拈華微笑 南無父母不二佛

何でも仏教徒として思いついたことを書きます

晴れてよし曇りてもよし富士の山

晴れてよし曇りてもよし不二の山

もとの姿はかわらざりけり


山岡鉄舟高歩大居士




為せば成る為さねば成らぬほとけ道


不二の親切親に孝行


父母院不二正恩居士


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山岡鉄舟 その二(『祖国と青年』平成26年7月号掲載)


晴れていても曇っていても富士山の堂々たる姿は変わる事は無い。


晴てよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿は 変らざりけり
(明治五年十二月「朝廷に奉仕する事」)


 山岡鉄舟の残した和歌の中でもっとも有名なのがこの歌である。それは、明治五年に書いた「朝廷に奉仕する事」という文章の最後に記されている。


鉄舟は、徳川慶喜公の使者として西郷隆盛との談判に赴いた様に、徳川将軍の直参(直属の臣)だった。明治維新後も鉄舟は徳川家に随行して静岡に移り、政府から静岡藩権大参事に任命されていた。明治四年の廃藩置県後、茨城県参事や伊万里県令に任じられていたが、明治五年に、かつての同僚の勝海舟や大久保一翁から「皇国への忠心があるなら、朝廷に是非仕えて欲しい。西郷隆盛や大久保利通もその事を期待している。」との手紙を受けた。


 鉄舟は、十五歳の時に父に代わって伊勢神宮に参拝した時に、国学者の足代弘訓や勤皇の志士・藤本鉄石の教えを受け、勤皇の志を抱いていた。安政四年には清河八郎等と尊皇攘夷党を結成している。幕臣ではあったが、尊皇心に於ては誰にも負けなかった。当時の明治新政府は船出したばかりであり、廃藩置県という大改革の中で、岩倉や大久保は不平等条約改正の為に欧米に赴き、残された政府は西郷隆盛の双肩に負わされていた。


西郷はこの頃宮中の大改革を考えており、御年二十一歳の明治天皇の側近には文武両道の人物を配し、その感化によって「聖徳」に磨きをかけようと志していた。その意中の人物が山岡鉄舟だった。


 世間では、元幕臣の鉄舟が朝廷に仕える事を非難する言もあったが、鉄舟には名利の念など眼中にない。あるのは、ただ日本国への奉仕の念だけであった。自らの本質は全く変わる事はない、との信念を、富士に例えてこの様に詠んだのである。


富士山の如き鉄舟の堂々たる姿が伺われる秀歌である。







お相手が天皇陛下であればこそ、おもねる事無く至誠一貫で奉仕すべきだ。


そは、みだりに君意に迎合する佞人といはねばならぬ
(圓山牧田『鐡舟居士乃真面目』)


 明治天皇が崩御せられた時、世界中の新聞や雑誌が明治日本の栄光を書いて明治天皇の聖徳を絶賛した。それを外務省が収集して『世界に於ける明治天皇』(上・下巻)と題し二十八カ国の記事を掲載して刊行した。正に明治日本の栄光の根元は明治天皇の御聖徳にあった。


 西郷隆盛の意向を受けて、明治天皇の侍従となった鉄舟は、十年という条件を出し、実際、明治十五年六月に退任した。この間、至誠を以て明治天皇に忠義を貫き、聖徳のご涵養に尽力したのである。


 鉄舟が明治天皇を相撲で投げ飛ばしたという話があるが、真実は次の事だった。お若い明治天皇はお酒が好きで、度を超される事もしばしばあった為、鉄舟は御諫め申し上げねばならないと、日頃から思っていた。


ある晩、天皇と鉄舟ともう一人の侍従とで会食の時、ある問題での議論に詰まられた陛下は、飲酒を重ねられた勢いで鉄舟に相撲の相手を所望された。鉄舟は畏れ多いと御断り申し上げたが、天皇は様々の手段を尽して鉄舟を倒そうとされた。だが鉄舟は微動だにしない。そこで、天皇は拳を固めて鉄舟の眼を衝こうと飛びかかられた為、鉄舟は頭を少し横にかわした。天皇は前のめりに倒れて少し傷を負われ、寝殿で手当を受けられた。


その間、粛然と控えていた鉄舟に他の侍従が謝罪を勧めたが、鉄舟は「わたしの謝罪する筋ではない」と応じない。侍従は、鉄舟が倒れなかった事が悪いと責めたが、鉄舟は、「自分が倒れたなら陛下と相撲をしたことになり、道に外れる事である。又、もし故意に倒れる様な事をしたなら、それは、みだりに陛下に迎合する『佞人』といわねばならない。私の身は元より陛下に捧げ奉っているので、そのまま眼を衝かれても構わないのだが、そうすれば、陛下は後世の人から古今稀なる暴君と呼ばれる事となり、酔いから覚められた時どんなに後悔される事であろうか。私の本心を陛下に奏上して戴き、陛下が否と仰せなら私は喜んでこの場で自刃して謝罪する覚悟である。」と述べた。


