写経仏教聖典第237版なかま
「仏教聖典_なかま_第一章、人のつとめ_
第一節、出家の生活」
・・p196~(パーリ-本事經一〇〇・中部一-三、法嗣經、パーリ、本事經九二、律蔵大品一-三〇、中部四ー三九・四〇馬邑大小經、法華経第一九法師品、法華経第一四安楽行品)
一、わたしの弟子になろうとするものは家を捨て世間を捨て財を捨てなければならない。
教えのためにこれらすべてを捨てたものはわたしの相続者であり、出家とよばれる。
たとえ、わたしの衣の裾をとって後ろに従い、わたしの足跡を踏んでいても、
欲に心が乱れているならば、その人はわたしから遠い。
たとえ、姿は出家であっても、彼は教えを見ていない。
教えを見ない者はわたしを見ないからである。
たとえ、わたしから離れること何千里であっても、
心が正しく静かであり、
欲を離れているなら、
彼はわたしのすぐそばにいる。
なぜかというと、彼は教えを見ており、
教えを見る者はわたしを見るからである。
二、出家の弟子は次の四つの条件を生活の基礎としなければならない。
一つには古布をつづり合わせた衣を用いなければならない。
二つには托鉢によって食を得なければならない。
三つには木の下、石の上を住みかととしなければならない。
四つには腐尿薬のみを薬として用いなければならない。
食物を入れる容器を手にして戸ごとに食を乞うのは乞食(こつじき)の行であるが、
それは他人に脅かされたためでもなく、
他人に誘われ欺かれたためでもない。
ただこの世のあらゆる苦しみを免れ、
迷いを離れる道がここで教えられることを信じてなったのである。
このように出家していながら、
しかも欲を離れず、
瞋(いか)りに心を乱され、
五官を守ることができないとしたら、
まことにふがいないことである。
三、自ら出家であると信じ、
人に問われてもわたしは出家であると答える者は、
次のように言うことができるに違いない。
「わたしは出家としてしなければならないことは必ず守る。
この出家のまことをもって、
わたしに施しをする人に、大きな幸いを得させ、
同時に、
わたし自身の出家した目的を果たすようにしよう。」
さて、
出家のしなければならないこととは何であるか。
慚(ざん)と愧(ぎ)をそなえ、
身と口と意(こころ)による三つの行為と生活を清め、
よく五官の戸口を守って、
享楽に心を奪われない。
また、
自分をたたえて他人をそしるということをせず、
怠けて眠りにふけることがない。
夕方には静座や歩行をし、
夜半には右わきを下に、
足と足とを重ね、
起きるときのことをよく考えて静かに眠り、
明け方にはまた
静座したり歩行したりする。
また
日常生活においても
つねに正しい心でなければならない。
静かなところを選んで座を占め、
身と心とをまっすぐにし、
貪り、
瞋(いか)り、
愚かさ、
眠け、
心の浮わつき、
悔い、
疑いを
離れて
心を清めなければならない。
このように心を統一して、
すぐれた智慧を起こし、
煩悩を断ち切って、
ひたすらさとりに向かうのである。
四、もし
出家の身でありながら、
貪りを捨てず、
瞋りを離れず、
怨み、
そねみ、
うぬぼれ、
たぶらかし、
といった
過ちを覆い隠すことをやめないなら、
ちょうど両刃(もろば)の剣を
衣に包んでいるようなものである。
衣を着ているから出家なのではなく、
托鉢しているから出家なのではなく、
経を誦(よ)んでいるから出家なのではなく、
外形がただ出家であるのみ、
ただそれだけのことである。
形がととのっても、
煩悩をなくすことはできない。
赤子に衣を着けさせても
出家とよぶことはできない。
心を正しく統一し、
智慧を明らかにし、
煩悩をなくして、
ひたすらさとりに向かう
出家本来の道を歩く者でなければ、
まことの出家とはよばれない。
たとえ血は涸れ、
骨は砕けても、
努力を加え、
至るべきところへ至らなければならないと決心し、
努め励んだならば、
ついには出家の目的を果たして、
