拈華微笑 南無父母不二佛

何でも仏教徒として思いついたことを書きます

十二因縁

「仏陀」塚本啓祥著 教育新潮社1969年発刊 フリドブックスp94
釈尊の教え四聖諦(ししょうたい)「苦集滅道」のうち「集諦(じゅうたい、じったい)」の「十二支(十二縁起、十二因縁)」について塚本師の解説です。
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・・・仏陀は「苦」を滅するために、苦を生ぜしめる種々の条件を思索した。・・・


 十二支とは無明(むみょう)・行(ぎょう)・識(しき)・名色(みょうしき)・六処(ろくしょ)・触(そく)・受(じゅ)・愛(あい)・取(しゅ)・有(う)・生(しょう)・老死(ろうし)である。


この支分は「無明を縁として行あり、行を縁として識あり、乃至、生を縁として老死あり」と因から果へ順次に思索せられる。


また「老死は生を縁とし、生は有を縁とし、乃至、行は無明を縁とす」と果より因へ逆次に思索せられる。


また「無明滅するに縁(よ)って行滅す、行滅するに縁って識滅す、乃至、生滅するによって老死滅す、故に憂悲苦悩滅す」という思索の過程も示される。



 そこで十二支の意味と成立の関係について説明しよう。


(1)無明とは心の迷闇無知で、これによって種々の作為が起こる。この心の作為を(2)行という。ゆえに無明を縁として行ありという。


また、心の作為は、(3)識、すなわち識別・意識を生じる。ゆえに行を縁として識ありという。


次に、(4)名色とは名称と形態あるもの、すなわち個体をいう。仏教においては、認識以前に存在する物自体を措定しないで、それぞれの個体は、識によってはじめて存在の意味をもつとするのであるから、識を縁として名色ありという。


次に、(5)六処は眼(げん)・耳(に)・鼻(び)・舌(ぜっ)・身(しん)・意(い)の六種の知覚器官で、これは知覚の対象たる個体があってはじめて成り立つのであるから、名色を縁として六処ありという。


そして、知覚器官と知覚の対象との接触によって知覚すなわち感受が成り立つので、六処を縁として(6)触あり、触を縁として(7)受ありという。


さて、感受によって対象に対する渇望、すなわち、(8)愛(渇愛)を生じる。したがって、受を縁として愛ありという。


また、対象に対する渇望は、そのものに対する取著、すなわち固執を生じる。ゆえに愛を縁として、(9)取ありという。


次に、対象に対して欲望をもち、それに固執している姿がわれわれの生存、すなわち現実世界である。ゆえに取を縁として、(10)有(=生存)ありという。


そして、われわれの生存は、(11)生をもってはじまり(出生)、(12)老死をもって終わるので、有を縁として生あり、生を縁として老死ありと説くのである。


 要するに、人生の苦は執著(しゅうちゃく、しゅうぢゃく)に由来するが、その執着は生存に対する渇愛によって生じ、その渇愛は、さらに無明に由来すると教えるのが十二縁起説である。


かくて(苦諦を滅する)集諦の認識が成立する。・・・



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次に仏教伝道協会出版『佛教聖典』用語解説から
十二因縁の最初の「無明』の解説を転記。



*無明(avidya)
 正しい智恵のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。その心理作用が愚痴(愚癡)であるという。学派によって分析、解釈はさまざまであるが、いずれも根源的な、煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものと把えられている。したがって、例えばあらゆる存在の因果を十二段階に説明する十二因縁説*では、最初に無明があると設定しているくらいである。生存の欲望の盲目的な意志と把えてもよいであろう。



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上記はブログ『株式日記と経済展望』
のコメント欄に掲載していただきました。
TORAさんありがとうございます。





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