おしえ_第二章人の心とありのままの姿
第一節 変わりゆくものには実体がない
一、パーリ、律蔵大品一-六
身も心も、因縁*によってできているものであるから、この身には実体はない。この身は因縁の集まりであり、だから、無常*なものである。
もしも、この身に実体があるならば、わが身は、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その思いのままになし得るはずである。
王はその国において、罰すべきを罰し、賞すべきを賞し、自分の思うとおりにすることができる。それなのに、願わないのに病み、望まないのに老い、一つとしてわが身については思うようになるものはない。
それと同じく、この心にもまた実体はない。心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。
もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その通りにできるはずであるのに、心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。
二、パーリ、相応部五六-一一
この身は永遠に変わらないものなのか、それとも無常であるのかと問うならば、誰も無常であると答えるに違いない。
無常なものは苦しみであるのか、楽しみであるのかと問うならば、生まれた者はだれでもやがて老い、病み、死ぬと気づいたとき、だれでも、苦しみであると答えるに違いない。
このように無常であってうつり変わり、苦しみであるものを、実体である、わがものである、と思うのは間違っている。
心もまた、そのように、無常であり、苦しみであり、実体ではない。
だから、この自分を組み立てている身と心や、それをとりまくものは、我(が)とかわがものとかという観念を離れたものである。
智慧*のない心が、我である、わがものであると執着するにすぎない。
身もそれをとりまくものも、縁によって生じたものであるから、変わりに変わって、しばらくもとどまることがない。
流れる水のように、また燈火(ともしび)のようにうつり変わっている。また、心の騒ぎ動くこと猿のように、しばらくの間も、静かにとどまることがない。
智慧あるものは、このように見、このように聞いて、身と心に対する執着を去らなければならない。心身ともに執着を離れたとき、さとりが得られる。
三、パーリ、増支部五-四九・四-一八五・三-一三四
この世において、どんな人にもなしとげられないことが五つある。一つには、老いゆく身でありながら、老いないということ。二つには、病む身でありながら、病まないということ。三つには、死すべき身でありながら、死なないということ。四つには、滅ぶべきものでありながら、滅びないということ。五つには、尽きるべきものでありながら、尽きないということである。
世の常の人びとは、この避け難いことにつき当たり、いたずらに苦しみ悩むのであるが、仏の教えを受けた人は、避け難いことを避け難いと知るから、このような愚かな悩みをいだくことはない。
また、この世に四つの真実がある。第一に、すべて生きとし生けるものはみな無明*から生まれること。第二に、すべて欲望の対象となるものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第三に、すべて存在するものは、無常であり、苦しみであり、うつり変わるものであること。第四に、我(が)も、わがものもない*ということである。
すべてのものは、みな無常であって、うつり変わるものであること、どのようなものにも我がないということは、仏*がこの世に出現するとしないとにかかわらず、いつも定まっているまことの道理である。
仏はこれを知り、このことをさとって、人びとを教え導く。
****用語解説*****
*因縁(hetu-pratyaya)___
因と縁とのことである。因とは結果を生じさせる直接的原因、縁とはそれを助ける外的条件である。あらゆるものは因縁によって生滅するので、このことを因縁所生などという。この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされている。世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したものであるから、注意を要する。なお縁起*という場合も同様である。
*縁起(pratityasamutpada)___
因縁生起の略である。あらゆる存在が互いに関係し合って生起することである。仏教の教えの基本となる思想である。あらゆる存在のもちつもたれつの関係を認めるから、「おかげさまで」という感謝となり、報恩という奉仕も生まれてくる。この縁起思想は、さらに哲学的な展開を遂げ、煩瑣な組織をもつに至る。転じて寺院や仏像の由来や伝説を指したり、吉凶をかつぐのに用いられるようになったりするが、因縁*同様本来の意味を忘れて逸脱していることに注意を要する。
*無常(anitya)___
あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態には止まっていないことをいう。仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する一つである。あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという四つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。生成発展も無常の一面だからである。
*智慧(般若prajna)___
普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、