天皇は、お目覚めの後に事情をお聞きになられて「自分が悪かった」と鉄舟に伝えられた。


そこで鉄舟は更に「実のある所をお示し下されたい」とお願い申しあげた。それを聞かれて天皇は、「これから先、相撲と酒とを止める」と仰せになられた。鉄舟は涙を流して感激し、漸く退出したという。







敵に随い、敵に応じて勝を生み出す。


我体を総て敵に任せ、敵の好む処に来るに随ひ勝つを真正の勝と云ふ。
(『剣法邪正弁』明治十五年一月十五日)


 山岡鉄舟は、父の教えに従って十三歳の頃から禅を始め、二十歳の時に武州芝村(現・埼玉県川口市)の長徳寺の願翁和尚に師事、願翁が京都の南禅寺に移るまで十二年間教えを受けた。その後、三島の龍沢寺の星定、京都相国寺の獨園、京都嵯峨の天竜寺の滴水、鎌倉円覚寺の洪川の各禅師に参禅した。


その様な中で、明治十三年三月三十日の払暁に大悟徹底、則ち悟りを得た。数え四十五歳の時である。


そのままの境地で剣を構えれば、それまで山の如くのしかかってきた師の浅利又七郎の幻影が現われなくなったのである。剣士鉄舟にとっての大悟とは無敵の剣術の極意に達する事を意味した。直ぐに門人を相手に試合を試みた所、相手は忽ちに剣を引いて降参した。浅利又七郎義明を招いて相手をお願いした所、「あなたは剣の極処を得られました。もはや私の遠く及ぶ所ではない」と竹刀を置き、翌年一月には、流祖伊藤一刀斎の夢想剣の極意と一刀斎自記の伝書が伝えられた。


 ここに、鉄舟は無敵の剣位まで進んだ。


 明治十五年一月、鉄舟は『剣法邪正弁』を記し「剣の極意」は、「敵の好む処に随って勝を得る所にある。」と述べている。


刀を交えれば必ず敵を打ち負かさんとする念慮が湧いてくるので、自分の身体を総て敵に任して、敵が好む所に打ってくるのに随い応じて、勝ちを得る事だと言う。鉄舟は自分の剣術を無刀流と称した。


「無刀流剣術は、勝負を争わず、心を澄ませ肝を錬り、自然の勝を得る事を要点としている。」「無刀とは何であるか。心の外に刀はないとすることである。敵と相対する時、刀によって戦うのではなく、心を以て相手の心を打つのである。それを無刀というのだ。」と述べている。


 鉄舟が求めた剣の極意は、究極の所「如何なる相手にも自然と応じ、そして心で心に勝を得る事」に他ならない。宮本武蔵の項で、「岩尾の身」や「常の心」について学んだが、それと相通じる境地である。


「心を以て相手の心を打つ」事は全ての事柄にあてはまる。人間社会に於ても正に心と心の戦いが日々繰り広げられている。如何なる相手にも動じぬ強い心、敵対する相手をも呑み込む広い心、相手をして感服せしめる深い心、これらの心を日々磨きあげて行きたいと願っている。







武士道と物質文明、本末を転倒するな。


武士道を頭脳とし、抽象科学・物質的思想を手足となし、未来の戦国社会において、仁義の軍を率いて救世軍となれ。
(口述『武士道』明治二十年)


 明治二十年、鉄舟は門人の求めに応じて「武士道」について四回にわたって講義を行った。その口述の筆録に、勝海舟の評論をお願いして一冊の書籍にまとめたものが『武士道』である。私は、昭和四十九年発行の角川選書の『武士道』(勝部真長編)を持っているが、その中の鉄舟の講話には、「武士道の要素―四恩―」「現代社会の混迷と武士道」「武士道の起こりとその発達」「明治の御代の武士道」「武士道の精華―無我の実現―」「武士道を広義に解す」「おんな武士道」と小題がつけてある。


 当時は文明開化の滔々たる流れが日本を呑み込もうとしていた時代である。鉄舟はその事に危機感を抱いていた。鉄舟も西洋文明は評価する。だが、あくまでも元となるのは日本古来の武士道でなければならない。