清らかな行いを成しとげることができる。
五、また、
出家の道は、
教えを伝えることである。す
べての人びとに教えを説き、
眠っている人の目を覚まさせ、
邪見(じゃけん)な人の心を正しくし、
身命(しんみょう)を惜しまず、
広く教えを布(し)かなければならない。
しかし、この
教えを説くということは
容易でないから、
教えを説くことを志す者は、みな
仏の衣を着、
仏の座に坐り、
仏の室に入って
説かなければならない。
仏の衣を着るとは、
柔和であって
忍ぶ心を持つことである。
仏の座に坐るということは、
すべてのものを空(くう)と見て、
執着を持たないことである。
仏の室に入るとは、
すべての人に対して
大慈悲の心を抱くことである。
六、またこの
教えを説こうと思う者は、
次の四つのことに心をとどめなければならない。
第一にはその身の行いについて、
第二にはそのことばについて、
第三にはその願いについて、
第四にはその大悲についてである。
第一に、教えを説く者は、
忍耐の大地に住し、
柔和であって荒々しくなく、
すべては空(くう)であって
善悪のはからいを起こすべきものでもなく、また
執着すべきものでもないと考え、ここに
心のすわりを置いて、
身の行いを柔らかにしなければならない。
第二には、
さまざまな境遇の相手に
心をくばって、
権勢あるものや邪悪な生活をする者に
近づかないようにし、また
異性に親しまない。
静かなところにあって
心を修め、
すべては因縁によって起こる
道理を考えてこれを
心のすわりとし、
他人を
侮らず、
軽んぜず、
他人の
過ちを
説かないようにしなければならない。
第三には、自分の
心を安らかに保ち、仏に向かっては
慈父の思いをなし、道を修める人に対しては
師の思いをなし、すべての人びとに対しては
大悲の思いを起こし、
平等に教えを
説かなければならない。
第四には、仏と同様に
慈悲の心を最大に発揮し、道を求めることを知らない人びとには、
必ず教えを聞くことが
できるようになってほしいと心に願い、その
願いに従って
努力しなければならない。
第二節 信者の道
一、パーリ、相応部五五-三七・増支部三-七五
仏教を信ずる者とは、
三宝、すなわち、
仏*と
教え*と
教団*を
信ずる者のことであるということは、すでに説いた。
だから、
仏教を信ずるものは、
仏と教えと教団に対して、破れることのない
信を抱き、教えが命じている
信者としての
戒律を守らなければならない。
在家者としての
戒とは、
ものの命を取らず、
盗まず、
よこしまな愛欲にふけらず、
偽りを言わず、
酒を飲まないことである。
在家者はこの
三宝に対する信と、在家者としての
戒を保つとともに、他人にもこの
信と戒とを得させるようにしなければならない。
親戚、
友人、
知人の間に
同信の人をつくるように
努めなければならない。そうすることによって
彼らもまた
仏の慈悲に浴することができる。
三宝に対する
信を持ち、在家としての
戒を守ることは、さとりを得るためであるから、
在家の
愛欲の生活の中にあっても、
愛着に縛られないようにしなければならない。
父母ともついには別れなければならない。
家族ともついには離れなければならない。
この世もついには去らなければならない。
別れなければならないもの、去らなければならないものに
心を縛られず、別離というもののない
涅槃*に
心を寄せなければならない。
二、華厳経第二二、十地品
仏の教えを聞いて、
信が厚く、
退くことがなければ、
喜びは
自然にわき起こる。この境地に入れば、何ごとにも
光を認め、
喜びを
見いだしてゆくことができる。
その
心は
清く柔らかに、常に
耐え忍んで、
争いを好まず、人びとを
悩まさず、
仏と教えと教団を思うから、
喜びは自然にわきいで、
光はどこにでも見いだされる。
信ずることによって
仏と一体になり、
我(が)という思いを離れているから、わがものを
貪(むさぼ)らず、したがって、生活に
