拈華微笑 南無父母不二佛

何でも仏教徒として思いついたことを書きます

偲び草 令和元年秋 雲居杣人

九月十五日 雲(雲居杣人くもいのそまびとの雲)三首



 白妙の 足乳根の母 独り寝
  寝息も去りて 不二ふにの生き死に


 息去りし 垂乳根の母に 添ひ寝して
  現うつつも夢も 不二の息する


 生老死 病むも病まぬも 不二の慈悲
  父母未生ぶもみしょうなる 無我の理ことはり


九月十七日


 爪つま切りて 巻き爪づめ深き 母の指
  わが手に同じ 爪つめを見て泣く


 忘れじも 忘るゝもなく 偲しのぶ草くさ
  泥の中こそ 蓮華はちすはな咲く


 忘るゝも 忘れじも無し しのび草ぐさ
  泥の中こそ 白蓮華びゃくれんげ咲ぐ



九月十八日


 親孝行 仕度したい時には 親は亡し
  成らぬ孝行 するが孝行



九月二十二日
佛壇を整理していて、母の母すなわち我が祖母白濱よし乃が平成四年一月十二日行年八十六歳で鹿児島県出水市において亡くなったとき、母が詠んだ歌ありき。


 睦月の いづみヶ里に 鶴舞いて
  母はしづかに 天に昇りぬ   悦


母親は男児も女児もわが身を分け与えて生み出す母なる大地だから、子が母を亡くしたときの悲しみは深い、とこのたび自分の母が亡くなってつくづく無常の風が身に沁みた。


これに勝る悲しみとは親がわが子を自分より早くに先立たれて失ったときである。この世で最も辛いことである。


男はわが身を分けて子を産むことがないから、子にとって父の死はさほど悲しくないが、母の文字どおり分身が子の身体そのもの(無我)であるから、この世において母との別れは無我のわが身が割り裂かれるに均しい辛さなのであろう(別途後述)。


睦月の読みはわからないので勉強中。
むつきの、であれば四音であり足りないが、睦月なる、と直せば五音であるが。きさらぎと詠みまちがえたのかもしれぬが、母の両親は学校教師であり、学校勉学成績優秀であった母悦子がそんな初歩の間違いを犯すはずもなく、また私も戦後生まれゆえ睦月のほかの読みを知らないので確かではないすなわち二鹿、じゃなかった不確か。



 二鹿ふたしかは頴娃町ではなく岩国であるが、父と母にとっては鹿児島よりも縁は深いのである。遠くの親戚より近くの他人なのだ。藤島公とおる様世志子よしこ様ご夫妻のことである。




 睦月の、は、むつづきの、と読むのではなかろうか。
と、今思ったが、これもふたしか。



長月の 推して敲たたいて 不確かで
 あれも二鹿 これも二鹿   雲




 閑話休題、
祖母の戒名は『法諱釋尼妙蓮位』であり、浄土真宗であろうか。



 父も母も蓮の花が大好きであり、さらにここ岩国の岩国蓮根は日本一美味でしかも蓮根の穴の数がよその蓮よりもひとつ多い九つであるから、正月の縁起物としても『見通しが良い』として喜ばれる。


 黒磯の上村清二きよじ様は岩国一の蓮根作りの名人であり、齡九拾の坂を越えても草を刈って堆肥を入れ蓮根は手掘りで名人芸を発揮して疲れ知らずである。蓮根の手掘りは上村さんにやらせてもらったが畑仕事でいちばん難しく重労働であると思った。



 閑話休題、
ちなみに母の父すなわち我が祖父岡村精治は昭和一〇年六月一日没であり、逝去時松原尋常高等小学校の教頭職を奉職中の丹毒による急死であった。抗生物質が無かったためである。自宅で死去したが、そこは頴娃町別府水成川えいちょうべっぷみずなりがわの岡村姓が密集するバス停の名前も「岡村」で、岡村納骨堂がある場所である。その時は母七歳、別府番所ばんどころ小学校一年生である。祖母よし乃の波瀾万丈人生の幕開けであった。



 祖父岡村精治の戒名は『戎覚禪定居士』であり禅宗であろうか。



 母悦子とともに松原尋常高等小学校を何度か訪れたが、『亡師亡友の恩に報ゆる碑』があり心を打たれた。また、番所小学校での母の同級生西村智治ともはる氏が後に頴娃町別府番所の岬に伊勢エビ莊を創建したのである。伊勢エビ莊の海岸に伊能忠敬絶景の碑があり、ここから眺める開聞岳かいもんだけと長崎鼻ながさきばなは当に絶景なり。





不去不來ふこふらい 死ぬも死なぬも 父母ぶも未生
 御庄みしょうの里に 微笑花みしょうはな咲く
   雲



 岩国市御庄のベルコ東山口岩国御庄出張所の皆様と中原貢所長様、なにからなにまでお世話様になり放しですが、本当にありがとうございます。この場を借りて心よりあつく御礼申し上げます。



 美和の里にも 彼岸花咲く (発句)



白蓮華 去りて秋空 天高く (連歌)