鉄舟は言う。「要するところ武士道の精神をもって科学的外形の手足を使用していかねばならぬということである。特に世界が今日のありさまでは、ますます武士道を引き出さなければならぬ。心と芸と両立して初めて知徳不二の大原理にかなうわけで、これが拙者の持論である武士道である。またいかなる学理を窮めても、この理は断じて動くものではない。」と。


 鉄舟が訴える西洋文明・物質文明制御の問題は今尚、日本人に突き付けられている課題である。特に大東亜戦争敗戦後の日本では、科学万能主義が主流となり、経済発展の成果によって齎された物質文明が我々の生活の隅々までを覆っている。


その様な中で、精神の価値を見出すには、意識的にストイックな生活を自らに課す必要がある。


鉄舟の日課は、午前五時に起床し、六時より九時まで剣術指南、午後零時より四時まで揮毫、夜分は午前二時まで坐禅を組むか写経をしたという。日々の生活が即修行であった。


われわれに鉄舟の様な生活を送る事は不可能だが、日々の生活の中で、又は、週や月単位の中で、心身を鍛錬し、精神を磨きあげて行く機会や時間を持つ事は出来るはずである。日本人が日本人らしくなる為には、日本の精神文化の粋が結実した武士道を自ら体現して行くより他にない。その時、武士が居なくなった明治時代に剣聖としての完成を見た「無刀流」山岡鉄舟の存在は大きな指標となるに相違ない。



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山岡鉄舟の考える武士道 http:// ikuji.g.ribbon.to/tesshuu.htm
山岡鉄舟
当HPは、武士道とは何ぞや?を考える事を目的としている。
しかし、現代人である我々がグダグダ考えても、所詮は武家文化の中にない人間の考える事。推測の域を出まい。
当HPの扱う時代は江戸中期頃としてあるが、実際武士をやってた人の意見を聞けるのであれば、これはもう幕末の人だろうが、我々が想像でモノを言うよりマシだろう。という事で、幕末の人であるが、山岡鉄舟さんの言行録の中から「四恩」を抜粋して紹介してみよう。
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山岡の武士道は、仏教の理より汲んだものである。
それも、その教理が真に人間の道を教え尽くされているからであるという。
まず、世人が人を教えるに、忠・仁・義・礼・智・信とか、節義・勇武・廉恥とか、或いは、剛勇・廉潔・慈悲・節操・礼譲など、言い様は様々であるが、これらを実践躬行する人を、一般に武士道を守る人というが、山岡もこれには同意であるとして、自分には尚、人に自信するところがあるという。
「人の、此の世の中に処するには、必ず大道を履行しなければならない。故に其の淵源を理解しなければならない。
其の道の淵源を知らんと欲せば、無我の境に入り、真理を理解し開悟せよ。
此処に於いて初めて無我の無我である事を悟るであろう。
これを覚悟すれば、恐らく四恩の鴻徳を奉謝する事に躊躇しないであろう。
これより武士道の要素であり震源である四恩の大要を物語るであろう。」

一、父母の恩
老幼男女の区別なく、各自で発現本所に立ち返ってみるがよい。
各自の体はみなこれ父母の遺体であって、しいて「我」なるものはない。
我々の体は皆総て父母の骨肉の分子である。
今もしこれを父母に返還してしまったならば、更に一物も「我」というべきもののある道理がない。
このように道理をわきまえてくれば、我が体は全部「我」のものでないという事が明瞭ではないか。
このようにしてようやく発育したのは、父母の恩愛の結合物であって、その結合物の活動するもの、すなわちこれが各自の体である。
故にその父母の恩愛の慈悲精神を除き去れば、只一つに「我」というもののあることはない。これがすなわち無我の真理ではないか。
このように論じくれば、各自が体、皮肉、支節、髪膚は今此処に一個として発現しておるも、深く其の理を窮めれば、これは皆、あげて父母身体の遺物と自覚するであろう。
各自この理を悟るならば、深く無我の理を悟り、父母の鴻恩を思えよ。実に広大無辺ではないか。
これらを悟ったならば、我が心身は常に父母の心身と覚悟し、決して他念があってはならない。これがすなわち武士道の発現である。これがすなわち転地道徳の根源である。人の大道である。
それゆえに我と父母とは別体の如くであるが、同心である。
この様にして同心一体の情をなして、共に共に現世を送るべきである。
これを名づけて父母の恩愛を奉謝するといわれている。
これをすなわち武士道と申す。