恐れがなく、
そしられることをいとわない。
仏の国に生まれることを
信じているから
死を恐れない。教えの真実と尊さを
信じているから、人びとの前に出ても、
恐れることなく自分の
信ずるところを
言うことができる。
また
慈悲を
心のもととするから、すべての人に対して
好ききらいの思いがなく、心が正しく清らかであるから、
進んであらゆる
善を修める。
また順調の時も逆境の時も
信仰を増し、
恥を知り、
教えを敬い、
言ったとおりに行い、
行うとおりに言い、
ことばと行いが一致し、
明らかな智慧*をもってものを見、
心は山のように動かず、ますます
さとりへの道に
進むことを願う。
また、どんなできごとに出会っても、
仏の心を心として
人びとを導き、濁った世の中にも、汚れた人びとの間にも
交わって、その人びとが
善にうつるように
尽くすのである。
三、大槃涅槃経
だから、だれでもまず自ら
教えを聞くことを
願わなければならない。
だれかが「この燃え立つ火の中へ入れば教えが得られる。」と言うなら、その
火の中へ入る
覚悟を持たなければならない。
世界に満ちた
火の中に分け入って
仏の名を聞くことは、まことにその人の
救いだからである。
このようにして自ら
教えを得て、
広く施し、敬うべき
人を敬い、仕えるべき
人に仕え、深い慈悲の心をもって
他人に向かわなければならない。
利己的であったり、
思うままにふるまうのは、
道を行う人の
行ではない。
このようにして教えを
聞き、教えを
信じ、他人を
うらやまず、他人のことばに
迷うことなく、自分のするしないについて
省みることが肝心であり、他人のするしないを
心にかけてはならない。
何よりも自分の
心を
修めることが大切なのである。
仏を信じない人は、
自分のことだけを
思いわずらうから、
心が狭く
小さく、いつもこせこせと
焦るのである。しかし、仏を
信ずる人は、背後の
力、背後の
大悲を
信ずるから、自然に
心が広く
大きくなり、
焦らない。
四、大槃涅槃経
また、教えを
聞く人は、もとよりこの
身を
無常*なものと
見、
苦しみの集まるもとと
見、
悪の源と
見るから、この身に
執着しない。
しかしまた、この身を大切に
養うことを
怠らない。それは楽しみを
貪るためではなく、道を
得、道を
伝えるためである。
この
身を守らなければ
命をまっとうすることができず、
命をまっとうしなければ、
教えを受けて
身に行うことも、また教えを
広く伝えることもできない。
河を
渡ろうとする者は
筏をよく守り、
旅をする人は
馬をよく守るように、
教えを聞く人はその
身を大切に
守らなければならない。
また仏を
信ずる者は、
着物を着るにも
虚飾のためにせず、ただ
羞恥のためにし、
寒さ暑さを防ぐためにしなければならない。
食物をとるにも
楽しみのためにせず、
身をささえ養って
教えを受け、または
説くためにしなければならない。
家に住むにも同じく、
身のためにし、
虚栄のためにしてはならない。
さとりの家に住み、
煩悩*の賊を防ぎ、
誤った教えの
風雨を避けるためと、
思わなければならない。
すべてこのように、何ごとも
身のためを思わず、他人に対しても
おごる思いをせず、ただ
さとりのため、
教えのため、
他人のためと思って
しなければならない。
だから、
家にあって家族と一緒にいても、その
心はしばらくも教えを
離れない。
慈悲の心をもって家族に従っているが、
手段を示して彼らに
救いの道を
教えるのである。
五、華厳経第七、浄行品
またこの
仏教教団の
在家者には、日常、
父母に仕え、
家族に仕え、
自分に仕え、
仏に仕える
いろいろな心がけがある。
すなわち、
父母に仕えるときには、一切を
守り
養って、永く平和を
得ようと思い、
妻子と一緒にいるときは、
愛着の牢獄から
脱しなければならないものと思わなければならない。
音楽を聞いているときには、教えの
楽しみを得ようと思い、
