家に避難させて「妄(みだ)リニ往来」することを許さずとある。


「伝染病は公衆衛生の母である」といわれるように、日本ではコレラ流行によって衛生観念が一気に高まった。現代の新型コロナウイルスとは病気の特性や医療体制、社会環境が大きく違うが、当然ながら予防対策には多くの共通点がある。幕末・明治前期の人々は風聞に惑わされながらも、身辺を清めて換気をし、外出を控えるなどの努力をして、感染の流行が過ぎ去るまで耐え忍ぶしかなかった。情報や予防グッズがそろう現代人に求められるのは、正しく恐れ、正しく対策することだろう。


*「虎列刺病豫防心得書」(国会図書館所蔵)の第13条が記載してあるページ。患者が回復か死亡した後、家族は家中を消毒してからも、10日たつまでは学校に入ることを禁じられた
https://www.nippon.com/ja/ncommon/contents/japan-topics/193217/193217.jpg
バナー写真:『虎列刺退治』(東京都公文書館所蔵、請求番号「お 114」)

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