二、衆生の恩
我々の社会の状態を見られよ。
家族相寄り、僕従相集まり、互いに相愛する情により一家となり、一村、一郡、一国に及び、遂に広く東西万国に至るまで、たれか相助け、相頼むの因縁を持たないものは無い。
よくよくその相関連するところの情理を考究すれば、一人の一挙手一投足の所作も、その及ぼすところの影響は、世界東西に広がる事明瞭なる事である。
これらは既に今日の社会学などの証明するところである。
まずこのような因縁ある事を思えば、今自信と父母、親類家財を保持して、現世に安住するいわれは無始より以来、無量の一切衆生相寄り助け、共に愛護して、或いは父母となり、或いは子となってもって済世をまっとうするものである。
もし一切衆生が無いならば、例え一家であっても成立しないであろう。
親子何によって安穏を得るであろうか。
国家何によって成立することを得るであろうか。
この様にこの理を窮めくれば、兄弟・姉妹・親類・友達・僕婢・禽獣に至るまで、一切の有情(生類)は皆残らず父母の思いをなして、これに慈悲報恩の思いを忘れてはならない。
だから六道(天人、人間、畜生、阿修羅、餓鬼、地獄)の衆生は、皆これは我が父母と思わねばならぬ。
もし父母にして前生(前世)に我を教える事がなかったならば、どうして我今人間界に生を受けた善因を得る事が出来たろうか。
必ず三途に迷うて今日あるを得ず、我今父母の子となって前果福祉を持つ事を得たのは、全く前生宿善の因縁であって、これは即ち父母所生の恩、一切衆生の恩顧によっているのである。
この理を了解して常々衆生縁の慈悲をもって、一切衆生の恩顧なる事を心得て、報恩利斉の義を務めなければならぬ。

三、国王の恩
国王の恩について説明しようというについては、我ら日本人の最も耳を傾けて謹聴しなければならないところである。
然るに拙者が四恩という事を武士道の前提に説いておく事は、武士道発現の要素であるから、いずれも先ず、そのごく大要だけを示し置くのである。
鉄太郎謹んで釈尊の御説法を拝聴するに、一切の衆生「国王を以って根本と為す」事、恰もこれは殿堂の柱の様だとある。
一切衆生の善因は国王によって成立すべきものである。
もし国王の保護、恩愛がなかったならば、一切の善果は成立する事が出来ない。
況して一切の善王は前世既に菩薩の三聚浄戒を受持し給い、一切衆生を憐愛せられ給いし三世因果の功徳によって、その原因の果実として今この国王の尊報を得させ給いしものであると述べてある。
ああ、尊く畏れ多き次第ではないか。
この様な至尊の理を弁えたならば、我々如き悪世界の凡人、誰か帝王の尊厳を忘れて私利を欲しい儘にする事が出来ようか。
是非とも帝王を尊敬して報恩の誠意を尽くさねばならぬ。
況して我が本朝の如きは、畏れ多くも皇祖皇宗は遠く神代に於いて、万姓の開始であらせられ、偕に日本民族の始宗、即ち祖宗であるので、我々日本民族は元より、忠孝二途の別なくして天壌無窮の神宣を信奉して、皇運を扶翼し古往今来幾千万年億兆心を一つにして死ぬるとも二心であってはならない。
これは我が国体の精華にして、日本武士道の淵源実にここにあり、日本民族の方針実にここにあるのである。