 昨日買ったキャットタワーからいつの間にか仏間で花と写真を見つめて机の上に坐っている。
姿勢は実に禅定で正しい。
四つ足だから姿勢の禅定は当たり前か。
悲しいかな、畜生の身では微笑することが出來ないのだ。



『仏のたまわく、大地の土の多きが如く、


この世に生をうくるもの多けれど、


中にも人間と生るるは


爪の上の土の如く稀なり。


この故に人のこの世に生まるるは、


宿業を因とし、


父母を縁とせり。』



 一切衆生は父母の縁を享けて男女の別でこの世に生まれてくるが、
仏法の大慈悲に因って『男女不二』である。
一切衆生悉有仏性
草木国土皆悉成仏



臨済宗聖典『父母恩重経ふぼおんじゅうきょう






 母の水子が猫のみいちゃんに生まれ変わって、

https://hougakumasahiko.muragon.com/entry/31.html
こんどの今生は母を順序よく見送ったみいちゃんの寂しさを慰めるために、
犀の河原地蔵和讃を読み真言おんかかかびさんまえいそわか三反して鈴を鳴らした、

九月ながつき二十二日の夜である。





雲二首

みい猫や 花に対むかひて 仏の坐
 南無や大悲の 地蔵観音





長月の 明日は彼岸と みいぼとけ
 犀
さいの読経と 鈴りんに聞き入る













閑話「消費税廃止」
「避妊はパイプカットで行わねばならない」
保護猫の不妊手術は果たして猫を愛護しているのか。
愛護ではなく虐待しているのだ。
なぜか。
それは女性蔑視の、「雌だけ」避妊手術するからである。
女性生殖器は体内にあり、男性生殖器は体外である。
女性に避妊手術をするなら必ず開腹手術が必要だが、男性避妊には開腹手術はない、
すなわち開腹すれば大きな痛みと合併症があるのに、開腹がなければ痛みも合併症もないのだ。
つまり避妊において女性だけが大きな痛みを施術者から加えられる。
これが女性虐待である。
開腹して子宮や卵巣に手術でアプローチするよりも、
開腹せずに体外で皮切して輸精管を縛るパイプカットは痛みもなく合併症もない。
何故保護猫団体は雌にだけ避妊手術を行うのか。
雌猫の不妊手術は3万円から5万円らしい。
対して雄猫のパイプカットは約1万円前後、らしい。
猫の手術に局麻は不可能だから、どちらも全麻で行う。
手術時間は麻酔時間だからどちらも同じ時間がかかる。
客単価は雌が雄の3倍ないし5倍。
避妊は両性の責任である。

女性だけや男性だけの責任はあり得ない。
ヒポクラテスの誓いにこうある。
「・自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない。」


「患者」を「両性責任の避妊」と読み替えれば、獣医は避妊においてより害が少ない雄猫のパイプカットを選択しなければ、
ヒポクラテスの誓いに背くことになる。
誓いを破ってまで雌の不妊手術を繰り返すことこそ、ヒポクラテスが言い切った『この誓いを破ること』が、

医聖ヒポクラテスが言う医の倫理の『不正』なのだ。
よって獣医は医の倫理に従って、雄猫のパイプカットのみを行わねば、
医聖ヒポクラテスにとって不正で卑賤な『金の亡者』に成り果てたということ。保護猫団体も雌の避妊より雄のパイプカットに費用を投入しましょう。



『消費税を国会議員に国会で廃止決議させて地球から廃絶しよう』
パイプカットも安くなるし術者の利益も上がるからね(笑い)



消費税 民も議員も みな貧民
 濡れ手に粟の 政商官僚   雲







九月二十五日
 ひまなので朝っぱらからこないだの大風で家の廻に飛んできた木の葉を竹箒で掃除していたら、
濃い緑の生け垣に一輪薄い青紫というより濃いめの水色に薄紫を刷いた姿美しい朝顔が咲いていたので一句。



 彼岸過ぎ 秋天あきぞら開く 朝顔や   閑





もう一句。



 天高し あとは野となれ 山となれ    天(風流風天の天)





 道路掃除をしていたらエンゼルさん(斜め隣の美容室の女主人)がやってきて、いなり寿司三つとショウガをくれた。美味かった。
 御礼に家に有ったかぼちゃととうがんを差し上げた。



寿司三つ 礼瓜二つ 南京冬瓜 (字余り)   閑



 エンゼルさんの田舎は今日から稲刈りだそうな。
手伝わんの?と聞いたら、いやいね、という(岩国弁でいやよ)。
稲を刈るより頭を刈るんか、いうと笑って帰った。きのうバリカンでてっぺんだけ三分刈りの残り全部一分刈りにしてもらったばかりだった。10分で手早くやっつけてもらって、今日は汗をかいても風が吹いて頭が清々しい。


稲刈りを 手伝うよりも 坊主刈り    風



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これ以上書くと長くなって読みにくくなろうから、『偲び草 二之巻』を作って、
続きはそちらへ書き、その後は同じように巻を改めて続けてゆくことにする。

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