拈華微笑 南無父母不二佛

何でも仏教徒として思いついたことを書きます

仏教聖典 おしえ 第一章

第一章 因縁


 第一節 四つの真理(四諦したい、四聖諦ししょうたい)__苦・集・滅・道


 一、パーリ、律蔵大品一-六・パーリ、相応部五六-一一-一二、転法輪経


 この人間世界は苦しみに満ちている。
生も苦しみであり、
老いも病も死もみな苦しみである。
怨みあるものと会わなければならないことも、
愛するものと別れなければならないことも、
また求めて得られないことも苦しみである。
まことに、
執着(しゅうじゃく)を離れない人生はすべて苦しみである。
これを苦しみの真理(苦諦くたい)という。


 この人生の苦しみが、
どうして起こるかというと、
それは人間の心につきまとう煩悩から起こることは疑いない。
その煩悩をつきつめてゆけば、
生まれつきそなわっている激しい欲望に根ざしていることがわかる。
このような欲望は、
生に対する激しい執着をもととしていて、
見るもの聞くものを欲しがる欲望となる。
また転じて、死をさえ願うようにもなる。
これを苦しみの原因(集諦じったい)という。


 この煩悩の根本を残りなく滅ぼし尽くし、
すべての執着を離れれば人間の苦しみもなくなる。
これを苦しみを滅ぼす真理(滅諦めつたい、めったい)という。


 この苦しみを滅ぼし尽くした境地に入るには、
八つの正しい道(八正道はっしょうどう)を修めなければならない。
八つの正しい道とは、
正しい見解、(正見・・・正しい信仰)
正しい思い、(正思・・・正しい思惟)
正しい言葉、(正語)
正しい行い、(正業しょうごう)
正しい生活、(正命しょうみょう)
正しい努力、(正勤しょうごん)
正しい記憶、(正念・・・正しい憶念)
正しい心の統一、(正定しょうじょう・・・正しい瞑想)
である。
これらの八つは欲望を滅ぼすための
正しい道の真理(道諦どうたい)といわれる。


 これらの真理を人はしっかり身につけなければならない。
というのは、この世は苦しみに満ちていて、
この苦しみから逃れようとするものは誰でも煩悩を断ち切らなければならないからである。
煩悩と苦しみのなくなった境地「涅槃寂静ねはんじゃくじょう」は、
さとりによってのみ到達し得る。
さとりはこの八つの正しい道によってのみ達し得られる。



 二、パーリ、本事經一〇三・パーリ、中部二、一切漏経


 道に志す人も、この四つの聖(とうと)い真理を知らなければならない。
これらを知らないために、長い間、迷いの道にさまよってやむときがない。
この四つの聖い真理を知る人をさとりの眼を得た人という。


 だから、よく心を一つにして仏の教えを受け、
この四つの聖い真理の道理を明らかに知らなければならない。
いつの世のどのような聖者も、
正しい聖者であるならば、
みなこの四つの聖い真理をさとった人であり、
四つの聖い真理を教える人である。


 この四つの聖い真理が明らかになったとき、
人は初めて、
欲から遠ざかり、
世間と争わず、
殺さず、
盗まず、
よこしまな愛欲を犯さず、
欺かず、
そしらず、
へつらわず、
ねたまず、
瞋(いか)らず、
人生の無常を忘れず、
道にはずれることがない。



 三、四十二章経・勝鬘経


 道を行うものは、
例えば、燈火(ともしび)をかかげて、
暗黒の部屋に入るようなものである。
闇はたちまち去り、
明るさに満たされる。


 道を学んで、
明らかにこの四つの聖い真理を知れば、
智慧の燈火を得て、無知の闇は滅びる。


 仏は単にこの四つの真理を示すことによって人びとを導くのである。
教えを正しく身に受けるものは、
この四つの聖い真理によって、
はかないこの世において、
まことのさとりを開き、
この世の人びとの守りとなり、
頼りとなる。


