拈華微笑 南無父母不二佛

何でも仏教徒として思いついたことを書きます

棄老國は日本に無かった

仏教聖典_はげみ_第一章さとりへの道_第三節仏のたとえ_第一項_雑宝蔵経


 遠い昔、棄老国と名づける、老人を棄(す)てる国があった。


その国の人びとは、だれしも老人になると、遠い野山に棄てられるのがおきてであった。


 その国の王に仕える大臣は、いかにおきてとはいえ、年老いた父を棄てることができず、深く大地に穴を掘ってそこに家を作り、そこに隠して孝養を尽くしていた。


 ところがここに一大事が起きた。


それは神が現れて、王に向かって恐ろしい難問を投げつけたのである。


 「ここに二匹の蛇がいる。


この蛇の雄・雌を見分ければよし、もしできないならば、この国を滅ぼしてしまう。」と。


 王はもとより、宮殿にいるだれひとりとして蛇の雄・雌を見分けられる者はいなかった。


王はついに国中に布告して、見分け方を知っている者には、厚く賞を与えるであろうと告げさせた。


 かの大臣は家に帰り、ひそかに父に尋ねると、父はこう言った。


 「それは易しいことだ。


柔らかい敷物の上に、その二匹の蛇を置くがよい。


そのとき、騒がしく動くのは雄であり、動かないのが雌である。」


 大臣は父の教えのとおり王に語り、それによって蛇の雄・雌を知ることができた。


 それから神は、次々にむずかしい問題を出した。


王も家臣たちも、答えることができなかったが、大臣はひそかにその問題を父に尋ね、常に解くことができた。


その問いと答えとは次のようなものであった。


 「眠っているものに対しては覚めているといわれ、覚めているものに対しては眠っているといわれるものは誰か」


「それは、いま道を修行している人のことである。


道を知らない、眠っている人に対しては、その人は覚めているといわれる。


すでに道をさとった、覚めている人に対しては、その人は眠っているといわれる。」


 「大きな象の重さはどうして量るか。」


「象を舟に乗せ、舟が水中にどれだけ沈んだか印をしておく。


次に象を降ろして、同じ深さになるまで石を載せその石の重さを量ればよい。」


 「一すくいの水が大海の水より多いというのは、どんなことか。」


「清らかな心で一すくいの水を汲んで、父母や病人に施せば、その功徳は永久(とこしえ)に消えない。


大海の水は多いといっても、ついに尽きることがある。


これをいうのである。」


 次に神は、骨と皮ばかりにやせた、飢えた人を出して、その人にこう言わせた。


「世の中に、わたしよりもっと飢えに苦しんでいるものがあるであろうか。」


「ある。


世にもし、心がかたくなで貧しく、仏法僧の三宝を信ぜず、父母や師匠に供養をしないならば、その人の心は飢えきっているだけでなく、その報いとして、後の世には餓鬼道に落ち、長い間餓えに苦しまなければならない。」


 「ここに真四角な栴檀の板がある。


この板はどちらが根の方であったか。」


「水に浮かべてみると、根の方がいくらか深く沈む。


それによって根の方を知ることができる。」


 「ここに同じ姿・形の母子の馬がいる。


どうしてその母子を見分けるか。」


「草を与えると、母馬は、必ず子馬の方へ草を押しつけ与えるから、直ちに見分けることができる。」


 これらの難問に対する答えはことごとく神を喜ばせ、また王をも喜ばせた。


そして王は、この智慧*が、ひそかに穴蔵にかくまっていた大臣の老いた父から出たものであることを知り、それより、老人を棄てるおきてをやめて、年老いた人に孝養を尽くすようにと命ずるに至った。


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*智慧(般若はんにゃprajna)
 普通に使われている”知恵”とは区別して、わざわざ仏教では”般若”の漢訳としてこの言葉を用いているが、正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に備えたものが”仏陀”である。単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、これを得てさとりの境地に達するための実践を、”般若波羅密はんにゃはらみつ”という。

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