室にいるときは、賢者の
境地に入って永く汚れを
離れようと思わなければならない。
また、
たまたま他人に
施しをするときは、
すべてを捨てて
貪(むさぼ)る心をなくそうと思い、
集いの中にあるときには、
諸仏の集いに
入ろうと思い、
災難にあったときには、どんなことにも
動揺しない心を
得ようと
願わなければならない。
また仏に
帰依するときには、
人びととともに
大道を
体得して、
道を求める
心を起こそうと
願い、教えに
帰依しては、人びととともに深く教えの
蔵に入って、
海のように大きい
智慧を得ようと願い、
教団に
帰依しては、人びととともに
大衆を
導いて、すべての障害を
除こうと願うがよい。
また、着物を
着るなら
善根(ぜんごん)と
慚愧(ざんぎ)を衣服とすることを忘れず、
大小便をするときは、
心の
貪(むさぼ)りと
瞋(いか)りと
愚かさの
汚れを除こうと願い、
高みに昇る
道を見ては、
無上の道へ昇って迷いの世界を
超えようと思い、
低きに下る道を見ては、
優しくへり下って奥深い教えへ
入ろうと願うがよい。
また、橋を見ては、教えの橋を作って人を
渡そうと願い、
なげき悲しむ人を見ては、
うつり変わって常なきものを
なげく心を起こし、
欲を楽しむ人を見ては、幻の生活を
離れてまことのさとりを
得ようと願い、
おいしい食物を得ては、永く世間の欲を
遠ざけようと願うがよい。
また夏の暑さの激しいときには、煩悩の熱を
離れて
涼しいさとりの味わいを
得たいと願い、
冬の寒さの激しいときには、
仏の大悲の
温かさを願うがよい。
経を誦(よ)むときには、
すべての教えを保って
忘れないようにと願い、
仏を思っては、
仏のようなすぐれた
眼(まなこ)を得たいと願い、
夜眠るときには、
身(からだ)と口と意(こころ)のはたらきを
休めて
心を清めようと願い、
朝目覚めては、すべてを
さとって、何ごとにも
気のつくようになろうと願うがよい。
七、華厳経第二一、金剛幢菩薩十廻向品
仏教を信ずる者は、このようにして、
仏を信じ、その信の心をもって世の中のことを尊く
味わうが、またその心をもって、身をへり下らせて他人に
仕える。
だから、仏教を信ずる者には
おごる心がなく、
へりくだる心、他人に
仕える心、大地のようにすべてを
載せる心、すべてに仕えて
いとわない心、すべての苦しみを
忍ぶ心、
怠りのない心、すべての貧しい人びとに善根を
施す心が起こる。
このように、人びとの貧しい心を
哀れみ、すべての人びとの
慈母となってその心を
育てようとする心は、そのまま、すべての人びとを父母のように
敬い、自分の尊い善き師として
崇(あが)める心である。
だから、仏教を信ずる者に対して、たとえ、
百千の人びとが怨みを起こし、
敵視し、
害を加えようとしても、その心のままに
なしとげることはできない。
例えば、どのような毒でも、大海の水を汚し損なうことができないようなものである。
八、大槃涅槃経
仏教を信ずる者は、また、
省みておのれの幸せを
喜び、この仏を信ずる心はまったく
仏の力によるものであり、仏の
たまものであると
感謝する。
また煩悩の
泥の中には、信仰心の
種はないのであるが、この泥の中に仏の
慈悲が植えつけられて、仏を信ずる
心となったことを、明らかに
知る。
さきに説いたように、エーランダという毒樹の林に、チャンダナ(栴檀せんだん)香木の芽が生えるはずはなく、
煩悩の胸の中に、仏を信ずる種が芽生えるはずはない。
しかも、いま
現に芽生えて
歓喜の花が煩悩の胸の中に開くのは、その
根はそこになく、別のところにあると知られるのである。その根は
仏の胸の中にある。
仏を信ずる者も、
我(が)の思いに立つときは、
貪(むさぼ)りと瞋(いか)りと愚かさの心から、
他人をそねみ、
ねたみ、
にくみ、
損なったりする。
しかし
仏に
帰ると、いまいうような大きな仏の
仕事をするようになる。これはまことに、
不可思議といわなければならない。