正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に具えたものが”仏陀”である。
単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、
これを得てさとりの境地に達するための実践を”般若波羅密”という。
*無我(anatman)___
仏教の最も基本的な教義の一つで、「この世界のすべての存在や現象には、とらえられるべき実体はない」ということである。それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての”我(が:atman)”を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、”永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけはない”と説いたのは当然である。なお”我”は他宗教でいう霊魂にあたるといえる。
*無明(avidya)____
正しい智恵のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。その心理作用が愚痴であるという。
学派によって分析、解釈はさまざまであるが、いずれも根源的な、煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものと把えられている。
したがって、例えばあらゆる存在の因果を十二段階に説明する十二因縁説では、最初に無明があると設定しているくらいである。
生存の欲望の盲目的な意志と把えてもよいであろう。
*仏(佛陀 Buddha)____
梵語の”さとれるもの”という意味の単語を漢字に音写したものが”仏陀”で、その省略が”仏”であり、”ほとけ”とも読ませる。普通”覚者”・”正覚者”と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である”釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダルタ)”を指した。仏教の目的は、各人がこの”仏”の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が別れている。
大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、様々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧遮那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦牟尼仏といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
なお日本では、死者のことを”ほとけ”と呼ぶが、これは浄土教の”往生成仏”思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで”仏”になるという信仰に由来する。
第二節 心の構造
一、迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師が、いろいろなものを自由に現わすようなものである。
人の心の変化には限りがなく、その働きにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。
絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。仏の作る世界は、煩悩を離れて清らかであり、人の作る世界は煩悩によって汚れている。
心はたくみな絵師のように、さまざまな世界を描き出す。この世の中で心のはたらきによって作り出されないものは何一つない。心のように仏もそうであり、仏のように人びともそうである。だから、すべてのものを描き出すということにおいて、心と仏と人びとと、この三つのものに区別はない。
すべてのものは、心から起こると、仏は正しく知っている。だから、このように知る人は、真実の仏を見ることになる。
二、ところが、この心は常に恐れ悲しみ悩んでいる。すでに起こったことを恐れ、まだ起こっていないことをも恐れている。なぜなら、この心の中に無明と病的な愛着とがあるからである。
この貪りの心から迷いの世界が生まれ、迷いの世界のさまざまな因縁も、要約すれば、みな心そのものの中にある。
生も死も、ただ心から起こるのであるから、迷いの生死(しょうじ)にかかわる心が滅びると、迷いの生死は尽きる。
迷いの世界はこの心から起こり、迷いの心で見るので迷いの世界となる。心を離れて迷いの世界がないと知れば、汚れを離れてさとりを得るであろう。
このように、この世界は心に導かれ、心に引きずられ、心の支配を受けている。迷いの心によって、悩みに満ちた世間が現れる。
三、すべてのものは、みな心を先とし、心を主(あるじ)とし、心から成っている。汚れた心でものを言い、また身で行なうと、苦しみがその人に従うのは、ちょうど牽(ひ)く牛に車が従うようなものである。
しかし、もし善い心でものを言い、または身で行なうと、楽しみがその人に従うのは、ちょうど影が形に添うようなものである。悪い行ないをする人は、この世では、悪いことをしたと苦しみ、後の世では、その悪い報いを受けてますます苦しむ。善い行ないをする人は、この世において、善いことをしたと楽しみ、後の世では、その報いを受けてますます楽しむ。(第966版本「悪い行いをする人は、その悪の報いを受けて苦しみ、善い行いをする人は、その善の報いを受けて楽しむ。」)
この心が濁ると、その道は平らでなくなり、そのために倒れなければならない。また、心が清らかであるならば、その道は平らになり、安らかになる。