 それは、
この四つの聖い真理によって、
あらゆる教えに達し、
すべての道理を知る智慧と功徳をそなえ、
どんな人びとに向かっても、
自在に教えを説くことができる。



 第二節 不思議なつながり


 一、華厳経


 人びとの苦しみには原因があり、
人びとのさとりには道があるように、
すべてのものは、
みな縁(条件)によって生まれ、
縁によって滅びる。


 雨の降るのも、
風の吹くのも、
花の咲くのも、
葉の散るのも、
すべて縁によって生じ、
縁によって滅びるのである。


 この身は父母を縁として生まれ、
食物によって維持され、
また、
この心も経験と知識とによって育ったものである。


 だから、
この身も、
この心も、
縁によって成り立ち、
縁によって変わるといわなければならない。


 網の目が互いにつながりあって網を作っているように、
すべてのものは、
つながりあってできている。


 一つの網の目が、
それだけで網の目であると考えるならば、
大きな誤りである。


 網の目は、
ほかの網の目とかかわりあって、
一つの網の目といわれる。


 網の目は、
それぞれ、
他の網が成り立つために、
役立っている。



 二、華厳経


 花は咲く縁が集まって咲き、
葉は散る縁が集まって散る。
ひとり咲き、
ひとり散るのではない。


 縁によって咲き、
縁によって散るのであるから、
どんなものも、
みなうつり変わる。
ひとりで存在するものも、
常にとどまるものもない。


 すべてのものが、
縁によって生じ、
縁によって滅びるのは
永遠不変の道理である。
だから、
うつり変わり、
常にとどまらないということは、
天地の間に動くことのないまことの道理であり、
これだけは永久に変わらない。



第三節 ささえあって


 一、華厳経


 それでは、
人びとの憂い、
悲しみ、
苦しみ、
もだえは、
どうして起こるのか。
つまりそれは、
人に執着があるからである。


 富に執着し、
名誉利欲に執着し、
悦楽に執着し、
自分自身に執着する。
この執着から苦しみ悩みが生まれる。


 初めから、
この世界にはいろいろの災いがあり、
その上、
老いと病と死とを避けることができないから、
悲しみや苦しみがある。


 しかし、
それらもつきつめてみれば、
執着があるから、
悲しみや苦しみとなるのであり、
執着を離れさえすれば、
すべての悩み苦しみはあとかたもなく消えうせる。


 さらにこの執着を押しつめてみると、
人びとの心のうちに、
無明(むみょう)と
貪愛(とんあい)とが見いだされる。


 無明は
うつり変わるもののすがたに眼が開けず、
因果の道理に暗いことである。
貪愛とは、
得ることのできないものを貪(むさぼ)って、
執着し愛着することである。


 もともと、
ものに差別はないのに、
差別を認めるのは、
この無明と貪愛とのはたらきである。
もともと、
ものに良否はないのに、
良否を見るのは、
この無明と貪愛とのはたらきである。


 すべての人びとは、
常によこしまな思いを起こして、
愚かさのために正しく見ることができなくなり、
自我にとらわれて間違った行いをし、
その結果、
迷いの身を生ずることになる。


 業(ごう)を田とし心を種とし、
無明の土に覆われ、
貪愛の雨でうるおい、
自我の水をそそぎ、
よこしまな見方を増して、
この迷いを生み出している。



 二、華厳経


 だから、
結局のところ、
憂いと悲しみと苦しみと悩みのある
迷いの世界を生み出すものは、
この心である。


 迷いのこの世は、
ただこの心から現われた心の影にほかならず、
さとりの世界もまた、
この心から現われる。



 三、華厳経


 この世の中には、
三つの誤った見方がある。


もしこれらの見方に従ってゆくと、
この世のすべてのことが否定されることになる。


 一つには、
ある人は、
人間がこの世で経験するどのようなことも、
すべて運命であると主張する。


二つには、
ある人は、
それはすべて神の御業(みわざ)であるという。


三つには、
またあるひとは、
すべて因も縁もないものであるという。


 もしも、
すべてが運命によって定まっているならば、
この世においては、
善いことをするのも、
悪いことをするのも、
みな運命であり、
幸・不幸もすべて運命となって、
運命のほかには何ものも存在しないことになる。


 したがって、
人びとに、
これはしなければならない、
これはしてはならないという希望も努力もなくなり、
世の中の進歩も改良もないことになる。


 次に、
神の御業であるという説も、
最後の因も縁もないとする説も、
同じ非難が浴びせられ、
悪を離れ、
善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。


 だから、
この三つの見方はみな誤っている。


どんなことも縁によって生じ、
縁によって滅びるものである。

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