拈華微笑 南無父母不二佛

何でも仏教徒として思いついたことを書きます

「佛陀を繞りて」山崎精華:昭和2年11月25日大雄閣発行《無怨能勝怨》(太陰暦)

無怨能勝怨  (太陰暦)
『佛陀を繞りて』四(六四~八〇頁)  山崎精華譯著 大雄閣出版(昭和二年十一月)



 拘睒彌(コーサムビ)の比丘等は闘訟を好み、諸の惡事をなし、戲論(げろん)に耽り、ともすると刀杖を加へることがあつた。


あるとき佛はこれを誡しめられた。


『比丘等よ。


汝等は互に諍論を愼み、辨(わきま)へずして事の是非をさだめてはならない。


相共に和合し、一師の侶(ともがら)であれ、


水乳を同じく汲むもの何ゆゑに相諍(あらそ)ふのであるか』


『世尊よ。ご心配には及びません。私共はよくその理を慮り、過状の罪を辨へてゐます』


『汝等は王侯を望むで道を修めるのか、


世間の恐畏(くい)のために道を修めるのか』


『さうではありません』


『比丘等よ。


汝等は實(まこと)に生死の苦を離れ、無爲自然の涅槃を求めんための故に道を修するのであらう。


然し、五蘊假(か)りに和合して成れる肉體は無常であつて保持し難い・・・・』


『さうであります。さうであります。世尊の仰(おほ)せられる通りであります。
私共一族の出家しましたのはその無爲道を求め、五蘊の身を滅するがためであります』


『比丘等よ。


然らば汝等は相闘訟して拳をまじへ、または是非を判じ、惡聲を放つやうなことがあつてはならない。


汝等は先づこのことから行ぜよ。


まづ法を同じくし、師を同じくして、身口意の行を成就しなければならない。


また諸の梵行者を供養し、尊重しなければならない』


『世尊よ。それは私共のしなければならぬことであります。決してご配慮に及びませぬ』


『愚人共よ、汝等は如來の語(ことば)を信奉しないのか、


如來に語をさからふとき汝等は自ら邪見の報を受けなければならない。


昔しかういふ譚(はなし)がある』


 そこで佛陀は次のやうな話をし・・・・


・・・・(增一阿含經第十六巻・・・・)



 昔舍衞城に長壽(デイガアーユ)といふ王があつた。
聰明叡智であつて刀劍の法にも明るくあつた。
しかし、寶庫には寶物乏しく、財貨も豐かでなかつた。
護城の兵も多からず、輔佐の臣も少かつた。


そのとき波羅奈國(パーラーナシー)に梵摩達といふ王がゐた。
彼は勇猛剛健であつて向ふところ征服せざるものがなかつた。
また七寶財錢は庫にみち、四部(象馬車歩)の兵、臣佐皆充實(じうじつ)してゐた。
彼は、舍衞城を攻略するはこのときであると考へた。
そして直ちに軍旅を興した。


 長壽王は、これを聞いて方針を設けた
『我れ物と人とに富まず彼れ兵衆多しといふも、一夫の力はよく彼れが百千の衆に敵することが出來る。
しかし、衆生を殺害(ころ)して戰に勝つことは、たヾ一世の榮をなすのみであつて、その罪業は萬代に盡(つ)きない。
故に我れは今、此城を出でて他國にゆき、闘諍(あらそひ)をなからしめるであらう』と王はかく考へた。
そしてひそかに彼の第一夫人と一人の将相を倶して舍衞城を出で深山に匿(かく)れた。


 梵達摩は軍を交へることなく舍衞城に入り、その國を治めた。


 長壽王の夫人は懐姙した。
彼女は臨月に夢をみた。日初彼女は都市の中にあつた。
五尺の刀を執つてゐた四部の兵が彼女を囲繞してゐた。
彼女はそこで一人のつき添ひもなくて男兒を生むだ。
彼女は驚いて夢よりさめ、王にこのことを申した。
王は夫人に云つた。
『夫人よ。この深山にゐて、どうして都市で産をしなければならぬのか。
鹿の仔を生む如く爾(おまへ)もこの山にて生めよ』