身と心の清らかさを楽しむものは、悪魔の網を破って仏の大地を歩むものである。心の静かな人は安らかさを得て、ますます努めて夜も昼も心を修めるであろう。
第三節 真実のすがた
一、華厳経第一六、夜摩天宮経・楞伽経
この世のすべてのものは、みな縁によって現われたものであるから、もともと差別はない。
差別を見るのは、人びとの偏見である。
大空に東西の差別がないのに、人びとは東西の差別をつけ、東だ西だと執着する。
数はもともと、一から無限の数まで、それぞれ完全な数であって、量には多少の差別はないのであるけれども、人びとは欲の心からはからって、多少の差別をつける。
もともと生もなければ滅もないのに、生死(しょうじ)の差別を見、また人間の行為それ自体には善もなければ飽くもないのに、善悪の差別を見るのが、人びとの偏見である。
仏はこの差別を離れて、世の中は空に浮かぶ雲のような、また幻のようなもので、捨てるも取るもみなむなしいことであると見、心のはからいを離れている。
二、パーリ、中部三-二二、蛇喩経・楞伽経
人ははからいから、すべてのものに執着する。
富に執着し、財に執着し、名に執着し、命に執着する。
有無、善悪、正邪、すべてのものにとらわれて迷いを重ね苦しみと悩みとを招く。
ここに、ひとりの人がいて、長い旅を続け、とあるところで大きな河を見て、こう思った。この河のこちらの岸は危ないが、向こう岸は安らかに見える。そこで筏を作り、その筏によって、向こうの岸に安らかに着くことができた。そこで「この筏は、わたしを安らかにこちらの岸へ渡してくれた。大変役に立った筏である。だから、この筏を捨てることなく、肩に担いで、行く先へ持って行こう。」と思ったのである。
このとき、この人は筏に対して、しなければならないことをしたといわれるであろうか。そうではない。
この喩えは、「正しいことさえ執着すべきではなく、捨て離れなければならない。
まして、正しくないことは、なおさら捨てなければならない。」ということを示している。
三、楞伽経
すべてのものは、来ることもなく、去ることもなく、生ずることもなく、滅することもなく、したがって得ることもなければ、失うこともない。
仏は、「すべてのものは、有無の範疇を離れているから、有にあらず、無にあらず、生ずることもなく、滅することもない。」と説く。
すなわち、すべてのものは因縁から成っていて、ものそれ自体の本性は実在性がないから、有にあらずといい、また因縁から成っているので無でもないから、無にあらずというのである。
ものの姿を見て、これに執着するのは、迷いの心を招く原因になる。もしも、ものの姿を見ても執着しないならば、はからいは起こらない。
さとりは、このまことの道理を見て、はからいの心を離れることである。
まことに世は夢のようであり、財宝もまた幻のようなものである。
絵に見える遠近と同じく、見えるけれども、あるのではない。
すべては陽炎のようなものである。
四、楞伽経
無量の因縁によって現れたものが、永久にそのまま存在すると信ずるのは、常見という誤った見方である。
また、まったくなくなると信ずるのは、断見という誤った見方である。
この断・常・有・無は、ものそのものの姿ではなく、人の執着から見た姿である。
すべてのものは、もともとこの執着の姿を離れている。
ものはすべて縁によって起こったものであるから、みなうつり変わる。
実体を持っているもののように永遠不変ではない。
うつり変わるので、幻のようであり、陽炎のようであるが、しかも、また、同時にそのままで真実である。
うつり変わるままに永遠不変なのである。
川は人にとっては川と見えるけれども、水を火と見る餓鬼にとっては、川とは見えない。
だから、川は餓鬼にとっては「ある」とはいえず、人にとっては「ない」とはいえない。
これと同じように、すべてのものは、みな「ある」ともいえず、「ない」ともいえない、幻のようなものである。
しかも、この幻のような世界を離れて、真実の世も永遠不変の世もないのであるから、この世を、仮のものと見るのも誤り、実の世と見るのも誤りである。
ところが、世の人びとは、この誤りのもとは、この世の上にあると見ているが、この世がすでに幻とすれば、幻にはからう心があって、人に誤りを生じさせるはずはない。
誤りは、この道理を知らず、仮の世と考え、実の世と考える愚かな人の心に起こる。
智慧ある人は、この道理をさとって、幻を幻と見るから、ついにこの誤りをおかすことはない。
第四節 かたよらない道
一、パーリ、律蔵大品第一-六、転法輪経・楞伽経
道を修める者として、避けなければいけない二つの偏った生活がある。
その一は、欲に負けて、欲にふける卑しい生活であり、
その二は、いたずらに自分の心身を責めさいなむ苦行の生活である。
この二つの偏った生活を生活を離れて、心眼を開き、智慧を進め、さとりに導く中道の生活がある。
この中道の生活とは何であるか。
正しい見方、(正見・・・正しい信仰)
正しい思い、(正思・・・正しい思惟)
正しいことば、(正語)
正しい行い、(正業しょうごう)
正しい生活、(正命しょうみょう)
正しい努力、(正勤しょうごん)
正しい記憶、(正念・・・正しい憶念)
正しい心の統一、(正定しょうじょう・・・正しい瞑想禅定)
この八つの正しい道である。
すべてのものは縁によって生滅するものであるから、有と無とを離れている。
愚かな者は、あるいは有と見、あるいは無と見るが、正しい智慧の見るところは、有と無とを離れている。
これが中道の正しい生活である。
二、楞伽経等・パーリ、中部二-一八、蜜丸経
一本の材木が大きな河を流れているとする。
その材木が、右左の岸に近づかず、中流にも沈まず、陸(おか)にも上らず、人にも取られず、渦にも巻き込まれず、内から腐ることもなければ、その材木はついに海に流れ入るであろう。