四、三宝(仏・法・僧)の恩
扨、以上説明したとおり、父母その他一切衆生及び国王の宏恩である事は、言語上の理屈だけは幾らか承知せられた事と思う。
然るにそれら諸理屈はどこから来るか、これが大切である。
この道理を教示し給いしお方は誰であろうか。即ちそれは三宝である。
三宝とは、一つには仏、二には法、三には僧、しかして最も武士道の発現地は法(真理)である。
法は諸仏能生の母で、諸仏の師とし給うところで、其の理の広大なる事は、凡俗輩が容易に領得する事の得難い道である。無色、無形にしてまた容易に知るところでない。
然れども、天地に満ちて塞がらず、言行の間にあって休まず、天道といい、真如と称え、真如実相と名付け、法性、心性、仏性と名付けるのである。
よってこれに随順奉行するのを至善ともいい、道徳とも称えるのである。
下には父母、親類、その他一切衆生の恩を受け、上には国王の宏恩によってこの世に存在すると雖も、もし内に生まれながらに持った仏性を開発して、外に十善の正道を教示し給うものがなかったならば、ただ禽獣と差別する事は出来ない。
このような有様では、何によって安心立命の大盤を求める事が出来ようか。
然るに我等は、幸いにも仏教流布の国に生まれ、三世因果、善悪応報の欺く事の出来ない教理を被る事を得て、家庭に、国家に、社会に、吉凶の典礼、交際の信義、千載伝わって国風をなし、上下敬愛、慈悲道徳のいたって重要なる事を知り、強慾・私情の恥ずべき事を悟り、貪・瞋・痴の三毒は身を焦がす熱火であり、小慾知足は家を富ますの福音なる事を信じ、父祖の遺伝、応化作用により、諸般の節義・感情・風俗をなして習慣を作った事、悉く仏教の教理薫陶の賜でないものはない。
三宝の如きは、凡俗輩の了解に苦しむものであるが、まず手近く論ずれば、己の心は心そのものの生まれつきで、他に求めるべきものではない。
一切の衆生は等しく用足りて、欠陥がないとはいっても、無始無明の妄想にとり憑かれてこれを理解しないので、諸仏、菩薩、諸天、善神即ち皇祖、皇宗大神その他八百万神は、正しくこの理を覚悟し給い、我等凡俗の為、百方力を尽くさせ給い、其の方便道をもって種々の形像を表し、諸種の言語をもって、三毒五慾を除き、無我の真理を開示し給い、忠孝仁義の事瞬時も忘れてはならない事を教示し給うた。
見られよ。世人が神と尊び、仏と敬う尊称はただその形の上の称号にて、その実体に至っては神仏一体一貫の道である。そうして今日の我等凡人は諸神諸仏の作り給うた慈悲深恩の内に恵みを受ける事、此処に幾千年であるか。そうして東方君子国の威名を保ち、現に我が国民が世界に闊歩しても恥じない理由は、即ちこれが為である。
我々は深くこの教理に向かって感謝の意を表すると共に、厚く三宝を尊信して、遍く法界の衆生にこの教益の恩沢を施す様心掛けねばならない。
これが即ち日本武士道の発覚所である。また発達地でもある。
なんと由来の深遠広大なものではないか。このような道理がなお理解せられないという連中を見れば、拙者は一層不憫でならない。実に憐れむべきものと思われてならない。

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という訳である。
言行録の他の箇所を読んで見ても、この「四恩」程纏めあげられた武士道論はない様である。まあ、紙面(?)の関係もあって、引用はこの程度にしておくが。


仮に他の部分の引用をしたとしても、どうもこの鉄舟さんの思想は、かなりな尊王思想に偏っており、読んでいっても、「ちょっとそれは武士道とは関係無くて、只単に武士道の話に託けて天皇万歳と、世間に対する愚痴を喋ってるだけなんじゃねえんか。」という疑いが頭を擡げてきそうな話ばっかりである。


とか思っていると、上述の如く「この話の分からん奴は不憫な奴」「実に物知らずだから、拙者が漸次説き伏せよう。」とか怒られるのである。


因みに鉄舟さんがそういう人を説き伏せた逸話は載っていない。


総体、鉄舟の武士道観は、「皇室を中心としてわが国に発達した特殊道徳」であるといってよい。


それはある意味間違いではないのだろう。しかし、常朝「葉隠」の様に「奉公奉公」と二言目には言うタイプの武士道論とは全く趣を異にする。


この言行録を古本屋から買ってきて、再び世に出したこの本の著者も
「鉄舟の武士道も、もし学問的な、思想史的な研究書として見ようとするなら、寧ろ欠点だらけであり、ナンセンスでさえあろう。」
としながらも、
「『旧武士』を脱皮して『新しい武士』として生まれ変わろうとする、其の思索の過程の記録として見るならば、これほど貴重な文献はまたとない。」
と言っている。


ところでこの本は、鉄舟言行録の章毎の末尾に、「勝海舟評論」というのが付いている。


鉄舟の言動に対して、海舟がイチイチ評論するのだが、勿論海舟が鉄舟の言動に反論する事など皆無である。
寧ろベタ誉めと言って良い。


海舟は、鉄舟とほぼ同等の価値観を持っていたと判断して差し支えないものと思われる。
(同書には「鉄舟と海舟の武士道観の違い」と題して、頑固な鉄舟の武士道と、流動的な海舟の武士道の違いを挙げてはいるが。)


一方、鉄舟と西郷南州が互いを人物として評価し、またプライベートでも付き合いがないではなかった事は知られている。


無論海舟も、南州の事をベタ誉めしているのは言うを俟たない。


この三人は従って、当時「武士として斯くあるべき」という理想に於いてほぼ一致していたのだろう。


んで、その一角の海舟が、福沢諭吉の事をけなしている箇所があるのが面白い。


一方で幕末の英雄的扱いを受けた人間が、現在一万円札の顔にもなっている、超人気者の福沢さんをけなす・・・。


一種爽快感をも覚えるこうした言動を読めるのも、この言行録の面白いところである。                                       
(了)

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