 しかし、夫人は聽かなかつた。七日のうちに願が叶はなければ死ぬると云つた。


 王はその夜變装して舍衞城に出た。


そのときもと王の大臣であつて王が甚だ愛憐してゐた善華が丁度街にゐて王に遇つた。
彼はつくづく王を眺め一度は過ぎ去つたが、昔日の王を憶出して歎息し涙を垂れて再び道をひきかへした。
王は彼を密かに喚び止め、人眼を避けた場所につれてかく云つた。
『善華よ。汝(おまへ)にたのみたいことがある。誰にもしかし云つてはならない』
『大王よ。仰せにしたがひます。大王のたのみとは一體何ごとでありますか』
『汝は必ず私の仰せを聽くのか』
『大王よ。大王の敎ならば何ごとでも致します』
 そこで王は夫人の願のすべてを語つた。善華は王の願を諾した。王はまた秘に山に還つた。


 善華はそしらぬ顔に梵摩達王のところに行つた。
そして、七日の中に王の兵衆象馬車歩兵の勢力を檢(しら)べたいことを申出た。
王はこれを許した。
そこで彼は四部の兵を舍衞城の都市に集め、秘かに長壽王の夫人を招いた。
夫人は夢の如く兵衆を眺めて歡喜した。
そして天幔(テント)を張らしめて産褥につき、日出づる時端正無雙の男兒を分娩した。
彼女は兒を抱いて山中に還つた。
王は彼女の意を汲むで『長生』とこれに字(あだな)した。



 長生八歳のとき長壽王は小緣あつて舍衞城に出た。
そのとき彼の故臣劫比といふものが王に遇つた。
彼は王の頭から足まで熟視し、そして梵摩達王のところに行つてこのことを告げた。
梵摩達は直ちに左右の諸臣に長壽王を捕ふべく命じた。
諸臣は劫比を伴つて城中を隈なく捜し、王を捕へて梵摩達のところに連れて行つた。


 このことが國中に知れた。
夫人も復たこれを聞いた。
彼女は王と生死を共にしやうと考へた。
そして太子長生を倶して舍衞城に入つた。
そこで彼女は長生に云つた。
『汝はこれから獨りで生活してゆきなさい』


 長生はたヾ默つて何にも云はなかつた。
夫人はそのまゝ長生を殘して梵摩達王のところに行つた。
王は喜んだ。
そして夫人と王とを四衢道(よつつじ)に將(ひい)て四分裂きにせよと群臣に勅した。
群臣は王の勅を受けて二人を縛し、舍衞城を繞(めぐ)つて萬人にこれを見せしめた。


 城中の民は皆心を痛めた。
長生もその中に居て父母を觀た。
長壽王はそのとき人知れず長生を顧み、彼に告げて云つた。


『長生よ。
汝は人の長を見るなかれ。
また人の短を見るなかれ』


 そしてまた偈を説いた。



怨は怨と息(やすむ)ことなし。


古(いにしへ)よりこれは則(ならはし)である。


怨なきはよく怨に勝つ。


この法終(つひ)に朽ちることなし。



   怨々不休息
   自古有此法
   無怨能勝怨
   此法終不朽



 諸の群臣は相謂つた。


『長壽王は甚だ愚惑(おろか)である。
しかし一體長生太子といふものは何ものであらう』


 長壽王は群臣に言つた。


『私は決して愚惑(おろか)でない。
ただ智者あつて私の語を明(あか)すであらう。
諸人よ。
私は一夫の力と雖もよく萬百の衆を破することが出來ることを知つてゐる。
しかし衆生のこれに類して死するものも算なきであらう。
今はたヾ一身の故を以て歴世の罪を重ねてはならないと、かく私は思惟する故に縛についたのである。
怨みと怨み休息(やすみ)なきは古よりの則(ならはし)であり、

怨なきのよく怨に勝つことも亦朽ちざるの法である』


 群臣は長壽王及夫人を四衢道に倶ゐ、彼等を四分に裂いて捨てて還つた。


 日暮かた童子長生は薪草を拾ひ集め父母の遺骸を荼毘した。
梵摩達は高樓(こうろう)にあつて遙かにこれを眺め、これ必ず近親の業(しわざ)であると認めて群臣に命じて再び捜さしめた。
しかし、童子の姿はその暮靄の中にいつ方ともなく消えてしまつた。