この材木の喩えのように、内にも外にもとらわれず、迷いを離れ、さとりにこだわらず、中流に身をまかせるのが、道を修める者の中道の見方、中道の生活である。
道を修める生活にとって大事なことは、両極端にとらわれず、常に中道を歩むことである。
すべてのものは、生ずることもなく、滅することもなく、きまった性質のないものと知ってとらわれず、自分の行っている善にもとらわれず、すべてのものに縛られてはならない。
とらわれないとは握りしめないこと、執着しないことである。
道を修める者は、死を恐れず、また、生をも願わない。
この見方、あの見方と、どのような見方のあとをも追わないのである。
人が執着の心を起こすとき、たちまち、迷いの生活が始まる。
だから、さとりへの道を歩むものは、握りしめず、取らず、とどまらないのが、とらわれのない生活である。
三、楞伽経
さとりには決まった形やものがないから、さとることはあるがさとられるものはない。
迷いがあるからさとりというのであって、迷いがなくなればさとりもなくなる。
迷いを離れてさとりはなく、さとりを離れて迷いはない。
だから、さとりのあるのはなお障(さまた)げとなる。
闇があるから照らすということがあり、闇がなくなれば照らすということもなくなる。
照らすことと照らされるものと、ともになくなってしまうのである。
まことに、道を修める者は、さとってさとりにとどまらない。
さとりのあるのはなお迷いだからである。
この境地に至れば、すべては、迷いのままにさとりであり、闇のままに光である。
すべての煩悩がそのままさとりであるところまで、さとりきらなければならない。
四、楞伽経
ものが平等であって差別のないことを空*という。
ものそれ自体の本質は、実体がなく、生ずることも、滅することもなく、それはことばでいい表すことができないから、空というのである。
すべてのものは互いに関係して成り立ち、互いにより合って存在するものであり、ひとりで成り立つものでない。
ちょうど光と影、長さと短さ、白と黒のようなもので、ものそれ自体の本質が、ただひとりであり得るものでないから「無自性(むじしょう)」という。
また、迷いのほかにさとりがなく、さとりのほかに迷いがない。
これら二つは、互いに相違するものでないから、ものには二つの相反した姿があるのではない。
五、維摩経、入不二品
人はいつも、ものの生ずることと、滅することとを見るのであるが、ものにはもともと生ずることがないのであるから、滅することもない。
このものの真実を見る眼(まなこ)を得て、ものには生滅の二つのないことを知り、
別のものではないという真理をさとるのである。
人は我があると思うから、わがものに執着する。
しかし、もともと、我がないのであるから、わがもののあるはずがない。
われとわがもののないことを知って、別のものではないという真理をさとるのである。
人は清らかさと汚れとがあると思って、この二つにこだわる。
しかし、ものにはもともと、清らかさもなければ汚れもなく、清らかさも汚れも、ともに人が心のはからいの上に作ったものにすぎない。
人は善と悪とを、もともと別なものと思い、善悪にこだわっている。
しかし、単なる善もなく、単なる悪もない。
さとりの道に入った人はこの善悪はもともと別ではないと知って、その真理をさとるのである。
人は不幸を恐れて幸福を望む。
しかし、真実の智慧をもってこの二つをながめると、不幸の状態がそのままに、幸福となることが分かる。
それだから、不幸がそのままに幸福だとさとって、
心身にまとわりついて自由を束縛する迷いも真実の自由も特別にはないと知って、
こうして、人はその真理をさとるのである。
だから、有と無といい、迷いとさとりといい、実と不実といい、正と邪といっても、
実は相反した二つのものがあるのではなく、まことの姿においては、
言うことも示すことも、識(し)ることもできない。
このことばやはからいを離れることが必要である。
人がこのようなことばやはからいを離れたとき、
真実の空をさとることができる。
六、華厳経第三四、入法界品
例えば、蓮華が清らかな高原や陸地に生えず、かえって汚い泥の中に咲くように、
迷いを離れてさとりがあるのではなく、
誤った見方や迷いから仏の種が生まれる。
あらゆる危険をおかして海の底に降りなければ、価(あたい)も知れないほどに素晴らしい宝は得られないように、
迷いの泥海の中に入らなければ、さとりの宝を得ることはできない。
山のように大きな、我(が)への執着を持つ者であって、
はじめて道を求める心も起こし、さとりもついに生ずるであろう。
だから、昔、仙人が刃(やいば)の山に登っても傷つかず、自分の身を大火の中に投げ入れても焼け死なず、すがすがしさを覚えたというように、
道を求める心があれば、名誉利欲の刃の山や、憎しみの大火の中にも、
さとりの涼しい風が吹き渡るであろう。
七、楞伽経等
仏の教えは、相反する二つを離れて、それらが別のものではないという真理をさとるのである。
もしも、相反する二つの中の一つを取って執着すれば、たとえ、それが善であっても、正であっても、誤ったものになる。
もしも、人がすべてのものはうつり変わるという考えにとらわれるならば、
これも間違った考えにおちいるものであり、
また、もしも、すべてのものは変わらないという考えにおちいるならば、
これももとより間違った考えなのである。
もしまた人が我があると執着すれば、それは誤った考えで、
常に苦しみを離れることができない。
もしも我がないと執着するならば、それも間違った考えで、
道を修めても効果がない。
また、すべてのものはただ苦しみであるととらわれれば、これも間違った考えであり、
また、すべてのものはただ楽しみだけであるといえば、これも間違った考えである。
仏の教えは中道であって、これらの二つの偏(かたよ)りから離れている。