 國をとられ、罪なくして父母は殺(ころさ)れた。
それを眼(ま)のあたり眺めた長生は、彼の胸に深く父母の怨をきざむだ。
しかし、今は總て詮なき術(よすべ)である。
彼は先づ彼れの生長(おひたち)を念慮しなければならない。
彼は弾琴の師をたづねた。
『師よ。私は弾琴の術を學びたうあります』
『童子よ。汝の姓は何といふか。父母はいづこにあるか』
『私には父母はありません。私はもと舍衞城にゐました。父母はそのとき早く逝くなりました』
『それは氣の毒である。よし私は汝に弾琴の業を敎へてやらう』
 かくて、師は彼を彼の家に入れた。


 長生は素(もと)より聰明であつた。
彼は弾琴歌曲を學び、間もなくその技に上達した。


 あるとき彼は琴を抱いて宮廷に入り、象厩(うまや)の中で琴を弾じ淸歌を吟(うた)つた。
梵摩達はこれを聽いた。
そして臣佐(しもべ)に命じて彼を索(もと)めさせた。
やがて王の前につれられた唄手は可憐な美しい童子であつた。
王はその少年を直ちに宮廷に入れた。


 王は少年の唄を愛した。
少年の容姿(すがた)を愛した。
少年の聰叡を愛した。
そして、珍寶(たから)の倉を守らしめた。
少年はまたよく王に仕へ、王の意にさからはなかつた。
また諸の妓女の望みによつて彼女等に弾琴を敎へた。
そして自らは象馬の術を覺えた。


 あるとき梵摩達は園林に出遊して相娯樂したことがあつた。
長生はそのとき王の寶羽車の御者となつた。
彼はわざと四部の兵より離れて王車を御した。


 王はそれをとがめて云つた。
『童子よ。軍衆は何處にあるか』
 彼はそしらぬ顔で答へた。
『大王よ。臣も知りませぬ』
『吾れは疲れた。暫らく憩まう』


 長生は車を停めた。
彼等は車を下りて草原に腰を下ろした。
梵摩達は長生の膝を枕にして眠りに落ちた。


 長生はそのとき戴天の怨に蘇つた。
『この王は私の國を褫(うば)つたのだ。
この王は罪なきに私の父母を殺害したのだ。
王は私の戴天の仇である。
このときを外していつ怨が報ぜられやう。
私はいま王の命根(いのち)を絶たう』


かく彼れは考へた。
そして右手に劍を抜き左手に王の髪を捉へやうとした。
そのとき彼の父の最後の言葉が響いた。
『長生よ。汝は人の長を見る勿れ、人の短を見る勿れ』


 また偈が響いた。
  『怨と怨は息(やす)むことなし
  古よりこれは則(ならはし)である。
  怨なきはよく怨に勝つ
  この法終に朽ちることなし』


『私は此怨を捨てやう』かく考へて彼は劍をおさめた。しかし怨みはまた蘇つた。


『この王は私の國を褫(と)つたのだ。この王は罪なきに私の父母を殺したのだ。王は私の戴天の仇だ。怨を報ゐるのはこのときだ。よし私はいま王の命根を絶たう』


 彼はまた劔を抜いた。
王の頭髪を捉へやうとした。そのときまた父の言葉を憶出した。
『長生よ。汝は長を見る勿れ、短を見る勿れ』
  『怨と怨は息むことなし
  古よりこれは則である。
  怨なきはよく怨に勝つ
  この法終に朽ちることなし』


 彼は再び劔をおさめた。


そのとき梵摩達は身懼(みぶるひ)して眼を醒した。
王の顔は蒼白であつた。
『大王よ。どうなされました』
『童子よ。我は恐ろしい夢を見た。その夢に長壽王の子が現はれて、劍を抜いて我を殺さうとした』


 長生はさては知られたとおもつた。
彼はやにはに劍を抜き王の頭髪を捉へて云つた。
『長壽王の子長生とは私である。王は私の國界を犯し、罪のない私の父母を殺した。
王は私の怨讐(かたき)である。今その宿怨(うらみ)を果さねば何日そのときがあらう』


 梵摩達は驚いた。そして童子に云つた。
『我の命根はいま全く汝の掌中(たなごころ)にある。たヾ舊怨を捨てて我の生命をたすけてくれ』
『私は汝を活かしても汝は必ず我が生命を絶つであらう』
『長生よ。我をたすけてくれ。我は決して汝を殺しはしない』


 長生は王と相互に濟(たす)けることを誓って三たび劍をおさめた。
梵摩達は長生に云つた。
『長生よ。王城へ還らう』


 長生はそこで再び寶羽車を御して、梵摩達と共に舍衞城に歸つた。
そこで梵摩達は群臣を聚(あつ)めて言つた。
『卿等よ。もし長壽王の子がゐたならば汝たちは何をなさうとするか』


 或るものは手足を斷(た)てよと云つた。
或るものは身を三分せよと云つた。
或るものは直に殺せと云つた。


そのとき長生は王の側にゐて正心に思惟(かんがへ)てゐた。
梵摩達はやがて長生を招き群臣に言つた。


『長壽王の子長生太子とはこの人である。
卿等は再びかくの如きの暴言をなしてはならない。
長生太子は我の命を活かした。
我も亦太子を活かすのである』


 群臣は未曾有と歎じた。


 しばらくして梵摩達は長生に問ふた。
『長生よ。汝(おまへ)はさきに我を殺すことが出來たのに、何故に殺さなかつたのか』


 長生は應(こた)へた。
『大王よ。それには因緣(ことわけ)がある。
父王が四衢道に運ばれたときかういはれた
「汝人の長を見る勿れ、また短を見る勿れ」
「怨と怨は息むことなし。古よりこれは則である。
怨なきはよく怨に勝つ。この法終に朽ちることなし」

そのときに王の群臣は狂惑(おろか)の言であると云つた。
父王は群臣に語つた。
「卿等よ。賢者あつてよくこの語を明(あか)すであらう」と。


私はその父王の言を憶出したので王の命根をたすけることが出來たのです』


『汝はよく亡父の敎勅を守つた。汝は甚だ奇特である』


 梵摩達は再び長生にたづねた。
『長生よ。汝のその言葉には猶ほ解し難いところがある。その義を解いてくれ』


『大王よ。それはかうである。
梵摩達王は長壽王を殺した。
長壽王の群臣中その親しきものが梵摩達王を殺す。
次にまた、梵摩達王の群臣中の或るものが長壽王の臣を殺す。
かくして怨は怨を結んで永く斷絶しない。
もしその怨を斷たうとするならば、たヾ人に怨を報ずることをやめることのみである。
私はこの義(いみ)を知ることが出來たので王を害しなかつたのです』


 梵摩達はこの義をきいて歡喜踊躍した。
そして長生の聰叡を今更に知り、自らの罪業をはじめて省みた。
彼は自ら天冠をぬいで長生に與(あた)へ、女を嫁し、舍衞城の國土人民を還して長生に領せしめ、自らは波羅奈の故國に住(とどま)つてその地を治めた。・・・・



・・・・
・・・佛陀は(諍争(あらそい)を止めぬ拘睒彌(コーサムビ)の比丘等に)このやうに話をしてかく云つた。


『比丘等よ。


國をあらそうは王者の一つの慣はしである。


そこにも尚、しかし、相忍んで(長生と梵摩達の如く)傷害しなかつたことがある。


況んや、汝等比丘は、


信堅固を以て出家學道し、貪慾(とんよく)、瞋恚(しんい)、愚癡(ぐち)の迷惑を捨てなければならぬのである。


しかるに汝等は今復た諍競して和順ならず、相忍ばずしてまた懺改しない。


比丘等よ、さきの(長壽王長生太子の)因縁(ことわけ)により、


諍闘の宜しきに非(あら)ざるを知り、


よく、一師同乳の侶(ともがら)として、相和順してゆけよ



   闘なく諍をやめ


   慈心に一切を憫(あはれ)み


   一切の患(わづらひ)をなみする  


   これぞ諸佛の歎譽するもの。



 比丘等よ。


それ故にまづ忍辱の行を行ぜよ』



『世尊よ。御配慮に及びませぬ。私共はこの法を分明(わきまへ)てゐます』



 佛陀は尚この懇切な敎の通じないのを知って、拘睒彌比(コーサムビー)に愛憎し跋耆(ヴァッジ)の國へ去つた。




ノート
出處 大正蔵經第二巻阿含部下增一阿含經第十六   



転記者註
佛陀の語(ことば)の時系列に合わせて、訳著者本文を易えずにただ六七頁を八〇頁の後の最終段落とした。

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